早朝苫小牧港にやって来た私は、仙台からフェリーでやってくる教え子のS君の到着を待った。たまたま電話をしたことがきっかけで、気候も良いことだし、どうせなら北海道で会おうということになったのだった。心の片隅には、北海道は初めてだというS君に車の運転を任せ、こちらは助手席でのんびりと風景でも楽しもうという魂胆もあった。考えてみると、旅先で他人に自分の車を運転してもらい、助手席でボーッとするなんてついぞなかったことなのだ。
下船してきたS君を拾うと、互いの挨拶もそこそこに富良野目指して走り出した。北海道に滞在できるのはあと二日だけということもあって、どこでもいいから、気力と体力の続くかぎり走り回ろうということになったのだった。門別から富良野街道を沙流川沿いに北上、日高、占冠と通過したところでハンドルをS君に委ね、あとはひたすら心身を虚脱状態におくことにした。
南富良野町の金山を過ぎ国道三八号にぶつかったところで右折、そこからしばらく行った富良野市東南端の東山で左折した。倉本聰作のテレビドラマ「北の国から」の舞台として名高い麓郷方面へと続く道に入るためだった。この東山で左折せずにしばらく進むと南富良野町幾寅に到る。この幾寅というところは、私が初めて北海道の大地を踏みしめた想い出深い場所でもあった。
私には小学生の時以来文通を続けてきた定塚信男さんという一学年上の友人があった。もうずいぶんと昔のことになるが、定塚さんの結婚式に出席するため南富良野にやってきた私は、幾寅の駅で彼と初めて対面した。函館で青函連絡船を降り根室行きの列車へと乗り継ぐ際にコンクリート製の通路やプラットフォームを歩きはしたが、文字通りの意味で北海道の土を踏んだのはその時が初めてだった。
遠い日の回想にひたっているうちに、はや車は老節布に差し掛かり、それに合わせていっきに展望が開けてきた。雄大な十勝岳山麓高原に広がる大牧場や大農場を訪ねるなら、東山からこの山麓線に入り、老節布、麓郷を経て高原づたいに美瑛丘陵へと抜けるのがベあストである。昔と違って道路も素晴らしくよくなったから、初心ドライバーでも問題ない。
どこまでも牧草地や畑地の広がるゆるやかな丘の向こうには、真っ青な大空を背景にして白い雲がもくもくと湧き立っている。「あの丘を越えたところにはいったいどんな世界が待ちうけているのだろう?」――旅人の胸に哀愁の翳さえ帯びたそんな想いを湧き起こさせるのも、この一帯の風景の特徴だ。ヨーロッパの田園地帯の風景画に通じるものがそこにはある。
いまでこそ緑豊かな酪農地帯となっているが、定塚さんと私とが初めて対面した頃には、この近隣の開拓農家の生活はたいへんに厳しいものだった。「北の国から」の初期作品に描かれた辛く貧しい生活より、さらに過酷な現実と人々は向かい合っていたのである。当時、まだ若かった定塚信男さんは、自ら志願し、一級僻地と呼ばれる十勝岳山麓奥の分校の教師をやっていた。冬場には豪雪のため外部との往来がまったくできなくなるその分校で、彼は毎年六ヶ月近く生徒たちと共同生活を送っていた。親元を離れ長い冬を暮らす分校の生徒たちは、皆パイロットファームと呼ばれる開拓農場従事者の子供たちだった。
定塚さんは、冬場に緊急事態が生じたときなど、スキーを使い、猛吹雪の中をついて、命懸けで本校との間を往復していたようである。お蔭でスキーが上達し、教師になってすぐスキー検定で一級がとれたと笑っていたものだ。ある年の冬に定塚さんが上京したとき、お土産に何がいいかと尋ねると、子供たちと一緒に遊べるものが欲しいとのことだった。そこでデパートに行ってゲームセットを買い込み、それをプレゼントしたことなどがいまは懐かしく想い起こされた。
かつてはくすんだ色に包まれていた富良野一帯も、いまでは明るく恵み豊かな土地へと変貌を遂げた。定塚さんが寝食を共にして育てた子供たちの幾人かは、たぶん、いまではこの周辺の大農場の経営者になっているに違いない。もちろん、道路の整備が飛躍的に進み、どこの家庭も車を持ち、生活環境も驚くほどに向上したいまでは、一級僻地の分校などというもはなくなってしまったことだろう。定塚さんもいまでは旭川市に居を構え、同市の中学に勤務している。はじめ国語の教師だった彼は、その後、声楽を主とした音楽を本格的に学び、現在では北海道の大合唱団を指導する高名な音楽教師になっている。
ゆるやかな緑の起伏のどこまでもつづく風景に酔いしれながら走っているうちに、車は麓郷の集落に到着した。「北の国から」の撮影に用いられた建物のセットは、以前あった場所とは違い、麓郷の森という広い樹林帯の中に移されている。麓郷の森の入口には大型観光バスなどを何台も収容できる駐車場も設けられていた。これまで「北の国から」の撮影で用いられた各種セットの建物は、大木の生い茂る森の中に点々と配置されていた。S君とともにそんな森の中をめぐりながら、厳しさのなかに人一倍の謙虚さと温かさを秘めた倉本聰さんの姿をふと想い浮かべたりもした。
この地を舞台にしたドラマ「北の国から」と富良野塾の生みの親として、富良野という地名を全国的に広めた倉本さんの功績は大きい。もちろん、富良野は、雄大な自然の宝庫、ジャガイモ、カボチャ、トウモロコシ、メロンなどの作物の産地、ラベンダーをはじめとする珍しい花の栽培地、さらにはスキーの好適地として、昔から一部の人には知られていた。だが、それらが倉本さんの発信するドラマの世界と有機的、重層的に結びつくことによって、富良野の名は一躍全国的に知られるところとなったのだった。何事にも功罪はつきものだから、負の一面もそれなりにあったには違いないが、功のほうがはるかに大きかったことだろう。
かつて若狭大飯町の若州一滴文庫小劇場では、主催者で作家の水上勉さんを囲んで、毎年のように様々な催しが開かれていた。そんな折など、倉本聰さんは、筑紫哲也さん、永六輔さん、灰谷健次郎さんらとともに、トークショウによく登場しておられた。水上先生にはいろいろとお世話になっていたこともあって、一滴文庫で催し物があるときには、私自身も若狭に出向き舞台の裏方を務めていた。ある時、倉本さんが、富良野の麓郷で迎えた初めての冬の苦労談を披露されたことがあったのだが、その際の話の一端を突然私は想い出した。
ある日突然現れた地元の顔役みたいな人に、「どの方面の生産関係のお仕事ですか?」尋ねられ、一瞬躊躇したあと、手短に「ドラマの生産関係です」と応えると、相手は困惑したような表情を浮かべて去って行ったという。実際に富良野での生活に溶け込み、地元の人々の大きな信頼を勝ち取るまでには大変な苦労があったようである。
零下三十度に近い厳寒の日のこと、家中の水道を凍結破損させてしまい、トイレが使えなくなった倉本さんは、戸外に出て庭の雪の上で用を足すことにしたという。ところが、排泄したシロモノがたちまち固く凍りついてしまうなどとは想像もしていなかったため、うかつにも、その鋭く尖った先端部にお尻をおろし、ひどい怪我ををしてしまったとのだそうだ。ドラマの登場人物も、出演俳優そのものも、さらにはその舞台となる麓郷界隈も共に変化し変容していく名作ドラマ誕生の裏側には、人知れぬそんな苦労の数々が秘められていたのである。
麓郷をあとにし、布札別、十勝岳温泉、望岳台と経て美瑛方面へと向かう途中、十勝連峰を背にした広い畑の向こうに、ポプラの独立樹がポツンと立つお馴染みの風景にめぐりあった。青空にモクモクと湧き立つ積乱雲が、圧倒的な力感をもってその風景をよりいっそう印象深いものに仕立てていた。
「カレンダーの写真といっしょですね!」と、S君が感嘆の声をあげた。富良野や美瑛一帯の風景は前田真三の写真によって世に広く知られるところとなった。なかでも広大な畑地とそこに生えるポプラの樹、さらにはその背景の十勝連峰や勇壮な積乱雲などは、繰り返し繰り返し彼の作品のモチーフとなった。S君は、職場のカレンダーで美瑛丘陵の風景写真を目にして以来、是非とも北海道に行きたいと思うようになったという。その風景写真とやらも、前田真三撮影の作品だった可能性が高い。
ふだんなら、「ここの景色はカレンダーの写真といっしょですね」などといった感想を耳にした途端、「もうちょと違う言い方はないのかい?、お前いったい何のために旅してるんだ!」と文句のひとつも浴びせたくなるところだが、この時ばかりは私もへんに納得してしまった。前田真三の写真がそれ以外の表現を許さぬほど見事にこの地の風景を撮りきっているか、さもなければ、ここの風景が、誰の目にもほとんど変わりなく見えるほどに、鮮烈な特徴と確固たる存在感を持ち合わせているからなのだろう。
眼前に迫る十勝連峰を仰ぎながら望岳台周辺を散策し終え、美瑛丘陵を下り始める頃になると、みるみる天候が急変し、雨が激しく降りだした。この空模様では旭岳山麓を訪ねても仕方がないというわけで、とりあえず旭川目指して走りだした。そして旭川を走り抜け、層雲峡方面に通じる国道三九号に入る頃には、日も暮れてあたりはすっかり暗くなった。しかもそれに合わせるかのように雨足はますます強まり、上空に絶え間なく閃光が走る凄まじいばかりの雷雨となった。だが、物好きな我々二人 は、久々に出遭う桁はずれな豪雨の洗礼と、雷鳴轟く闇空に稲妻が描く造形の妙をこころゆくまで楽しんだ。洗車などまったくしない不精者の私にすれば、カー・ウォッシャーなみの水勢で叩きつけてくるその猛雨は、大いに歓迎するところでもあった。
そんな成り行きのなかで何気なく湯の滝の話などをしたところ、S君が是非ともこれからそこまで行って、自分も一風呂浴びてみたいと言い出した。内心ではヒグマが出ても知らんぞと思ったが、クマだってどうせ食うなら若くて美味そうな人間のほうがよいだろうから、こちらまで被害が及ぶことはないだろう。それならばというわけで、再度湯の滝に向かうことに同意した。
そこまではよかったのだが、そのあとでちょっとした計算違いに気づかされるはめになった。金曜の夕方のことだし、コースは主要国道伝いだから、まだ先にいくらでも給油所があるだろうというわけで、残油量三分の一を指す燃料計を横目に見ながら旭川を通過した。ところが、困ったことに、どこまで走っても給油所が全部閉っているのである。愛別町、川上町、層雲峡と給油所を探しながら走ったが営業中の給油所は皆無だった。層雲峡からさきは山岳路になるので、峠を越え帯広側の平野部に入るまでは給油所などなさそうであった。
だからといって旭川まで引き返すのも癪なので、燃料計を睨みながら、とりあえず山越えをし、帯広側の上士幌町を目指そうと決断した。上士幌まで行けば、そこで燃料切れになったとしてもなんとかなるだろうという算段だった。大雪ダム付近で国道三九号に別れを告げ、三国トンネルを抜けて糠平湖畔に続く国道に入ったが、視界はきわめて悪かった。雨はやんだが、相当に高度のある山岳地ゆえ濃霧が立ち込め、道路のセンターラインを除いてはほとんど何も見えなかった。大雪山連峰が右手に聳え、晴れた日なら夜間でもそれなりの展望を楽しめるところなのだが、この晩にかぎっては、それどころの話ではなかった。
なんとか上士幌市街に辿り着いたまではよかったが、まだ午後九時前だというのに給油所はやはりどこも閉っていた。湯の滝のあるオンネトーに向かうには足寄方面を目指さなければならなかったが、その様子だと足寄付近の給油所もみな閉っていそうだった。いろいろと検討した結果、方向は違うが帯広市まで行くしかないということになった。往復で百キロ以上の無駄道になるし、そもそも燃料が帯広までもつかどうかも怪しかったが、やむを得ないという判断だった。燃料切れだからとJAFにSOSを求めるのは、いくらなんでも情けなさすぎたし、たとえそんなことになるにしても、JAFの出動基地のある帯広にすこしでも近づいておいたほうがよさそうであった。
点滅していた油量モニターの赤ランプがとうとう点きっぱなしになり、燃料切れ寸前の状態に陥ったが、幸い、辛うじて帯広の中心街にある給油所に滑り込むことができた。給油を受けながら、係員にそれまでの経緯を話すと、最近は北海道の給油所の場合、都市部の大規模ステーションを除いては、ウィークデイでも夕方六時になると閉ってしまうとのことだった。
無事息を終えた吹き返した車のエンジンを煽りたて上士幌まで引き返した我々は、そこからさらにオンネトーに向かって爆走し、午前零時頃に湯の滝入口の駐車場に着いた。夕刻の豪雨が信じられないほどに上空は晴れ渡り、無数の星々が砥石で磨き上げたような鋭い光を発していた。
その前々日の夜遅く、一人だけで訪ねた時と同様に、漆黒の闇に包まれた深い樹林の中を歩いて我々二人は湯の滝へと向かった。口にこそ出さなかったが、当初は、何が出てもおかしくないほどの真っ暗闇にS君が臆したりしないかと内心ひそかに気をまわしたりもした。だが、学生時代一応は探検部に所属していたというだけのことはあって、ほどなくその暗さに適応し、闇の世界のもつ魅力をそれなりに楽しみはじめたのはさすがだった。
湯の滝の露天風呂の入り心地は相も変わらず素晴らしかった。すっかり感激した様子で湯船に身を沈めるS君の脇で、私は湯につかったまま手にしてきたハーモニカを吹いた。「青い山脈」や「荒城の月」など懐かしい名曲を十曲ほどをメドレーで奏でたので、丑三つ刻の闇の中での温泉入浴付き演奏会と相成った。私のハーモニカ演奏が、実は、万一に備えてのヒグマよけを兼ねていたことなど、気持ちよさそうに耳を傾けるS君には想像もつかなかったことだろう。
野次馬精神の塊みたいな身にすれば、それが幸いだったのかどうかはわからないが、ヒグマはおろか、エゾシカにもキタキツネにもフクロウにも出遭うことなく入浴を終え、我々は無事に車のところへと戻り着いた。北海道東部の夏の夜明けはとくに早い。まだ午前二時だというのに東の空はもうずいぶんと明るんできて、先刻までその輝きを誇示していた星々も、徐々にその姿を潜め隠そうとしているところだった。
2001年10月17日