初期マセマティック放浪記より

42.納涼怪異現象レポート

物事はなるべく冷静に見つめるように心がけているつもりだが、これまでに何度か不可思議な体験をしたことはある。記憶を辿りながら、二、三の体験談を紹介してみたい。
小学五、六年生の頃のこと、雑誌かなにかで、寺田寅彦という物理学者がネットをもって人魂を追いかけ、科学的にそのメカニズムの研究をしようとしたという話を読んだ。そしてその話の内容に刺激され、深夜、墓地周辺などをうろついて人魂のたぐいを捜し歩いたことがあった。その頃は九州の離島に住んでいたが、とても変な少年で、お墓や社寺などの境内を深夜独りで歩いたりしても怖いと感じることはほとんどなかった。

また、南国の島というの風土柄、夜遅く外をほっつき歩いてもとくに誰からもとがめられることがなかったのも、好奇心旺盛な少年にとっては好都合だった。それに、当時の田舎は闇夜の晩などほんとうに真っ暗で、明りがなければ歩けない状態だったから、人工のものではない発光体を追っかけるには条件的に絶好だったといってよい。

実際のところは、人魂のたぐいはそうそう容易に見られるようなものではない。そういったものをほんとうに目撃するには、それなりの努力と忍耐が必要である。火の玉、すなわち火球については、オレンジ色のものと黄色のものをそれぞれ一度ずつ見たことがあるが、冷静に観察すると、なかなかに綺麗なものである。残念なことに、どちらも相当に大きな球状をしていたうえに、高い松の樹上で半ば静止していたこともあって、とても昆虫採集用ネットで捕獲できるような状況ではなかった。

私の知る範囲での数々の目撃談を総合すると、どうやら、火球は樹木の枝などに静止した状態で光っているものと、浮遊しているものとに大別できるようである。無風の晩よりは、むしろ風の強い晴れた日の夜に出現する傾向もあるようだ。目撃者が火球に襲われたり、何らかの危害を被ったという話は聞いたことがない。その意味では、火球はなかなかに紳士的なようである。少なくとも人畜無害であることは間違いない。また、お墓との相関性はあまりないように思われる。個人的な体験からすると、最近一部の物理学者たちによって唱えられているプラズマ説や発光バクテリア説にはうなずけるものがある。

いっぽう、鬼火ないしは人魂と呼ばれるものは、降っていた雨が急に上がって天気が回復し、気温が高めになった晩などに土葬の墓地で見られることが多いので、有機質や土中の各種のバクテリアがかなり関わりをもっているのかも知れない。よく言われる人の遺体や動物の死体の燐が燃えるのだという説は、もっともらしいが、ひとつだけ大きな問題点がある。自然発火するのは有毒な黄燐だが、動物の体内にあるのは無毒な赤燐である。そして、赤燐は簡単には黄燐に変化しない。もし、死体の燐が燃えるという俗説に説得力をもたせるには、土中で赤燐が黄燐に変化するプロセスを明快に説明してやらねばならない。様々な酵素やバクテリア類の働きでそのようなことが起こる可能性がないとはいえないが、そのあたりのことは専門家にお伺いをたてるしかない。面白いことに、ほどよく距離をおいて眺めたほうが、それらしきものの存在を確認しやすい。至近距離まで近づくと、はっきりと見えなくなってしまうことが多い。ただ、いずれにしろ、それらが一種の科学的現象であることだけは間違いないように思われる。

次は大学生のときの体験談である。その頃、東京都江東区の木場の運河沿いの製鉄関係の会社の工場で夜警のアルバイトをしていたことがあった。最後の社員が退社すると、夜の工場長なんぞと自称してささやかな自己満足にひたり、相棒と共にタイムレコーダーを操作して翌朝九時くらいまでの分の巡回記録をあらかじめ捏造し、あとは仮眠室で横になって夢の世界で夜警をやるなんてこともしばしばだった。当時の旧式のタイムレコーダーは、ちょっとした機械的知識さえあれば時刻の調整を思いのままにおこなうことが可能だったからだ。

大型の鋼材を用途に応じて切断するのを主な業務としていたこの工場には、重く大きな鉄材や巨大な切断機がいたるところに配置されていた。こんなところに盗みにはいろうとする泥棒は大型トラックかなんかに乗って重装備で押し込んでくるしかないわけで、そんな連中をまともに相手にしていたら幾つ命があっても足りるはずがない。万一、そんな事態になったりしたら、当然、トンズラするのが一番利口な身の処し方だと思われたから、「寝警」は論理的には正しい選択ではあった。

金庫もあるにはあったけれど、一見しただけでたいした現金なんぞはいってないのは明かだったから、どんなにドジな泥チャンだってそんなところはまず狙いはしなかったろう。そもそも、その金庫に大金なんぞが納まっていたとすれば、悪知恵にたけた貧乏学生のアルバイト夜警などに管理を任せたりはしなかったろう。ついでに述べておくと、この時代の「寝警」の仲間がいまでは政府の高官や大企業の幹部になったりしているから、日本の社会が良くなる見込みはほとんどない。

さて、そんなことを続けていたある晩のこと、居残っていた一人の工員が、ひどく酔っていたことなどもあって、急な鉄製の階段を踏み外し、異様な物音とともに頭から転落、頚を折り程なく死亡するという悲惨な事故が発生した。何事かと驚いて現場に直行した我々は、ただならぬ事態と知ってすぐに救急車を呼んだが既に手遅れだった。

それから二・三日後の真夜中のこと、その階段の近くにある仮眠室のベッドで仮眠中に妙な気配を感じてふと目を覚ますと、なんと目の前の空中に亡くなったその人の顔が浮かんで見えるではないか! これは夢だ、夢に違いないと自らに言い聞かせようとしたが、自分の意識は冴えわたっていて、どうみても夢という感じではない。できるかぎり心を冷静にして、これは幻覚なんだ、先日のショックが大きかったので一種の心理的幻影を見ているんだ、落ちつけ落ちつけと自分自身に呟きかけた。そして、子供の頃面白半分でまる暗記した例の般若心経を心中で唱えて気持ちをしずめていると、しばらくして宙に浮かんだその顔は霧のように消え去っていった。幸いそのあとは特に何も起こらなかった。

私自身は、いまでも、あれは心因性の幻覚だったに相違ないと考えているが、それを幽霊だと解してしまえば、間違いなく幽霊は存在するということにもなろう。このような現象をどのように解釈するかについては、人それぞれの立場で意見が異なるのであろうが、たとえ幻覚であっても、あそこまではっきりと怪異な影をまのあたりにすると、幽霊の存在を固く信じる人がでてきても不思議ではないと思われてくる。

いまひとつ、こんな体験をしたこともあった。若い頃、私はよく独りで夜間登山などを楽しんでいた。ある晩秋の夜十一時過ぎ頃、埼玉県秩父の三峰口に最終電車で到着し、そのあとすぐ懐中電灯を片手に雲取山への登山道を辿りはじめたことがあった。その晩は三峰口からのコースをとって雲取山へと向かう登山者はほとんどなく、一組のアベックと五十過ぎの中年の男性と私の合計四人だけだった。歩き始めて程なく、若いアベックの男女はしばらく仮眠してから登るということで近くの小屋に入り、また、中年の男性のほうは大変ゆっくりしたペースだったので、結局、私だけが独りで先に夜道を急ぐことになった。

無人の白石小屋を過ぎ、標高千三・四百メートルの地点に差し掛かったときである。そこは、左側が急斜面、右側が深い樹林帯になっているところなのだが、不意にどこからともなく笑いをふくんだ若い女の甲高い声が断続的に聞こえて来た。誰か近くにいるのだろうかと思い、懐中電灯であたりを照らして見たが、人影らしいものはどこにも見あたらない。少し歩速をあげてみたが、前方に登山者がいる様子もなかったし、地形上その周辺はテントを張って野営できるような場所でもなかった。登山歴も長く足には相当に自信があったので、あとから女性の登山者が追いついてきたなどということはとても考えられなかったが、一応足を止めて待ってもみた。だが、やはり誰もやってくる気配はなかった。

そうしている間にも、その得体の知れぬ声だけは聞こえてきた。風の音や動物のたてる物音とは明らかに違っている。懸命に耳を澄ましてみるけれども、何を言ってるのかはわからないし、どちらから聞こえてくるのかもいまひとつはっきりしない。幻聴ということもあるかと思い、何度も何度も確かめてみるのだが、やはり人の声のように思われた。そこで、あらためて足を速め、半ば駆け登るようにして道を急いでみたのだがやはり誰も見あたらなかった。雲取小屋に着いてすぐ、小屋番の人に先に登ってきた人があったかどうか尋ねてもみたが、誰もいないとのことだった。結局、原因はわからず仕舞いだったが、それは実に奇妙な体験であった。

山での不思議な体験といえば、ほかにこんなこともあった。ある風の強い晴れた晩のこと、木曽の御岳山に登っている最中に、地獄谷の一帯が青白い燐光を発して不気味に輝いているのを見たことがある。これなどはある種の科学的現象に違いないとは思うのだが、その現象に説明をつけるとなると難しい。

よく放浪の旅などにでかけ、変な時刻に思わぬ場所を通ったりしたとき、たまにだが、一種の霊気とでも呼んでいいようなものに遭遇することがある。そんなときには例の般若心経などを唱えて心を落ちつけたりもするわけだが、だからといって意識的に幽霊の名所と噂されるようなところを訪ねても、それらしきものに対面できることは滅多にない。夜遅く月明かりを頼りに下北半島の恐山一帯などを歩いてみたりしたものだが、霊気といったようなものを感じることはとくになかったように記憶している。

怖いという意味でなら下手なお化けなどよりも人間の不可解な行動のほうがはるかに怖い。たまたま旅程が大幅に狂い、真夜中に四国二十四番札所、最御崎寺を訪ねることになってしまったときの体験は、いまでも忘れることができない。

もうずいぶん昔の話になるが、その晩、最御崎寺(ほつみさきじ)の裏手にある駐車場に着いたのは、午前一時過ぎだった。いわゆる丑の刻のことである。車を駐めてさりげなくあたりの様子を窺ってみたが、さすがに人影らしいものはまったく見あたらなかった。

望月を少し過ぎたばかりの月の夜のことだったが、南から北へと激しく動く風に煽られながら、夜空を急ぐ群雲によって、月影はほとんど覆い隠されていた。ただ、時折、雲の裂け目からこぼれ落ちる月の光には、妖しいまでに冴えた輝きが秘められていた。突然あたりが異様に明るなったかと思うと、すぐにまた闇が戻るという、そのいささか凄味を帯びた情景は、あとになって考えてみるとなんとも暗示的なものではあった。

五月も下旬にかかろうかという時節にくわえて、南国土佐のことでもあったから、夜風はむしろ心地よいくらいで、寒いという感じはまったくなかった。私の耳元を吹き抜けていく風に乗ってかすかな潮の香りと潮鳴りの響きとが伝わってくるのは、この最御崎寺が室戸岬のほぼ先端の高台に位置しているからだった。そもそも、「最御崎寺」とは、「岬の最先端にあるお寺」という意味なのである。

駐車場で一休みしたあと、私は最御崎寺の境内を散策してみることにした。子どもの頃からの習性で深夜に独り淋しい場所を歩きまわることに慣れている私には、恐怖感はまったくなかった。

最御崎寺の塀ぞいの道を山門側に向かって私がゆっくりと歩き始めたとくき、月影はちょうど大きく厚い黒雲の陰に隠れてしまっていた。夜間のことゆえ十分には確認できなかったけれども、一帯はアコウやタブ、蔦類などの黒々とした亜熱帯性樹林で覆われており、さすが黒潮洗う四国南端の岬だけのことあるという感じだった。

その直後のこと、突如、サーッと辺り一帯が明るくなったかと思うと、青白い月光が、左手前方に延びるのお寺の塀を不気味に照らしだした。そのほうに視線を送った次の瞬間、私は柄にもなく思わず身をこわばらせた。前方の塀ぞいに、髪を垂らした若い女の影のようなものがくっきりと浮かんで見えたからである。いささかたじろぎながらも、これは幻覚なんだ、幻覚なんだと、私は自らに言い聞かせた。夜間、淋しいところを一人で旅しているときなどにこの種の経験を何度かしたことのあるおかげで、ほとんどの場合は自分の錯覚や幻覚であることをわきまえていたからだった。

その黒い影だけはどう見てもうつむいた若い女性の姿に見えたのだが、心を落ち着け、すぐそばまで近づいてみると、やっぱりそれは月の光のいたずらであることが判明した。樹木の枝葉の微妙な陰影と青白い月光が織りなす偶然の幻影だったのだ。その幻影を生み出すもととなった樹木の前を通り抜けかかったときには、月影は再び雲に包まれ、辺りには闇が戻ったが、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということわざを地でいくような事のなりゆきに、かえって意を強くした私は、手にした懐中電灯の光を誇らしげに揺らしながら最御崎寺の山門のほうへと急いだのだった。

私が最御崎寺の山門に立ったとき、時計の針はちょうど午前一時半を指すところだった。その山門は、門とはいってもべつに扉があるわけでもなく、いつでも自由に出入りできるようになっていた。お寺の周りは深い亜熱帯種の樹林で囲まれているうえに、月の光はまた厚い雲に閉ざされていたから、境内の闇は相当に深かった。境内を取り巻く樹木にさえぎられてか、風の動きはまったく感じられず、少々大袈裟な言い方をすれば、暗く淀んだ大気そのものが、じっと息をひそめて私の一挙一動を窺っているかのようだった。

緊張をほぐすために大きく息を吐きながら、お堂の前へと続く参道を七・八歩踏み進んだときのことである。前方の闇の中で、何か赤い小さなものがちらちらと揺れて動いているのに気づいた私は、反射的にその場に立ち止まった。そして、不意に目に飛び込んできたその奇妙なものの正体を見極めようと、全神経を研ぎ澄まして前方をじっと睨みすえた。

私の背筋を鋭く冷たい氷の針が突き抜けたのはその次の瞬間だった。首筋から爪先にかけて身震いするような戦慄が走ったかと思うと、私の身体の全神経は瞬時にして凍りついてしまった。それは、私が生まれて初めて味わう、本物の恐怖といってもよかった。文字通り全身が硬直し、いつもなら自らを冷静になだめ励ます言葉も心の奥で凍りついてしまう有様だった。

闇の奥に赤く揺れ浮かんで見えたものは、お堂のすぐ手前の石段の上あたりで不気味に揺らめく一本の蝋燭の炎だったのだ。そんな時刻に、いったい誰が何のために置いていったものなのだろう。むろん、あたりに人影はまったく見あたらなかった。でも、誰かが、何かしらの目的で少し前までそこにいて、その不自然な場所に一本の蝋燭を灯し置いたことだけはまぎれもない事実だった。私は、自分が何か得体の知れないものにじっと見つめられているような気がしてならなかった。私が近づく気配を察した誰かが、境内の闇の中に身を隠し、密かにこちらの様子を窺っていることだって十分にある得ることだった。

このときばかりは、さすがに、その場からすぐさま逃げだしたい気分だった。ただ、幸いというか、それでも、しばらくすると、わずかながらも正常な思考が働きはじめてきたので、私は大きく呼吸を整えながら、極力、自分の心が冷静になるようにと努めてみた。真似事程度の武術の心得があったのも、いざというときの備えとして多少は役立った。

その謎めいた蝋燭の炎はかすかに揺れながらも依然として不気味に燃え続けていた。どうみても、それは幻覚などではなかった。毒を食らわば皿までもというか、どうせなら、こちらからあの蝋燭のそばまで近づいてみようかと開き直った私は、眼前の蝋燭の炎に惹き寄せられるように、じわじわとお堂の前の石段へと近づいていった。

その蝋燭は石段のなかほどに立てられていた。少々の風には耐えられるようにとの意図からだろうか、それはかなり太めの蝋燭で、その燃え具合いから察すると、もう一時間近くは燃え続けていたのではなかろうかと思われた。なんとも不思議な話だが、私が境内にやってくる前に、誰かが、何かの目的でその蝋燭を立てたことだけは疑う余地のないことだった。

もしかしたら、闇の奥から、二つの目が私の一挙一動をじっと見つめ続けていたのかもしれないが、幸いそれ以上は何も変わったことは起こらなかった。境内から引き揚げるタイミングを測っていた私は、再び月影が雲間に現れ、周辺が明るくなったのを見届けると、なおも燃え続ける蝋燭をあとに残したまま最御崎寺の境内を立ち去った。

車に戻ったあとも蝋燭のことは気になったが、その奇妙な行為の主の正体も、その人物が意図するところも最後までわからなかった。当事者にすれば、そんな時刻に私のような人間が最御崎寺を訪れるなんて予想だにしていなかったろうし、たとえあの場のどこかに身を潜めていたとしても、こちらに危害を加えるつもりなど毛頭なかったのだろう。しかし、なんらかの怨念や執念に憑かれた人間の行為ほど不可解で怖いものはないと、その夜のことを振り返りながら、つくづく思う次第である。

もちろん、見方によっては、誰かの手の込んだ悪戯だったということもまったく考えられなくはない話ではあるのだけれども……。
1999年8月11日

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