初期マセマティック放浪記より

214.久々の雪景色に想うこと

雪が降っている。テレビなどでも報道されているように、東京で十二月十日前後に積雪をみるのは久しぶりのことである。十年ほど前までは雪を見るとなんとなくわくわくした気分になっていたが、近頃は、「雪かあ……、寒いから外にでるがなんとなく億劫だなあ」などという気持ちのほうが先に立ち、戸外に出る決断をするまでにちょっとだけ時間がかかるようになった。これが、「雪かあ、外はひどく寒いだろうなあ……、ストーブをつけ、コタツに入ってボーッとしているのがいちばんか……」なんてことになってきたら、私の人生もそろそろ終わりが近づいたということになるのだろう。幸いというか、目下のところはまだそこまではいっていない。

世界的な大気温の上昇が伝えられる近年にあってはすいぶんと状況も違ってきているのだろうが、私が小中学生だった頃までは、南国鹿児島の離島でもたまには雪が降り積もった。小学校の校庭で雪だるま作りをしたり雪合戦をしたりしてはしゃぎまわったことなどもいまとなってはたいへんに懐かしい。激しく降りしきる雪を眺めているうちに、なぜか突然私はそんな遠い日の情景を想い出した。

私が育った甑島は東シナ海に浮かぶ離島のひとつで、鹿児島県串木野市の西方四十キロほどのところにある。熊本県天草島にある牛深市の南方三十キロ余の海上に位置しているといったほうがわかりやすいかもしれない。真冬に大陸から吹き寄せる北西の季節風をまともにうける位置にあるから、南国の島とはいっても、風の強い日などは結構寒かった記憶がある。冬山登山や冬季の北方旅行など一時的なケースをのぞけば、これまでの人生の中で冬の時期もっとも寒いと感じたのは、意外なことにこの甑島での小学校時代なのである。もちろん、冬の平均気温の低さからすると同島を離れて以来暮らしてきた国内各地のほうがずっと寒かったはずなのだが、実感としてはその頃の寒さがいちばん記憶に残っている。むろん、そう感じたことにはそれなりの理由もあったのではあるけれども……。

当時、我が国はまだずいぶんと貧しかったから、離島の小学校の校舎などはみな木造で、しかも戦前からの古い建物が多かった。エアコンディショナーなど無縁の時代のことだから、夏が暑い南九州各地の当時の校舎は、みな風通しのよい夏向きの造りになっていた。しかも床はあちこちが隙間だらけの一面の板張り、そして机も椅子も古びて穴だらけ傷だらけだった。その頃の甑島では夕方から翌朝までしか送電がおこなわれていなかったから(このあたりは、なにやらいま話題となっている北朝鮮の電力事情とそっくりである)、学校の教室では自然光だけを頼りにして授業がおこなわれていたものである。

自然光を最大限に採光するために、教室の左右両面には四角くて薄い透明ガラスを何枚もはめこんだガラス戸が多数立て並べられていた。ところが、古い木製の窓格子は歪んだり傷んだりしているために、それらのガラス窓のいたるところが隙間だらけになっており、また、常時何箇所かは割れたまま放置されているというのが実状であった。もちろん使用されている窓ガラスはみなごく薄いものばかりだった。

そんなわけだから真冬になると隙間風が吹き込み、またそうでなくても教室内はしんしんと冷えわたった。しかも、その寒さに当時の島の貧しい生活状況がいっそうの拍車をかけた。生徒たちは教室内ではみな裸足だった。もちろん、靴下など履くことは許されなかったし、たとえ履こうにも靴下などない生徒がほとんどだった。私が小学校高学年になる頃までは靴をもっている生徒そのものがごくわずかで、真冬でも裸足で通学するのがごく普通のことだった。たとえ靴をもっていても、それを履いて通学するのが憚られさえしたものである。

毎朝校庭でおこなわれる朝礼も、たとえ地面が凍りつくような日であっても教師以外は全校生徒裸足、体育の時間はいうにおよばず、運動会などのような催し物などもみな裸足での参加が義務づけられていた。その時代はみなそうだったが、着衣もはなはだ粗末なもので防寒性など望むべくもなかったから、冷え冷えとした教室にじっと座っているだけで爪先やお尻のほうから寒気がじわーっと全身に伝わってきたものだった。

学校で裸足が義務づけられていたのは、廊下を磨き教室を美化するという建前のほかに、当時の生徒たちの生活事情への配慮などがなされていたからでもあるのだろう。ごく一部の生徒だけが靴や靴下を履いていたら不平等感などもあってなにかと問題が生じたに違いない。「こどもは風の子」だの「質実剛健」だのといった言葉が当時はずいぶんもてはやされたりしたが、意地悪な解釈をすれば、本音のところは、「こどもなんだから、このくらいの寒さは我慢せい!」とか、「貧乏でも仕方ないから頑張れよな!」とかいったようなことだったとも考えられなくはない。

ともかくも、そのような状況下での学校生活だったから、真冬などは授業中に手がかじかんで鉛筆をうまく持てないこともしばしばだった。当然、両足の指もかじかんで感覚がなくなることもしょっちゅうだった。授業中に両手や両足の指を激しく擦り合せ、なんとかしてかじかんだ指先を伸ばし感覚を取り戻そうと必死になったことなども鮮明に記憶の中に残っている。もっとも、どんな状況下にあっても生活の知恵は湧き出てくるもので、休み時間ともなると、生徒たちはお互いに激しく身体をぶつけあったり擦りあったりする遊びをいろいろと考えだし、その場を凌いだものだった。

冒頭にも書いたように、それなりに歳をとってしまったせいで、いまは結構寒がりになってしまったが、南国育ちであるにもかかわらず、ある年齢までは寒さには強いほうだった。とくに、じわーっと身体全体が冷え込むような寒さに対しては、北国育ちの人々などよりもずっと強かったかもしれない。家内は北海道育ちだが、東京の冬の寒さに対してはいまでも明らかに私の適応能力のほうが高い。北国は戸外の温度はとても低いけれど、家の造りが冬向きになっており、昔から防寒対策に十分な工夫と配慮とがなされてきているから、そのような環境で育った人々は、案外、東京におけるような寒さには弱いのかもしれなしれない。
 若い頃、積雪期の北アルプスで猛吹雪に襲われ遭難しかかったとき、仲間の皆がかなりひどい凍傷になったにもかかわらず、私だけは頬に軽い凍傷を負っただけですみ、それもほどなく完治してその痕はまったく残らなかった。毛細血管が人一倍発達していたからだともいわれたりしたが、もしかしたら、あの甑島の冬の寒さに順応するために自然に体内の毛細血管が発達したのかもしれない。そうだとすれば、甑島での小学校生活において寒いおもいをしたことはたいへんに有り難い経験だったということにもなる。

国内の津々浦々を旅するにつけても、近年の小中学校の建物や設備はずいぶんと立派になったものだとおもう。授業中に手がかじかんで鉛筆がもてなくなるようなことなど、いまではどんな田舎の学校でだって起こったりはしないだろう。では、昔に比べると格段に恵まれたそんな教育環境の中で、小中学校の生徒たちの本質的な基礎学力もそれ相応に向上したのかとなると、たぶん答えは「ノー」であるような気がしてならない。

貧しくはあったけれども、アフガニスタンのこどもたちの瞳がそうであるように、まだ幼かった私たち離島の小学生の双眸は、未知のものへの憧れを秘めキラキラと澄み輝いていたに違いない。では、こどもたちの瞳の輝きを取り戻すために、日本社会はいまいちど昔のように貧しくなったほうがよいというのであろうか?――「イエス」とはどうしても言えないところがこの問題の厄介なところである。生物の進化の流れが遡行不能であるように、文明史の時間軸を逆行させることもまた不可能なことである。それに、いまさらそんなふうに昔をやたら懐かしがってみても、滑稽なアナクロニズムに陥るのが関の山ではあるだろう。時代の問題を解決するには、結局のところその時代なりの知恵と工夫に頼るしかない。
2002年12月18日

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