初期マセマティック放浪記より

13.したたかさ消えた「島の子」

翌日の午前中、母校の中学に出かけ、そこの生徒たちといろいろな話を交わす機会があった。私が通っていた頃は、全校で三百名近くの生徒がいたが、過疎化が進んだ現在では、生徒総数は五十名ほどに減少している。ただ、校舎や校内設備はすっかり近代化され、本土の学校と較べてなんの遜色もない感じであった。私が通っていた頃の木造校舎はかなり老朽化が進んでいたし、赤土のグランドはデコボコで雨の日などにはぬかったり滑ったりもした。むろん、いまのようなプールも体育館も存在しなかった。東支那海越しに吹き寄せる北西の季節風の強い真冬でも、校内では裸足で通すのが原則とされていたうえに、暖房設備などまったくない状態だったから、いくら南の島とはいっても底冷えのひどさは相当なもので、授業中に手足がかじかむことはしょっちゅうだった。

体育館に集まった生徒たちの瞳は生きいきとしており、皆がつまらない私の話によく耳を傾けてくれたばかりでなく、自分たちの意見をしっかりと述べてもくれた。都会で見る現代の中学生とはまったく異なる、いうなれば、変に人間ずれしていない昔ながらの中学生の姿がそこにはあった。遠い日の自分たちの姿を見ているようで、私はなんとも微笑ましい気分になったのだが、実を言うと、そのいっぽうで、彼らの純真さがちょっと心配にもなってきた。

島の自然環境や生活環境が大きく変わったせいもあって、現代の島育ちの子どもたちは、かつての私たちほどには荒々しい自然体験や大人顔負けの労働体験を積んでいない。私たちの世代に田舎で育った子どもたちは、それらの体験を通して、表向きの素朴さの陰に、いざというとき独りで生きぬくための知恵としたたかさな力とを、しっかり学びたくわえていったものだ。そして、そのしたたかな生活の知恵と技術は、田舎育ちの者が、先々、知識の量でははるかにまさる都会育ちの者に対抗していくための唯一の武器ともなった。私の仲間のほとんどは中学を卒業するとすぐに集団就職していったが、彼らにはそれなりの覚悟と強さがあった。

これは甑島だけにかぎったことではないが、昔と違って、いまの島の子どもたちは、表の純朴さだけを残し、以前なら裏に秘めていたはずの実践的な生活の知恵や技術をほとんど失いかけている。たとえば、泳ぎの技術ひとつとってもそのことがよくわかる。甑島のように海に恵まれた学校でも、プールの泳ぎが優先され、荒磯での実践的な泳ぎや素潜りによる魚貝類の採取技術を身につける者はきわめて少なくなった。いっぽうでウィンド・サーフィンなどのマリンスポーツをやる子どもたちは増えているらしいが、それらは都会的なスポーツの後追いでしかない。

そうなった理由の一つには、安全性の確保と近代化の掛け声のもと、集落一帯の海岸線がコンクリートの防波堤と消波ブロックで覆われ、日常生活の場から白砂や玉石の浜辺、海草の繁る磯が消滅したこともあげられる。現金収入につながりにくい農業や林業がすたれ、村の過疎化や住民の高齢化もあいまって田畑や山林の多くが放棄され、子どもたちが労働体験をする環境がなくなったことなどもあろう。だが、より根源的な原因は、遠い島々にまで及んだ日本社会の価値観の一大変化にあったというべきではなかろうか。

甑島には高等学校もないし、将来の働き場所も限られていることから、島育ちの子どもたちは、中学を卒業するといまもほとんどが都会へと出ていく。昔とは立場がさかさまの、いうなれば一種の「逆温室状態」で育ったそんな島の子どもたちが、都会という名の現代の荒野に乗り出したとき、一時代前の世代とは違った意味での戸惑いや不安を覚えるのではないか――私にはそういった点がいささか気になったのだった。都会っ子と同様にテレビやCDを楽しみ、コンピュータ・ゲームに熱中する現代っ子の彼らだから、おそらくは杞憂に過ぎないだろうとすぐに思いなおしはしてみたけれども……。

あとで里村教育委員会を訪ねたとき、私は率直に感じたことを述べてみた。それに対する中村教育長の答えは、「現在都会の小・中学校が抱えているような問題は島の学校では起こっていないけれども、この島の最近の子どもたちは純粋培養ともいうべき教育環境で育つから、都会へ出たとき免疫力や抵抗力がないのがかえって心配なのだ」というものだった。私の危惧はあながち間違いではなかったわけである。その問題ともいくぶん関わる教育長の次のような話はなんとも興味深かった。

甑島の別の村の中学校が、教育の一環として都会の中学生何人かを毎年一定期間同校に招き、島の学校生活を体験してもらうことを計画した。都会と地方との交流というばかりでなく、育ちや生活環境の異なる双方の生徒を同じクラスにおいて学ばせることによって、学校の授業そのものの活性化をはかろうという狙いもあったようである。しかしながら、予想外の展開の前に大人のそんなもくろみはものの見事に外れてしまい、その教育プロジェクトは二・三年後には中止のやむなきに至ってしまったのだという。

都会育ちの生徒が島育ちの生徒にまじって授業を受けはじめたまではよかったが、都会から来た生徒の横柄な授業態度がたちまち島育ちの生徒たちに感染し、授業がうまくできなくなってしまったらしい。授業中に机に両足をのっけてふてぶてしく構えたり、教師を揶揄したり批判したり、隣の生徒をからかったりふざけたり、さらには授業そのものを無視したりする都会の生徒の行動を島の生徒がすぐに真似するようになり、歯止めがきかなくなったのだそうだ。

私たちだって、中学生の頃には、嫌な教師がいたりすると陰で様々な反抗をし、それによってストレスを解消した。靴を隠したり捨てたりする、鞄のなかに蛇や蛙を入れる、その教師がトイレに入っているときを見計らって汲み取り口から大きな石を放り込む、相手が酔っ払って夜道を歩いているときちょっかいを出してからかう、校長や教頭専用の菜園の野菜に連日どっぷりと下肥えをかけるなど、いろいろなことをやってのけた。だが、よほどのことでもないかぎるり、現代の生徒たちのように授業中正面切って反抗的態度を示すことはなかった。逆の見方をすれば、現代の子どもたちとちがって、当時の子どもたちには、「江戸の仇は長崎で」的なストレスの解消法が残されていたということでもあるのだろう。換言すれば、よい意味での逃げ道が残されていたのだった。

それまで教師の指示に従順に従い、ある枠のなかで行動することによって無意識のうちにストレスをため込んだ現代の島の生徒たちにとって、都会の生徒の型破りの行動は、驚きであるとともに、一種スマートな振る舞いにも映ったのだろう。テレビなどで都会の学校の荒れようは知っていても、それらをドラマやマンガの世界での出来事のようにしか感じていなかったに違いない島の子どもたちにとって、現実のものとして展開された都会の生徒の非日常的な行為は、善くも悪くも衝撃的だったろうと想像される。

都会の生徒の扱い方や異質な行動に対する学校側の対応にも問題があったのかもしれないが、ある意味で、これは時代の大きな変容を象徴する話のようにも思われた。その話を聞いて私はついつい笑ってしまったのだが、このようなケースの処理に不慣れな地元の教育関係者にとっては、一大事だったに相違ない。

昔は、都会からやって来た子をいじめるのは田舎の子どもときまっていた。「白いカラスはいじめられる」の諺通り、自分たちとは異質なものを具えた都会の子を集団で徹底的にいたぶり、場合によっては激しく衝突ことによって、相手に地域社会への同化を迫り、自らのアイデンティティを固持しようとした。むろん、その儀式的なプロセスを通して、都会育ちの子も田舎の何たるかを学び、田舎の子は田舎の子で、表向きは反発し拒絶しながらも、都会の子のもつセンスをそれなりには盗み取り消化した。私自身も、来島したての幼児期にはずいぶんといじめられもしたが、島の生活に同化したあとは、都会からやって来た子を仲間と一緒にずいぶんいじめもしたものだ。

それに対し、いまは、都会から来た子が田舎の子を感化し扇動することが可能な時代になったのだ。裏を返せば、かつてのように、都会の子をいじめ田舎社会への同化を迫るエネルギーも、またその地で育った子どもとしてのアイデンティティも、現代の田舎の子どもたちからは失われつつあるとも言える。別の言い方をすれば、旧来の意味での「田舎の子ども」という概念が解体しつつあるわけだ。

ここ二十年ほどのうちに日本社会は大きく変わった。都会と田舎という相互に異質な文化思想の対立する「双曲面体構造(鼓型構造)」の時代はすでに遠い過去のものとなり、円錐形の頂点部を都会が占め、その基底部に田舎が位置する構造へと私たちの社会は移行した。皆が同質の曲面上にあって、相対的な位置だけを気にし合うというこの構造を、この島の中学校のささやかな出来事は何よりもよく象徴しているように思われる。

ただ、子どもたちの問題にかぎって言えば、それが大人たちの思惑に合おうが合うまいが、現代の子どもたちは、つまるところ時代の流れに乗って未来に立ち向かっていくしかない。大人たちがどう足掻いてみても、来世紀を背負う若い力とその流れを押さえ込むことができるはずがない。私たち大人にとって必要なのは、現代の子どもたちの未来にかける力を信じ、その欠点や未熟な点を批判するよりは、たとえ危なっかしく見えたとしても、彼らの長所や時代に対する新しい感性を評価し、励まし育ててやることだろう。

東京へ戻った後、社会評論家の芹沢俊介氏や、カウンセラーの内田良子氏らと共に六回にわたる少年問題の講座を開くことになっていた私は、内心いろいろと考えさせられながら、村の教育委員会をあとにした。
1999年1月6日

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