初期マセマティック放浪記より

196.墓標としての奥三面ダム

二年ほど前まではその偉容を誇っていた元屋敷縄文遺跡群の大部分は水没してしまっていたが、遺跡の最上段部にあたるところだけは現在も冠水を免れている感じであった。ただ、遠目に眺めるその荒れ果てた様子からすると、二〇〇〇年の秋に湛水が開始されてからいったん遺跡全体が水中に沈み、その後のダムの水位低下にともなって再度その部分だけが姿を現わしたもののようにもおもわれた。かなうものなら現場まで近づいて詳しい状況を観察してみたいという気はしたが、ダムの対岸にあるその地点に渡ることはボートでもなければもはや不可能なことだった。

国内でも珍しいその貴重な遺跡を守るため、なんとか水位の調整をする工夫だけでもしてほしいというのが一部専門家のささやかな声でもあったのだが、発電用としてのダム機能の維持上からも遺跡の全面水没は避けられないと関係当局は主張し、予定通り湛水は強行された。それにもかかわらず、その一部だけが中途半端なかたちで水面上に無残な姿をさらしているのは、見るに忍びないかぎりだった。

湛水開始直前に訪れたときまでは残っていた奥三面名物の古風でスリル満点の木造吊り橋もすでにその影は見られなかった。その時の探訪直後に、当時既に廃橋同然になっていたこの吊り橋を最後に渡ったのは私たちだったということになるのではないかと書いたりもしたが、実際にそういうことだったのではなかろうか。その時はまだ橋の下をきらめくような清流が勢いよく流れていたが、むろん、一帯は水没し淀んですっかり生気を失った水が重たく漂うばかりであった。

新しく設けられたダム沿いの舗装道路を最奥まで詰め、そこで車を降りると、深々と草むし荒れ果てた細い旧登山道を谷の奥へと向かって進んでいった。幸い以前からあった広大な栗林は水没を免れ、いまも昔のままの姿をとどめていた。俊敏で力強い動きをみせたあの小型の赤蛙の棲む沢も健在だった。登山道をしばらくゆくと、以東岳方面から下山中の登山者二、三人とすれ違った。それからほどなく道は深いブナ林の中へと入った。登山道周辺のブナ林もかつてのままの姿をとどめていたので、私の気持ちは少しばかり明るくなった。そして、このぶんだと、二年前の九月に泳いだことのある青く澄んだ深い淵やあのコバルトブルーの幻想的な色の清流、さらには眩しく輝く白砂の河床、綺麗な小石の河原などがいまもそのまま残っているのではないかと、ささやかな期待を抱きはじめたのだった。

ブナ林の奥の見覚えのある地点までやってくると、私は樹林下の藪を掻き分けながら急斜面を谷底の方へと向かって下っていった。しかし、あと少しというところまで来て、なんだか以前と様子が変わってしまっていることに気づいたのだった。斜面がドロドロになってぬかったり滑ったりし、しかも、前方がほぼ垂直にえぐれてしまっていて河原に降りるルートを探すことができなかった。それどころか、そもそも河原らしいものもが見当たらないのだった。下る地点を間違えたのかなとおもい、また斜面をよじのぼって登山道まで引き返すと、少し奥のほうへと地点を変え、再度挑戦を試みた。しかしながら、結果はまるでおなじだった。

もうこうなると意地である。私はあえてもう一度アタックを試みることにした。だた、三度目は谷の上流方向へと大きく移動し、適当な斜面を選んでそこから降下しはじめた。その斜面の谷底近くの一帯もやはりツルツルドロドロで、しかもズブズブとぬかったが、泥んこになるのを覚悟でえぐれた地形上を横に移動しながら懸命にルートを探しているうちに、なんとか渓流に面する地点に降り立つことができた。そして、その場に佇んだ私は、ほどなくして何が起こったのかをはっきりと悟ったのだった。

渓谷の水はゆっくりと流れており、そして水は確かに澄んでいた。普通の川の水などよりは格段に綺麗で、初めてこの渓流を目にした人ならそれなりに美しいと感じたに違いない。だが、以前の美しい川面の輝きを知る者の目にとっては、それは弱り果てた三面渓谷の姿以外のなにものでもないのだった。あの神秘的な色のコバルトブルーの水流は、澄んではいるものの緑がかった色の水へと変わり、横切ろうとして泳ぐと大きく川下方向へと流されるほとに勢いのよかった水流は、わずかに動く程度の流速しかとどめていない有様だった。

目を凝らしてよく見ると、以前より広くそして深くなった渓流の水底には緑褐色の泥土が厚く沈殿しており、石英質の白砂の河床などもはやどこにも見当たらなかった。さらにまた、斜面の両側や上流域から流れ出た泥土が積もってしまった関係で、渓谷のあちこちに広がっていたかつての美しい河原はすべて消滅してしまっていた。

私の足元はぬかってドロドロ状態だった。たぶん、融雪期の大量の雪融け水のために一帯の渓谷の水位が上がり、流れがとまって土砂や泥土が沈殿、その後に水位が下がってこのような無残な状況になったのだろうと推測された。下流にダムができ水流がとまったり、そうでなくても流速が落ちたりして自然浄化のバランスが崩れてしまうと、このようなことになってしまうのだ。二年たらずでこの有様だから、今後はますますひどい状態になっていくことだろう。私のささやかな期待もむなしく、湛水前に目にしたあの幻想的な光景はすでに失われてしまっており、それが甦ることなどもう二度とないというわけなのであった。

ジーンズの裾や靴の一面にドロドロの土を付着させたまま、潅木の小枝を手繰り藪を掻き分けて急斜面を登り山道へと戻る私の足取りは重たかった。もう二度とこの斜面を下ることはないだろうとおもうと悲しくもあった。せめてマスメディアの取材陣が湛水前のこの渓谷の幻夢ともまがう光景をビデオにでも収録して残しておいてくれたなら、現在の同所の光景と比較放映することによって、ダムというものが如何に短期間で掛け替えのない自然を破壊してしまうかを人々に訴えかけることもできたのだが……。

水没直前に元屋敷の縄文遺跡の取材に駆けつけた一部の地方メディアの報道陣も、それよりずっと上流に位置していて当時も知る人の少なかったこの地点まで取材に来ることはまずなかったに違いない。また、たとえ何かしらの情報を得ていたとしても、カメラを担ぎ、苦労してわざわざそんなところまで撮影に入ることなどなかったであろう。視聴率と商業ベースのみに重きをおいた現代日本のマスメディアの報道力や報道姿勢なんて所詮そんなものなのだろうとおもうと、やりきれない気分にもならざるをえなかった。

この奥三面ダムとまったく同様の社会的構図や政治的背景をもち、多数の住民や環境保護団体の事業見直し要求の声があるにもかかわらず、関係当局によって超大型ダムの完成が急がれようとしているのが、九州の球磨川上流の川辺川ダムと岐阜県北部の徳山ダムの二つである。川辺川ダムの場合には流域一帯の動植物生態の大きな変化や、下流域の川魚漁や八代海(不知火海)沿岸の水産業への悪影響が危惧されている。また、いっぽうの徳山ダムについては、奥三面ダムの場合がそうであったように、大自然の宝庫として知られ、多くの自然愛好者に惜しまれ続けてきた旧徳山村全域を水没させることの是非や下流域の水質変化の是非が問われている。徳山ダム建設予定地の場合、何年か前までは一般の立ち入りも可能で、私もその自然の素晴らしさを目にしておこうと一、二度訪ねたことがあるが、現在は関係者以外の立ち入りは禁止され、急ピッチでダムの完成が急がれているようだ。

どちらのダム建設事業も、列島改造論が謳いあげられバブル経済の絶頂期に向かって日本社会全体が走り出した時期に計画されたものだから、国家による巨大資本投下先の確保とその経済的効果や資金運用効率のアップに役立つことが第一で、自然環境に対する配慮や本質的な事業目的の是非など二の次の問題に過ぎなかったのだ。しかし、バブル経済崩壊以降の社会状況の変化にともない、巨大ダム建設の目的や必要性が各方面から疑問視されるようにもなってきた。事業計画を推進した関係当局者らは、治水上の必要性や電力資源開発、各種用水の確保、地元経済の活性化などを建設理由にあげたりして一日も早いダムの完成をと願ってはいるようだが、その主張には一貫性がなく、社会状況の推移につれて説得力に欠けるようになってきているのはすでに衆知の通りである。

関係当局者や関係自治体の事業責任者だって、内心は社会状況の変化を察しダム建設を強行することに懐疑的にはなりはじめてはいるのかもしれないが、行政上の責任問題が発生することなどもあって、既に膨大な資金を投入してしまった計画を中止する決断をくだすことなどもできずにいるに違いない。たとえそれまでの投資が無駄になったとしても、のちに生じる損失の大きさをおもえば事業計画の中止がふさわしいと判断されるケースは少なくないことだろう。ただ残念なことに、そういった決定を敢然として下せるような政治哲学と責任感をもった政治家や行政者というものは、我が国には過去にも現在にもほとんど存在していない。

いま長野県の県政は前知事の脱ダム宣言が発端となって大揺れに揺れている。同県内のすべてのダム計画を中断ないしは中止するという前知事の政策方針が全面的に正当かつ適切なものであるのかどうかは、それらすべてのダム計画事情に通じていない私には判断がつきかねる。しかしながら、すくなくともそれらダム事業計画のうちの二、三のものが、現在の社会状況や周辺環境の様子からしても必要のないものであることだけはよくわかる。

イワナ釣りや山菜採り、茸狩りなどをかねて長野県をはじめとする各地の深い沢に入ることの多い私は、ほとんど人跡稀で人目にふれることもなにようなところに、莫大な費用をかけ何重にも造られた砂防ダムや治水ダムに行き当たることがある。たしかに必要だとおもわれるダムがあるのも事実だが、いっぽうでその種のダム周辺の荒れ果てた状況や実質的な無機能無益ぶりから判断し、建設されなかったほうがずっと増しだったろうとおもわれるようなものも少なくない。一見しただけで、なぜこんなところにこんなものを造ったのかと首を傾げたくなるようなシロモノだってずいぶんと存在しているのである。

県議会から不信任決議を突きつけられ失職した前長野県知事は再度知事選に立候補し、脱ダム問題をはじめとする行政方針や自らの能力や人格に対する県民の信を再度問うつもりだという。有力な対抗馬が現れかけてもいるようだから、その結果については予断の許されないところだが、その影響は他県ばかりでなく国政全体にも及ぶことだろうから、長野県の方々には昨今の状況や将来の社会状況を十分に熟慮したうえでの投票をお願いしたいものである。

すっかり落胆しきって車に戻った私は、せめて変わり果てた奥三面の地の無残な姿をしっかりと脳裏に刻みつけておきたいとおもい、ダム本体のある下流方向へと走りだした。くだんの巨大なアーチ式ダム上に差しかかる少し手前の地点には、大きな石碑の立つ展望台風のスペースが設けられていた。なんだろうとおもい車から降りてその石碑の前に佇んでみると、そこには「三面ここにありき」という短く哀しい八文字の文が、大きく、そして深く刻まれていたのだった。

在りし日の三面集落をいまも偲ぶ旧住民たちの深い想いを汲んで建てられた碑なのであろうが、私にはそれが、湖底に眠る旧三面集落の墓標であるばかりでなく、広大な奥三面渓谷の自然の、さらには日本という国がかつて有した世界有数の美しい自然そのものの墓標でもあるようにおもわれてならなかった。また、その事実を物語りでもするかのように、
眼下に広がる奥三面ダムの水面は大量の紅茶を溶かしたような色をしていて、ひたすら重たく、そしてどこまでも暗かった。
2002年8月14日

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