後輩のYさんが、現在勤務中の外資系コンサルタント会社を八ヶ月ほど休職し近々カリブ海方面にでかけるというので、彼女が日本を発つ前に一度会って雑談でもしようかということになった。Yさんからは何かあるとよく相談をうけるのだが、現代の若い世代の考え方など、こちらも何かと教わることが少なくないので、年齢や男女の別といった次元を超越した付き合いを続けている。まだ二十代で何事につけても行動的な彼女は、NGOの臨時メンバーとしてキューバやコスタリカなどの自然環境調査保護活動に参加することになったらしい。もちろん、NGOサイドからの資金援助はまったくなく、現地での生活費も自己負担なのだそうだ。
それなりの能力のある人材とはいえ、勤務してまだ数年と経たない彼女が在籍のままでNGO活動に参加することを認める企業のほうもなかなかのものである。たぶん、長期的にみればその企業にとってもプラスになるという判断があってのことなのではあろう。情勢や社会意識が変化したせいか、近年この種の話をよく耳にするようになってきたが、一昔前の国内企業などならば到底考えられなかったことである。
そのYさんを午後一時過ぎ東横線武蔵溝口駅で拾い、府中国立インターから中央高速道に入って松本方面目指して走り出した。天気もよいことなので、どうせなら冬の北アルプスの夕景でも眺めながら話でもというの彼女の希望もあってのことだった。日帰りの予定に加え、日脚の短い冬日とあって日没まであまり時間もなかったから、アクセルを踏む爪先にもおのずから力が入った。
すでに太陽が西よりの空に差しかかっていたこともあって、運転席の真正面から陽が射し込んできた。冬の太陽は夏に較べて高度が低いから、午後二時を過ぎたくらいの時間帯でも陽光は運転席や助手席をストレートに照らし出す。眩しくても暑さはあまり感じないため、ついつい陽射の強さを忘れてしまうのだが、大気も澄んでいるうえに顔面に対する光線の入射角も大きくなるから、うっかりすると思わぬ洗礼を浴びる結果になりかねない。気がついたときには、二人とも顔色が赤っぽく変わるほどに日焼けしてしまっていた。
冠雪を戴く南アルプス連峰や長大な秩父山系の山々を遠望しながら甲府盆地を走り抜け、小淵沢へ近づく頃になると、右手には八ヶ岳連峰、そして左手には鳳凰から甲斐駒ヶ岳へと連なる標高二千八百メートル前後の峰々が大きくその姿を現した。南アルプス連峰の北端に位置する鳳凰三山や甲斐駒ヶ岳の鋭く切り立つ北壁は、壁面全体が純白に雪化粧され神々しいばかりのたたずまいだった。
鳳凰山系の地蔵ヶ岳の頂上には高さ三十メートルほどのオベリスク(鋭い岩の尖塔)があるのだが、視界が良好だったのでその尖った岩塔の影をもはっきりと識別することができた。上高地の存在を世に知らしめ、日本アルプスの名を海外に広めたウォルター・ウエストンは、その著「極東の遊歩場(The playground of far east)」(山と渓谷社刊)の中でこの地蔵ヶ岳のオベリスクにロープを使って初登頂した際の想い出などを述べたりしている。
左手の鳳凰や甲斐駒ヶ岳に対し、右手の八ヶ岳のたたずまいは編笠岳南面の雄大なスロープとそれに続く山麓の広さのせいもあって、みるからに女性的な感がする。たまたま山頂一帯が雲に覆われ八合目付近から下側しか眺めることができなかったので、いっそうそんな印象が強く残った。山梨県側からだと難しいが、長野県の茅野や諏訪方面からだと蓼科山を含む八ヶ岳連峰の全貌を一望のもとにおさめることができる。おかげで、諏訪パーキングエリアに着く頃には、八ヶ岳連峰の山肌が夕陽に赤く染まるのを眺めることができるようになった。もっとも、八ヶ岳の山頂一帯は依然雲に覆われたままだったので、雪の積もった峰々の中腹部だけが帯状連なって赤く輝くというちょっと変わった夕景色ではあった。
長野道方面に分岐し、岡谷で高速道を降りて国道二十号伝いに塩尻峠を越えると、アルプスの展望台として知られる高ボッチ山へ続く林道に入った。こまごまとした道路状況まで知り尽くした林道ではあるが、路面はガチガチに凍結した積雪で覆われていたので、山頂方面に進むには四輪駆動に切換え、チェーンを装着する必要があった。だが、結局、そのまま少し進んだところで引き返えそうということになってしまった。西方の北アルプス連峰一帯が厚い雲とガスに覆われ、まったく展望が利きそうにないことがわかったからである。くわえて日没も間近だったから、それ以上無理して林道深く分け入っても仕方がないという判断もあった。
北アルプスの眺望を楽しむことは諦めざるをえなかったが、だからといってそのまますんなり東京へ戻るのもあまりに無策すぎる。そんなわけで、急遽、目的地を変更、塩尻市街を抜けて木曽路に入り、奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿などの旧宿場町を巡り、それから中津川に出て中央道経由で東京に帰ろうということになった。当初の予定をかなり超えたロングランのドライブになりそうだったが、私にすればいつものことゆえ、たいして気にもならなかった。
天候が変わり小雪のちらつきだした木曽路を南下し、奈良井宿に入ったのは午後六時頃だった。幾度となく木曽路を訪ねたことのある私はともかく、同行のYさんにとっては木曽路の旅は初めてのことだった。だから、突然現れた眼前の光景に、彼女が、感動した面持ちで「まるでタイムスリップしたみたい……」と呟いたのは当然のことだった。
シーズンオフなのにくわえ、既に宵闇の深まる時刻とあって、往時の宿場町の姿そのままに軒を連ねる家々は、皆すでに戸締りを終え、ひたすら静まりかえっていた。午後六時といえば、ちょっとした町ならまだどこでもかなりの往来があるのが普通なのだが、旧街道をはさむこの奈良井宿の街並みに人影はまったく見当たらなかった。そしてそのかわりに、立ち並ぶ家々の軒先に点々と灯る古風な和紙張り角灯の明かりが、あたりをほのやかに照らし出していた。旧街道筋や大小の路地はみな雪で覆い固められていたが、あちこちの家々の格子戸から漏れる光がその雪面に暖かく、しかもやわらかく映えてわたっていた。
路上に人影がまったくないにもかかわらず、しかもしんしんと冷えこんでいるにもかかわらず、これほどに人の温もりの感じられる空間が存在するということは不可思議なことであった。雑踏と騒音に溢れかえってはいるが、どこか荒涼かつ索漠としたものの漂う現在の都会の空間とそれは対極に位置するもののように思われた。
車から降り、しばらくの間、我々は雪を踏みしめながら奈良井の街並みを歩き回った。そして、街路が二度直角に折れ曲がる旧宿場町に特有な「鍵の辻」のあたりをめぐったり、「枡形」という昔ながらの共同浄水槽に湧き溢れる清水で喉を潤したりしながら、しばし散策を楽しんだ。
うまい蕎麦で知られる相模屋の前には、とても愛嬌のある雪ダルマがひとつぽつんと立っていた。その大きなタドンの目は、まるで何かを言い出したそうに、じっとこちらを見つめていた。奈良井宿の街並みのなかほどにある折橋漆器店もむろん閉ってはいたが、店の奥のほうからはなお一条の明るい光が漏れてきていた。
たぶんいまも置いてあると思うのだが、以前この店ではなかなか洒落た箸置きを売っていた。しっかりと漆を塗って艶やかに仕上げられた小振りで形のよい独楽の箸置きで、黒の漆塗りを基調にし、そのうえから赤、緑、金、銀などの曲線模様の装飾がほどこしてある。五個ほどがセットになったものあるし、一個ずつのバラ売りのものもあり、値段のほうも手頃だった。私はよくこの独楽の箸置きをお土産としてセットで買い求め、友人や知人に進呈したものである。
この独楽の箸置きがなによりも洒落ているのは、単に風変わりな箸置きとして使えるばかりでなく、ほどよい重量感があって、テーブルの上などで実によく回るのだ。実際、初めて目にする人にこの箸置きを一個だけ手渡したら、皆が皆、それは独楽だと思うに違いない。箸置きだと考える人などまずいないだろう。食前や食後に、テーブルを囲む家族や仲間同士で独楽回しくらべの余興を楽しむことだってできるのだ。いつの時代の誰の着想によるものかは知らないが、遊び心豊かなことこのうえない。
奈良井宿の南側には、表日本と裏日本との分水界の一部をなす標高一一九六メートルの鳥居峠が聳えている。いまなら国道十九号伝いに鳥居トンネルを抜けると難なく反対側の薮原に出ることができるが、昔の人々はこの鳥居峠を徒歩で越えていた。中山道を経て江戸に向かう大名行列などもむろんその峠道を辿ったのだ。かなり道が拡幅され、車もと通れるようになっているが、いまも薮原方面に通じる旧道の面影は残っているので、興味のある人は訪ねてみるのもよいだろう。
空調設備などない昔は、この鳥居峠を境にし漆器造りには一種の分業体制が敷かれていたらしい。夏場湿度の高くなる薮原や宮ノ越など鳥居峠以南の集落では、木地どりや木肌のままの漆器類原型造りがおこなわれ、それらは鳥居峠以北の奈良井や平沢といった集落に運ばれて、そこで漆塗りの仕上げ作業がなされていた。漆塗りの作業には冷涼で乾燥した気象条件が欠かせない。峠ひとつ越えただけなのに、奈良井宿や平沢宿は薮原宿などにくらべてずっと湿度が低いから、漆塗りや仕上がった漆器の保存には格好の土地柄だったのだ。
「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花あるきみと思ひけり」という、島崎藤村の有名な詩「初恋」に出てくるおゆうさんの差していた花櫛も、古来おろく櫛で名高い薮原で原型となるものが造られ、奈良井でそれに漆を塗ったり装飾をほどこしたりして仕上げられたものだったようである。
奈良井宿の散策を終え車に戻った我々は、鳥居トンネルをいっきに走り抜け、木曽街道を妻籠、馬籠方面に向かって南下した。目指す妻籠は藤村の初恋の人、おゆうさんの嫁いだ旧脇本陣のある宿場町、そしていまひとつの馬籠のほうは島崎藤村その人とおゆうさんとがともに生まれ育った宿場町にほかならなかった。
2002年2月13日