初期マセマティック放浪記より

207.奥の細道・封人の家考

奥の細道尿前の関の章に「大山をのぼって日既に暮れければ、封人の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれてよしなき山中に逗留す」と記述されている封人の家は、重要文化財の指定をうけ、現在も山形県最上町堺田に残る旧有路家住宅であると言われている。悪天候のため、やむなく芭蕉一行は三日間この封人の家に滞在し、天候の回復を待っていたわけである。そして、その間に詠まれたのが「蚤虱馬の尿する枕もと」という有名な一句にほかならない。蚤、虱、尿といったような、人々がもっとも忌み嫌う対象物をありのままに句に詠み込み、奥の細道の文章のなかほどに平然と配した芭蕉の俳諧精神の達観ぶりを、芭蕉研究の専門家たちは皆そろって高く評価してもいるようだ。

ところで「大山をのぼって日既に暮れければ」とあるところの「大山をのぼって」とは鳴子から尿前の関を経て堺田に至る中山越えの道をさすのだが、既に書いたように鳴子の町と途中の峠の最高地点との高度差は二百メートルくらいのものだから、現実にはそれほどの難路だったとは思われない。かなり以前に画家の渡辺淳さんと二人で、芭蕉一行が中山越えのときに通ったと言う小深沢の六曲がりの古道を十五分ほど歩いてみたことがある。そのときは、こんな道が延々と続いていたら大きな峠を越えるのは結構大変なことだったろうなとは思ったのだが、あとでよくよく地図を見ながら考えなおしてみると、急なのぼりのそんな沢道は行程中のごく一部にすぎなかったようである。

また、問題の一句を素直に読むと、芭蕉一行が泊まったのは、掘っ立て小屋か粗末な藁小屋みたいなところで、不潔な小屋の中には蚤や虱がウジャウジャしており、身体中が痒くなって眠るどころの騒ぎではなかったような感じをうける。しかも、同じ小屋の中で飼われている駄馬が枕もとでジャージャーと放尿する始末なのだから、とても安眠できるような状況ではなかったろうとも想像したくなる。

しかしながら、この日初めて訪ねてみた封人の家のたたずまいは、句に詠み込まれているのとはまるで異なるものであった。そもそも、封人の家とは陸前仙台領と出羽新庄領との国境を守る役人の家のことを意味している。実際の考証では、新庄領堺田村の当時の庄屋の家、つまり、この旧有路家住宅であったといわれている。いずれにしろ、仙台領と新庄領とを結ぶ重要な交易路、北羽前街道の要衝の集落なのだから、その地を預かる役人や庄屋の家がそれほどに粗末なものであろうはずもない。

実際に目にしたその家屋は、総茅葺の屋根をもつ建坪81坪(270平方メートル)もの立派な建物であった。ほぼ東西にのびる長方形の建物の北西奥が縁側付き約十畳の畳敷き床の間、その南側にあたる南東奥が十二畳半畳敷きの入りの座敷、入りの座敷の東側がやはり畳敷き十五畳の中座敷、そして、床の間の東側、すなわち中座敷の北側が十二畳の板敷き納戸の間になっていた。また、納戸の間と中座敷の間の東側には約十八畳の総板敷きの間があって、そのなかほどには大きな囲炉裏がしつらえられていた。ここが当時日常的に使われていた居間だったらしく、囲炉裏にはこの日も赤々と炭火がおこされており、自然に身体が暖まっておのずから心安らぐ感じであった。さらに、入りの座敷、中座敷、囲炉裏のある板敷きの間の南側には通しの大廊下があって、その廊下の入りの座敷に面する箇所の外側に玄関が設けられていた。

では問題の厩が屋内にあったのかというと、実際に、立派な造りのも厩が三つも設けられていたのである。十八畳の板敷き居間の東側には面積十五坪(三十畳)をゆうに超える大土間があって、そこには炊事用の大竈や水屋(内井戸などのある生活用水場)が昔のままに残されていた。かつてこのような土間は、炊事場、洗い場、各種作業場、物資保存場などとして多様な使い方がなされていたようである。そして、この土間の東側、すなわち家屋の最東端に、四坪(八畳)ほどの厩が一つと三坪(六畳)ほどの厩が二つ並び配されていたのである。

当時小国と呼ばれていた最上町一帯は中世以来の有名な馬産地で、江戸時代には新庄藩の保護奨励のもとに、武士たちに供する乗用馬を産出していた。この小国地方では牡馬(雄馬)を各地に送り出しており、「小国駒」と呼ばるそれらの馬は、遠く江戸や越前地方にまで移出され、重用されていたのだという。そのようなわけだから、この厩で飼われていた馬たちは農耕用の駄馬などではなく、我が子のように愛情深く育てられた高級馬であったようなのだ。芭蕉らの逗留時に何頭の馬が飼われていたのかはわからないが、こざっぱりしたそれら三つの厩舎があれば、すくなくとも五、六頭の馬の収容が可能だったのではないだろうか。

通常、最奥の床の間や入り座敷の間は使用されておらず、折々街道を通る大名やそれに従う高位の武士たちの休憩や宿泊に供されていたらしい。たまたま居合せた管理人に、芭蕉一行はどの部屋に泊まったのかと訊ねてみると、中座敷だったそうですという返事が戻ってきた。最上の間ではなかったにしても、それに次ぐなかなか立派な畳敷きの座敷だから、蚤や虱がそうそう出たとは思われない。寝具だって、豪奢なものではなかったにしてもそれなりに清潔なものが提供されたと考えるのが自然だろう。馬の尿にいたっては、その音がはっきりと聞こえたかどうかさえ疑問である。中座敷から厩まではすくなくとも六間半(11.7m)はあるから、枕もとで馬が放尿するという状況にはおよそ無縁だったと言ってよい。

ともかくこうして実際に現場を訪ね、その家の構造を我が目で確かめてみた結果、山刀伐峠についての叙述と同様に、「蚤虱馬の尿する枕もと」と詠まれた封人の家の状況は事実とはずいぶん異なっていたらしいことが判明した。中山越えや封人の家の描写、さらには山刀伐峠越えの記述のいずれをとっても、ずいぶんと誇張された表現の多いことだけは、もはや素人目にも明らかであった。

そしてこの時点で、私は再び芭蕉がなぜそのように事実とはずいぶん異なる記述をあえて書き残したのかという疑問に立ち戻ることになった。もっとも、この時にはもう、芭蕉の世界にうとい私にもさすがにその答えらしいものがそれなりには判りはじめてはいたのである。疑問解消の糸口となったのは、ずいぶん以前に聴いたドナルド・キーン氏の奥の細道についての講演の記憶だった。

その講演において、ドナルド・キーン氏は、「フィクション部分があるからといって奥の細道の文学的な価値がさがるわけではない。むしろそれによってその芸術性は一段と高められている」とあらかじめ断わったうえで、実のところ奥の細道にはいくつものフィクションの部分があることを具体的に指摘してみせた。また、同氏によると、自らの作品を納得ゆくまで推考し、何度も手直しするというのは芭蕉の常であったのだそうで、数々の有名な芭蕉の句のなかには即興句はほとんど存在していないとのことでもあった。

山形県の山寺にある立石寺で詠んだとされる有名な一句、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」
は完成に至るまでに少なくとも三回は手直しされ、最終的には当初の句とはかなり違ったものになったというし、旅立ちに際し見送りの人々との別れを惜しみながら千住あたりで詠んだとされる句、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」にいたっては、奥の細道の旅を終えたのちに詠み加えられたものであるという。

明らかにフィクションとわかるのは、日光で詠まれた、「あらたふと青葉若葉の日の光」
という一句なのだそうで、曽良日記その他の資料などをもとに詳しく考証してみると、芭蕉一行が日光を来訪した時は雨続きで、青葉若葉が日の光を浴びて輝きなどしていたはずがないとのことだった。

「石の巻」の段には、「山深い猟師道を迷い抜けてようやく繁栄をきわめる石の巻の町についたが、なかなか泊めてもらえるところが見つからない。やっと見つけた貧しい小家に泊めてもらい、夜が明けてから、また知らない道を迷いながら歩いていった」という内容の記述がある。ところが、実際には、当時すでに伊達藩の要港だった石の巻周辺の道路は十分に整備が行き届いていて迷うようなことはなかったはずだし、泊まった家もほんとうは地元の豪商の立派な邸宅だったというのである。芭蕉があえて事実と異なる記述をしたのは、石の巻周辺の栄華ぶりが自ら理想として想い描いていた陸奥の情景とは違ったものだったからではなかったかということであった。

荘厳に輝く中尊寺光堂に感動して詠んだといわれる「五月雨の降りのこしてや光堂」の句に関しても、「曽良日記によると、光堂を包み守る覆い堂には錠がおろされていて、実際には芭蕉たちは何もみることができなかったようなのです」というキーン氏の指摘があった。どうやら、奥の細道のクライマックスの一つとして欠かせない光堂の情景を芭蕉は想像力を駆使して心眼で透視し、その心象風景をきわめて芸術性の高い歴史的な名句として詠みあげたということであるらしい。それはそれでまた見事としかいうほかはないような話ではあった。

芭蕉は四百字詰め原稿用紙で三十五枚ほどに相当する奥の細道の全文を完成させるのに五年もの歳月をかけたのだという。その理由は、句の部分ばかりでなく、散文部を含めたその作品全体を、きわめて完成度の高い詩篇ないしは詩物語として仕上げようという意図があったからだろうというのが、ドナルド・キーン氏の見解だった。私はその講演を聴きながら、「長大な旅路における数々の実体験が芭蕉という稀代の天才の心を通して一度濾し分けられ、それが深い感動を伴う究極の心象風景となって、『奥の細道』という普遍性の高い作品へと結実したのだ」ということなのだろうと了解した。奥の細道が国外でも広く愛読されているというのも、そう考えればおのずから納得のいくことではあった。

奥の細道の随所において事実とは異なる記述がなされたり、大袈裟とも思われる表現が用いられたりしているのは、はじめから芭蕉には事実を克明かつありのままに記述する意図もなかったし、またその必要性もなかったからに違いない――今回の山刀伐峠や封人の家の探訪を通じて、つまるところ私はそう確信するにいたったのだった。紀行文などというと、なにもかもを事実に即して克明かつ正確に記述しなければならないように思われがちだが、それは現代的な紀行文に毒された我々の勝手な思い込みだともいえる。奥の細道という作品の記述に事実との一致を求めることそのものが無意味なことなのである。

一流の画家というものは、ひとつの現実の風景を目の前にしてその画家なりの心象風景をつくりあげ、それをキャンバスに描きとめる。印象派の作品の場合はむろんだが、たとえ写実主義の画家の作品だったとしても、もはやそれは厳密な意味での写実とは異なっているはずである。そのようなわけだから、絵画の世界ではなんでもない風景をもとにして後世に残るような感動的な名作が生み出されることだってすくなくない。そのような場合、完成した絵の風景が現実の風景とは異なるからといって、その絵の評価が低くなるようなことはまずもって考えられないことだろう。

芭蕉の奥の細道を陸奥の旅を題材にした一幅の絵巻、それもきわめて完成度の高い絵巻物語だと考えてみるならば、すべては説明のつくことである。それは、実際の旅の出来事を素材にした心象作品、べつの言い方をするなら、ノンフィクションをベースにしたこのうえなく良質なフィクションなのだということになるのだろう。芭蕉という稀代の「言葉の絵師」に偉大な絵巻物師の姿を重ね見るならば、万事納得がいくというわけなのだ。

遠く李白を偲び、歌人西行法師の旅の心に傾倒していたといわれる芭蕉は、奥の細道の旅路のなかに先人たちが辿り訪ねた昔ながらの風物や風情を求めようとしたに違いない。だが、旅先で現実に芭蕉が目にした光景は、かならずしも彼の期待に添うようなものではなかったのではなかろうか。

元禄という名の新しい時代の波が、行く先々の景観を善い意味でも悪い意味でも大きく変えてしまっていただろうことは想像に難くない。現代の我々が芭蕉らの歩いた古道や名所旧跡を辿るとき、昔の面影などどこにもないあまりの変容ぶりに歎息するのはよくあることである。それと同様の思いが元禄時代の芭蕉にもすくなからずあったと考えてみるのが自然なことではあるだろう。そうだとすれば、奥の細道を完成させるにあたって、芭蕉が終始心象風景の記述に徹しぬいたこと、すなわち、実際の旅を素材にした一大フィクションの創作に専念したことは、当然の成り行きであったと言うべきだろう。
2002年10月30日

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