初期マセマティック放浪記より

171.妻籠宿から馬籠宿へ

浦島伝説の残る上松町寝覚ノ床の町営温泉につかったりしていたため、妻籠宿に着いたのは午後九時半頃だった。妻籠は、奈良井、馬籠(まごめ)などと並んでいまなお昔日の宿場町の面影を留める集落として名高い。しかも、それら三つの旧宿場町のなかで、往時の街並みの構えや雰囲気といったものをもっともよく残しているがこの妻籠宿である。

おなじ旧中山道の宿場町とはいっても、妻籠宿はずっと南の中津川近くに位置するから、奈良井などにくらべれば雪は少ない。この夜も集落周辺の路上に積雪らしいものはまったく見あたらなかった。街中を歩きだす頃には、夜空の雲のあちこちが途切れ、その雲の切れ間から上弦をいくらかすぎた半月が時々顔をのぞかせた。雲間から月光が零れ落ちはじめると急に街並みは明るさを増して浮き上がり、逆に雲によって月光が閉ざされると街並みは再び暗く沈んで、家々の軒先に点々と灯る屋号入りの角燈のほのやかな輝きがその存在の度を増した。その明暗のコントラストの醸し出す不思議な情景は、まさにこの宿場町の夜ならではのものだった。

もちろん、旧街道をはさんで軒を連ねる家々はどこもしっかりと戸締りをして静まりかえり、屋内から明かりの漏れている家などはほとんど見当たらなかった。そして、夜通し灯っているらしい各家の四角い和紙張り軒燈だけが、この宿場町に住む人々の温かい息づかいを間接的に伝えていた。そもそも真冬のこんな時刻に妻籠の街中を歩くということのほうが尋常ではないのだったが、常軌を逸した行動をとるがゆえにこそ目にすることのできる感動的な情景というものもまた存在している。この夜妻籠の街並みに見たものはまさにそのような光景であったと言ってよい。

現在は奥谷郷土資料館となっている旧脇本陣や昔ながらの鍵の辻のあるあたりを中心に、ひとけのない街並みをあちこち歩きまわっていると、突然遠くのほうでカチカチカチと拍子木を打ち鳴らしながら「火の用心!」と叫ぶ夜回りの声が聞こえてきた。昔なら国内のいたるところで見ることのできた光景だが、いまではそんな夜回りの姿などめったに目にすることができなくなった。我々はうしろから徐々に近づいてくる乾いた拍子木の響きと「火の用心!」と叫ぶ声とを懐かしい想いで耳にしながら、大きな軒を連ねて立ち並ぶ二階建ての旅篭や民家の蔀戸(しとみど)や連子格子(れんじごうし)、軒下の古風な看板などを見てまわった。

変な時刻に見慣れぬ二人連れが歩いているのを、うしろから近づいてくる夜回りの男がどう感じたかは知らないが、相手のほうから自然な調子で「こんばんは!」と声を掛けてきてくれたところをみると、とくに怪しい者たちだとも思わなかったのであろう。我々を追い越した夜回りの男の「火の用心!」の声と拍子木の音が徐々に遠ざかっていくのを聞きながら、私は不思議な感慨を覚えていた。もしもこのような宿場町の一角で火災が発生したりしたら、軒を接する家々はたちまち類焼してしまうに違いない。そんな事態を防ぐためにも、昔ながらの夜回りの存在はそれなりに意味あることなのだろう。

藤村の初恋の人、おゆうさんの嫁いだ旧脇本陣の建物は、城郭三層造りで妻籠宿の民家のなかでもひときわ大きい。特殊な隠し部屋や隠し階段などがあったりして構造的にも大変面白い建物である。現在は資料館になっているこの建物の内部には、かつては「檜一本首一本」と言われ、一本を無断伐採しただけで即刻首が飛んだというほどに貴重な檜材が柱や板壁、仕切り戸などにふんだんに用いられている。また、島崎藤村がその名を成したのちにおゆうさんに贈ったという「初恋」の詩の直筆額なども飾られ、訪ねる者の目を楽しませてもくれている。

大変風変わりで面白いのは、明治天皇行幸の際特別に設えられたというテーブルとトイレだろう。当時この妻籠一帯には洋式テーブルや洋式椅子などを所有する家などなかったので、地元の大工が間接的に聞き及んだ情報をもとに急遽組み立て式の洋卓と洋椅子とをこしらえたらしい。明治天皇は礼装用軍服に長靴姿のままでこの屋内に上がり、にわか仕立てのテーブルにすわったのだという。

これも特別に造られたというトイレのほうは、天皇の滞在時間が短かったため、実際には使用されなかったようだ。そのため、その畳敷きのトイレは由緒ある「使わずのトイレ」として現在まで大切に保存され、来訪者に公開されている。国内広しといえども、トイレが観光の目玉のひとつになっているのは、この妻籠の資料館くらいのものであろう。

いまひとつ面白い道具として記憶に残っているのはこの脇本陣で用いられていたという特殊な鉄製の燭台である。ふだんは畳の隙間などに脚部下端をさりげなく差し込んで立て置き、上端部の台に蝋燭を灯して使うのだが、いざというときこの燭台を引き抜き逆さまにして持つと、たちまち武具に早変わりするというシロモノなのだ。燭台脚部の鋼鉄製先端は鋭く研ぎすまされて槍の穂先のようになっており、無防備の状態のとき何者かに不意を突かれたような場合には、燭台を抜いて応戦できるようになっていたらしい。

もちろん、夜遅くのことゆえ資料館のなかを見学することはかなわなかったので、Yさんにそんな資料館内部の様子などを話し聞かせたりしながらゆっくりと車に戻った。そして最後の探訪地である馬籠宿目指して走りだした。

妻籠をあとにすると、清内路峠を経て伊那谷方面に向かう国道をすこし登り、そこから右に分岐して馬籠峠方面へと続く山道に入った。妻籠と馬籠をつなぐ旧中山道は自然遊歩道として現在も断続的に保存維持されているが、車道の建設整備などのためすっかり様変わりし、昔日の風情はかなり失われてしまっている。

かつては一車線のダートだった車道は、いまではすっかり拡幅舗装され、歩行者用の旧中山道と何度も交差しながら馬籠峠へとのびている。峠に向かって車の高度が上がるにつれ、道路の両脇やそれに続く山の斜面の積雪が増えてきた。しかも、その積雪は、おりからの月光を浴びて次第にその白々とした輝きを強めていった。いつしか夜空は晴れ上がり、西寄りの空に位置する月齢十日ほどのふっくらした半月の影が、驚くほどに明るくそして眩しかった。

対向車も後続車もまったくなかったので、試しに車のライトをすべて消し、月明かりと雪明りだけを頼りに走ってみた。周辺に道路灯や街灯はまったくなく、民家も皆無だったから、文字通り自然光のみによる夜間走行というわけだったが、なんともこれが快適そのものなのだった。のんびりと走るかぎり、運転には何の支障も感じられなかった。それどころか、どこか神秘的にさえ感じられる月光と雪明りのみが頼りの山路の旅は、このうえない贅沢であるようにさえ思われてならなかった。

しばらくそうやって走っていると、時刻表示灯の緑色光だけが妙に目にちらつきはじめた。通常ならまったく気にならないほどの微光なのだが、不思議なものでそのグリーンの輝きが意外なほどに眩しく感じられるのだ。ライト類は全部消してあるのだが、この時刻表示灯だけはエンジンを切らないと消えてくれない。やむなく、時刻表示灯の表面に持ち合わせの本をかぶせて光を遮ると、それまでの違和感が解消されて実に自然な雰囲気になった。

冴えざえとした月光と白々とした雪明りに心身の垢を洗い浄められるような思いで峠を越えると、ほどなく馬籠宿の坂上側入口に着いた。馬籠宿の集落は石畳の敷かれた急坂の街道沿いに発達している。私自身は過去何度もこの宿場町を歩いたことがあるので、Yさんだけを降ろし、坂下側の入口に車をまわしてそこで彼女を待つことにした。

坂下側の馬籠入口に着くと、大きく黒々とした恵那山の姿が月明かりのなかに浮かんで見えた。島崎藤村の生地として知られるこの馬籠宿は、明治初年に大火に遭い、その時に旧構のほとんどを焼失してしまった。だから現在の民家の建物はのちに建てられたものである。藤村の生家のあった旧本陣跡周辺は現在島崎藤村記念館となっており、文豪ゆかりの品々が多数収蔵陳列されている。そのほかにも槌馬屋資料館、馬籠宿場郷土館、清水屋資料館などもあって、藤村に関する資料には事欠かない。藤村記念館近くの永昌寺には藤村自身の墓のほか、名作「夜明け前」の主人公青山半蔵のモデルになった藤村の父、島崎正樹の墓などもある。

Yさんがなかなか降りてこないので、下側から石畳の坂道をすこしばかり上ってみた。藤村ゆかりの地でもあり、また様々な老舗や大きな宿屋が立ち並んでいることもあって、昼間なら三つの旧宿場町のなかではこの馬籠宿の賑わいの度がもっとも大きい。ただ、時間が時間だったのでさすがに人影は見当たらなかった。そしてそのかわりに、急な坂道の両脇を流れくだる用水路の水音が、夜の街並みにひときわ高く響き広がりわたっていた。

山間に位置する旧宿場町に共通な特徴は、豊かな水に恵まれていて、軒を連ねる家々の前の側溝を澄んだ水が淀みなく流れていることだろう。往時においては、その水は生活用水として食材の下洗いや衣類の洗濯などに使われていた。かつての用水路の果たしていた役割などもう忘れ去られて久しいが、それでも、古い集落を訪ねた折などにその名残を目にしたりすると、 なんだかほっとした気分になる。もしかしたら、幼少期、水と深く関わって育った私だけの勝手な想いではあるのかもしれないが……。

階段状に立ち並ぶ民家を一軒一軒物珍しげに覗き込みながら坂道を降りてくるYさんの姿をようやく見つけ、のんびりとしたその歩行ペースに付き合いながら車へと戻った。当初の予定にはまったくない、しかも時間外れの旧宿場町探訪であったが、彼女にとっては望外の貴重な体験であったようだ。

「たまたまですけど、夜遅くに木曽路を訪ねてかえってよかったかもしれませんね。この夜の風景もすてきだし、宿場町を歩いていてもよけいなものが目にはいらないから、かえって印象的に思われて……」というYさんの言葉には、この日彼女がうけた感動のすべてがこめられている感じだった。

再びハンドルを握り馬籠宿をあとにすると、私は一路東京目指して走りだした。中津川から中央道に上がり恵那トンネルをいっきに駆け抜けると、右手視界いっぱいに広大な伊那谷の影が浮かび上がった。大きく西に傾いた月の光がその谷をほの青く照らし出している。伊那谷の向こうで黒々とした影を連ねる南アルプス連峰も、稜線のあちこちを銀紫色に輝かせる左手の中央アルプス連峰も、泰然と構えてひたすら沈黙するばかりだった。途中でちょっとばかり眠気がさしてきたけれど、それでもなんとかそのまま中央道を走り通し、翌日の仕事に差支えないくらいの時刻までには東京に戻り着いた。むろん午前零時はとっくに過ぎてしまっていたので厳密な意味での日帰りではなくなってしまったが、成り行き上それはやむをえないことだった。
2002年2月20日

カテゴリー 初期マセマティック放浪記より. Bookmark the permalink.