初期マセマティック放浪記より

132.えっ、エンジンにトラブルが?

八ヶ岳と諏訪湖を眺め終え、車に戻ってエンジンをかけようとすると、マグネットが吸着し合うときのようなカチンという金属音がするだけで、スターターが始動しない。何度もあれこれ試してみたのだが、どうしてもエンジンは起動しなかった。バッテリーが上がったのかなと思ってヘッドライトを点けたり、一時的にエアコンを作動させたりしてみたが、それらの様子からするとバッテリーが直接の原因ではないようだった。どうやら、電気系統かセルモータそのものの故障らしい。エンジンルームを開け、素人なりの知識を総動員してあちこちいじくりまわしてみたがまるで埒(らち)があかない。

ここはもうJAFにSOSを依頼し、場合によっては岡谷か塩尻の工場まで牽引してもらうしかないだろうと腹を括った。JAFの会員歴そのものはもうずいぶんと長いのだが、その間にお世話になったのは二度だけだ。一度は東北自動車道を走行中のことだった。ラジエータが突然破損、急激な冷却水漏れが起こり、エンジンルームから上がる白煙に気がついたときには既にシリンダーが焼きつき走行不能に陥っていた。いま一度は伊豆半島の山中で、二十万キロ以上も走った前のライトエースが昇天したときのことである。老朽化が進んでいたせいだろう、これまた走行中、突然、後部座席でボーンという破裂音がし、シューッという音をたてて突然車内に熱湯混じりの高温蒸気が噴水みたいに吹き上がるという信じられない出来事が起こった。暖房系の配管が破れそこから高温高圧化した冷却水が噴出してしまったのだが、幸い後部座席は無人だったので最悪の事態は免れた。

山中でトラブルが生じたときなど、以前はJAFへの連絡そのものが大変だったが、いまでは携帯電話という利器があるから実に有り難い。とりあえずJAFのサービスセンターをコールし詳しく状況を説明すると、松本基地から出動するので一時間ほど待っていてほしいとの返事だった。この展望台にはなぜか名前がついていなかったので、JAFの女性係員に正確な位置を伝えるのに苦労したが、諏訪湖と八ヶ岳とがよく見える塩嶺城パークライン沿いの展望台を探してほしいということで納得してもらった。この時代のことだから、JAFのサービスカーなどは精度の高いGPSを装備しているに違いないし、こちらの携帯の番号も伝えておいたから、問題はないだろうと考えた。

もういちど八ヶ岳を眺めたり周辺を歩き回ったりして小一時間ほど時間を潰していると、JAFのサービスカーがやってきた。松本基地から出動してくれたサービス員は馬場亮さんというがっしりした中年の男性で、その身振舞いにも言葉使いにもたいへんに好感がもてた。信頼感溢れる馬場さんの登場に、これで問題解決は間違いないなと私は強い確信を覚えたのだった。

ところがである、なんともはや、こちらの確信以上のことが起こってしまったのだ。必死に看病している周りの者に向かって「死ぬ、死ぬ」とわめいていた急病人が、信頼できる名医の顔を見た途端に安心し、まだ何の治療もしていないのに様態が嘘のように落着き元気になってしまうようなことがたまにある。こともあろうに、それとまったく同じ状況が起こってしまったのだ。

私から一通りの状況を聴き終えた馬場さんは、エンジンルームが開いたままの車をちょっと覗き込むと、スターターを始動してみてくれるようにと合図した。そこでエンジンキーを軽く回すと、なんとも呆れ果てたことに、あれほどあれこれ試しても動かなかったエンジンが一度で起動したのである。相手が機械でなかったら、「セル・モータのぶんざいで、ずいぶんと人を舐めやがって!」と一発ゴツンと小突いてやりたい気分だった。

ところが、そんな私の心を見透かしたように、馬場さんはニコニコしながらなんとも意外なことを教えてくれた。このような始動不良は古くなったセル・モータにしばしば起こる現象で、より大きなトラブルの予兆みたいなものなのだという。セル・モータが老朽化したような場合、ちょっとしたカムの噛み合わせの悪さやバッテリーの起電力のわずかな低下などが誘因となってこのようなことが起こるらしい。そんな時には、しばらく放っておいてから再試行すると、なんなく始動することも少なくないのだそうだ。あらためて何度かエンジンの始動と停止を繰り返してみたが、先刻の事態が嘘のように何の異常も起こらなかった。

「もしもまた始動しなくなったら、セル・モータを外側から棒か何かで叩いてみてください。そうすれば動くと思います。東京に戻り着くくらいまでなら、それで何とかなるはずですから……」と笑いながら、馬場さんは、再度始動不能に陥った場合の対応策まで伝授してくれた。なんのことはない、コンチキショーッとばかりにセル・モータに二、三発喰らわせれば、相手は素直に言うことをきいてくれるということらしいのだ。紳士的でありさえすれば何事もうまくいくはかぎらない。この世はなんとも厄介なものである。

JAFの会員であったため、八千円ほどの出張費と技術料(アドバイスも立派な技術にほかならない)は無料となった。馬場さんが手渡してくれた作業内容証明の記録用紙には、「到着時、作業なしでエンジン始動。スターターの不良と思われる」と記入してあった。

馬場さんには鄭重にお礼を述べ、別れ際にとりあえず手持ちの拙著一冊を進呈した。ついでにAICの宣伝などもしておいたから(しがないライターの身ゆえ、読者獲得のため、日夜涙ぐましい努力もしているわけです)、もしかしたらどこかでこの一文を読んでもらっているかもしれない。おもむろに現場を立ち去っていく馬場さんの車を見送っているうちに、いちどJAFのサービス車に取材を兼ねて体験同乗し、「JAF二十四時間奮闘記」みたいなルポルタージュものを書いてみるのも悪くないかなと思ったりもした。もちろん、そんな便宜をJAFサイドにはかってもらえればのことではあるけれども……。

セル・モータの調子が悪いなら、すぐに最寄の岡谷インターチェンジから中央道に上がり東京へと直行すればよさそうなものなのだが、素直にはそうしないのが旅人間の端くれたる所以でもある。せっかくここまで来たのだからいまさら引き返す手はないと、はじめの予定通りそのまま辰野町小野方面へと向かって走り出した。

しばらくアクセルを踏み続けていると、ちょっとした史跡案内表示板みたいなものが立っているの地点にさしかっかった。車を停めて案内板の解説を読んで見ると、その場所から百メートルほど細い坂道を登ったところが旧中山道ゆかりの小野峠であるとのことだった。いまでは訪ねる人もめったにない林の中の細道を踏み進むと、ほどなく峠の最高地点に立つことができた。峠からは東側へと向かって下り道が続いている。この旧道は、往時には三沢を経て、岡谷、諏訪方面へと通じる要路であった。

江戸時代初期、幕閣たちは江戸の町造りに必要な木材を木曽地方から調達しようと考えた。そしてそれらの木材を木曽から諏訪湖畔まで運び出すために、木曽桜沢―牛首峠―飯沼川筋―小野―小野峠―三沢―諏訪湖という木曽谷と諏訪湖とをつなぐ最短路が切り拓かれた。しかし、このルートは距離的には最短だったものの険しい峠が二つもある難路で、当時は途中に人家もほとんど存在していなかったため、その開発を発案指揮した大久保長安らの死後は急速に要路としての役割は急速にすたれてしまったのだという。それからほどなくして、この小野峠越えの中山道は、多少遠回りではあるがより安全で周辺に人家も多い、現在の国道二十号沿いの塩尻峠越えの中山道に取って代わられることになったようである。

しばし峠に佇んで遠い時代に想いを馳せたあと、車に戻ってさらに小野方面へと下っていくと、こんどは、「日本の中心の標まで6.3キロ」と記した小さな標識が目に飛び込んできた。なんだ、こりゃ?――「日本の中心」って一体全体どんなところなんだろう?――そう思いながらいったんはその地点を通り過ぎかけたのだが、その瞬間、気まぐれ虫がまたもや目を覚ましてしまったのだった。すぐさま引き返してその標識の指し示す林道に入り、問題の場所がどんなところか確かめてみろと、気まぐれ虫はしきりにこの身をそそのかし始めた。

かなりの悪路の林道みたいだから途中でエンストなんかし、またセル・モータが動かなくなったりしたら今度こそJAFにも愛想を尽かされてしまうぞ、叩いても再起動しなかったらどうする?――そんな不安が一瞬脳裏をよぎりはしたが、結局、私は無謀を承知で林道へと突っ込んだ。それがどんなに詰まらないところであったとしても、この機会を外したら「日本の中心」とか称される風変わりな場所を訪ねるチャンスは二度とないような気がしてならなかったからだ。

それに、かねてから日本の辺境地ばかりを好んで訪ね歩いているこの身にすれば、その対蹠点とも言うべき地点を目前にしておめおめと引き下がるわけにもいかなかった。万一その近くで車が動かなくなったとしても本望というものだし、それはそれで十分話の種になるという思いもあった。多少の悪路とはいっても、6.3キロの道のりならたいしたことはないから、いざとなったら足に頼ればよいだろう。そう勢い込むと、すぐさま四輪駆動に切り換えて林道へと乗り入れたのだが、相手はこちらが想像していた以上に手強かった。
2001年5月9日

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