新潟と山形にまたがる朝日山系へと向かう途上にあった私は、郡山から国道49号沿いに猪苗代湖畔に出たあと、磐梯山麓を南側から西側へと巻くようにして走り抜け、蔵の町、喜多方市に入った。いまでは「蔵の町」などというより「ラーメンの町」といったほうがずっと通りがよいかもしれない。会津藩の北部に位置していたため、藩政時代には北方(きたかた)と呼ばれていたこの地は、明治の初め喜多方町となり、さらに昭和29年喜多方市に昇格した。市制に移行した当時までは、3世帯に1世帯の割合で蔵を所有していたということだから、文字通り蔵の町だったわけである。
昭和40年代後半になって、喜多方の文化遺産である美しい蔵々が次々に失われゆくのを惜しんだ写真家金田実は、後世にその姿を伝え残そうと決意し、ひたすら蔵の撮影に精魂を傾けた。そして、その写真作品は結果的に多くの人々の感動と社会的な反響を呼ぶところとなった。昭和50年、NHKの新日本紀行「蔵ずまいの町」が放映されるに及んで、「蔵の町、喜多方」は一躍全国的に有名になったのである。
世の中、何が幸いするかわからない。そのことが契機となって、蔵の見学や蔵屋敷の写真撮影のために喜多方を訪れる観光客の数は飛躍的に増大した。まだファミリーレストランやファーストフード店、コンビニエンスストアなどのなかった当時のことゆえ、お昼どきなど、観光客たちは地元の大衆食堂に入り、必然的にその店のラーメンを食べることになった。そんな状況のなかで、地元でもっとも人気のあった特製ラーメンがもっぱら「美味い」と評判になり、その噂がさらに噂を呼んで、「蔵よりもラーメン」とばかりに、ラーメンそのものを食べるために同地を訪れる人々がどんどん増えていった。
その後、究極のラーメンを目指し、町をあげて様々な面での工夫と改良がなされ、いつしか喜多方は、先輩格の札幌、博多と並んで日本三大ラーメンの地と称されるまでになった。現在では、「喜多方ラーメン」のブランドで大量の地元産ラーメンが国内各地に出荷されるようになっている。
喜多方に到着したのは午後三時過ぎだったが、まだ昼食をとっていなかったので、とりあえず国道沿いにある「花ふぶき」というラーメン本舗に飛び込んだ。そして、一杯750円のチャーシューメンを注文してみたが、味も歯ざわりも抜群のチャーシューがたっぷりとはいっており、麺にもほどよい腰があって、なかなかのうまさだった。喜多方には独自の味をうたうこのようなラーメン専門店が数多く存在していて、どの店の味も甲乙つけがたいのだが、先を急いでいたこともあって、今回は便利のよい国道筋のこのお店に立寄ったようなわけだった。
この店の敷地内には大きく立派な製麺工場があって、見学用通路のウィンドウを通してオートメーション化された製麺工程をつぶさに観察することができた。各種の添加物とともに小麦粉を練り上げ、それを帯麺という幅40センチほどの長帯状に押し伸ばして巻き上げる。さらにその巻き上げた帯麺を別の機械にかけて開き伸ばし、厚さが一定になるように圧延する。そうやって整えられた黄色の帯麺は、切断機に送られたあと何筋もの細長い麺糸に切り分けられ、さらに一定の長さのところで切断される。そして、それらは一食分ごとに自動的に包装されていくのである。ラーメンの製造工程を目にするのは初めてだったのでとても興味深く感じられた。
喜多方をあとにすると、いっきに国道121号を北上、日中ダム西岸を通り大峠トンネルを抜けて山形県に入った。福島県側から山形県の米沢盆地に向かうには、福島市から栗子トンネルを抜ける国道13号ルート、猪苗代から磐梯山東麓、桧原湖東岸を経て、有料道路スカイバレーを越えるルート、そして、猪苗代または会津若松から喜多方を経て米沢に至る国道121号ルートの三主要路が存在する。
今回利用した国道121号ルートの喜多方と米沢間は、景観に恵まれているうえに道幅も広く舗装も完全で、急カーブも信号もほとんどない。しかも、通行車輛の数はきわめて少ないから、走行は快適そのもので、のんびり走っても喜多方から米沢まで三、四十分しかかからない。日光の入口今市から鬼怒川温泉、川治温泉、五十里湖、会津田島、会津若松、喜多方と経て米沢へと至る国道121号は会津西街道とも呼ばれ、途中に名所旧跡も多く、大自然に恵まれていて風光も明媚である。東北道や国道4号を走るよりはずっと爽快感があるし、会津若松市街を抜けるとき以外には渋滞もほとんどないから、裏道好きな私などは山形方面への往復にこのルートを利用することがすくなくない。
ただ、今回の目的地は米沢方面ではなく朝日山系西部だったので、途中の入田沢というところで国道から左へ分岐する県道に入り、飯豊山系北側の谷間に広がる田園地帯を縫い走って小国町へと抜けた。そして、小国からは飯豊山系と朝日山系との間を流れる荒川沿いの国道113号を村上方面に向かって爆走した。快走と爆走と暴走とはいったいどこが違うのかと問われれば、ウーンとしばし返答に窮せざるをえないところだが、まあそのあたりのことについては適当に推測してもらうしかないだろう。
温泉地としても知られる関川を過ぎ荒川町に入る頃になると、太陽が大きく西空に傾いた。真正面から差し込む陽射は、サングラスをかけていても眩いほどだった。ここまでくると日本海まではもう一息である。日没時刻までには海岸線に出ることができそうだったので、日本海に沈む夕陽を久々に眺めてみようと思い立ち、国道7号を横切りそのまま海岸方向へと直進した。そして、勘を頼りに、細道をジグザグに走り抜けながら、レジャー用ボートのハーバーのある荒川河口付近に辿り着いた。
車を降り、防波堤脇をすりぬけて浜辺に出ると、ちょうど太陽が西の水平線に近づこうとしているところだった。日本海はベタ凪で、細かな砂利と白砂からなる浜辺にひた寄せるさざ波の響きは、私の心を不思議なほどにやすらわせてくれた。右手海上に目をやると、かつて訪ねたことのある粟島の島影も望まれた。
粟島へは村上の岩舟港からフェリーで渡ったのだが、変化に富んだ景観も十分に楽しめたし、早朝浜辺で真っ赤に焼いた小石を魚汁の中に放り込んで食べる「ワッパ煮」などの磯料理も大変に珍しかった。緩やかに流れる時間と、寡黙な島人の心の奥に秘められた濃やかな人情はこの地ならではのものでもあった。シーズンンオフに訪れた気まぐれな観光客をただ一人乗せた断崖巡りの遊覧船は、どう考えてみても赤字だったに違いない。
朱色から紅へと色を変えた太陽は、やがて水平線にぴたりと接し、それからすぐに水平線の一部が赤い円盤の下部を切る弦に変わった。そして、その弦はしだいに長さを増してついには太陽面を左右に貫く直径となり、そこからさきは逆にみるみるその長さを減じていった。弦の長さがゼロに近づくにつれて紅色の弓形も急速に縮み、ほどなく一筋の水平線だけが、なおも黄紫色に輝く西方の空と海との境目に残された。
名残を惜しみながら黄昏の空を仰ぎやっていると、地元の漁師らしい男が現れ、波打ち際のすぐ近くで手にした投網をうちはじめた。なかなかに鮮やかな手つきなのだが、そんな渚近くで魚が獲れるのだろうかと、見ていていささか心配になった。だが、それはよけいな心配というものだった。水中から投網を引き上げて浜辺に広げようとしている男に近づき、何が獲れるのか尋ねてみると、彼は投網からはずしたばかりの小魚三、四匹を指し示した。それは小ぶりのカレイのようだった。男の話だと、条件がよければカレイその他の小魚が結構な数獲れるらしい。私と言葉を交わしながら、男は網からはずした魚のうちのごく小さなものを選んでは再び海に投げ戻した。
浜辺から戻ると、すぐ近くにある「餐華」という仰々しい名の海鮮レストランに入った。そして餐華という言葉の響きとはおよそかけ離れたイメージの千百円の刺身定食を注文したのだが、これがなかなかの拾い物だった。獲れたての数種の魚の刺身は、味、量ともに申し分なかったし、半身のカニ入りのカニ汁も実に良い味であった。煮物にも、そしてつややかな地元産のお米のご飯にも文句のつけようがなかった。しかも、サラダと飲み物は食べ放題、飲み放題ときていたから、消費税込みで千百五十五円というのは安いものであった。餐華というそのお店に「讃歌」を献げたい思いを抱きながら私は車へと戻っていった。
実をいうと、このあと私は昨年九月にも訪れた朝日山系内の奥三面ダムへと向かうつもりだった。かつて秘境を呼ばれた自然の宝庫の破壊や貴重な縄文遺跡の水没をいたむ声を断ち切るようにして、昨年十月にこのダムの湛水は始まった。先年そのことについて書いたこともあって、その後のダム建設地一帯の変容ぶりを一度自分の目で確かめてみたいと考えていたからだった。
どうせそのあとは朝日山系の山奥での車中泊になるだろうと思ったので、通りがかりのコンビニに立寄って朝食用のパンや牛乳を買い求めた。店を出たあと何気なくその隣を眺めると、夜のことゆえ奥のほうまではよく見えなかったが、かなり大きなハウス栽培の施設らしいものが建っているようであった。そしてその前には「フレッシュ野菜!」という大きな看板が掲げられていた。
その時である。なにやらなま温かい風に乗って、どこからともなくあの有機栽培特有のフレッシュな臭いが漂ってきた。私が子ども頃には田舎ならどこにでも漂っていたあの懐かしい臭いである。「フレッシュ野菜ねえ、確かにこのフレッシュこのうえない臭いからすると、ここのハウスで採れる野菜は新鮮でうまいに違いない。でも、都会育ちの衛生観念過剰な人々が、こんな野菜の有機栽培現場を目にしたら、きっと仰天することだろうな。含有成分が危険で味がいまひとつでも、やっぱり科学肥料を用いた野菜のほうがいいなどど言い出すのではないだろうか?」――そんな想像をめぐらす私の胸中はいささか複雑なものではあった。
朝日スーパー林道入口には夜間通行禁止という表示がなされてはいたが、入口にゲートがあるわけでもないのでそのまま林道に分け入った。この林道はかなり奥までよく舗装されているし、何度も走りなれた道でもあったので、深夜とはいってもとくに困るようなことはなかった。しばらく走り続けていると、折からの寝待の月が山上に昇り、朝日山系一帯の山々に特有なその荒々しい岩肌を照らし出しはじめた。どこか凄絶な感じさえする月下の山岳風景というものは、深夜の一人旅に生の証の一端を求める人間には、このうえなく感動的なものである。私はしばし車を停め、左手に深く切り立つ谷底から湧き昇る夜霧と、その谷の両側に聳える岩峰とが月光に浮かび照らされる有様を、魅入られでもしたかのようにしげしげと見つめていた。
あちこち脇見しながら夜の山道をのんびりと走ってきたこともあって、奥三面ダム方面へと続く道路の分岐点に到着したのは午後十一時過ぎだった。せっかくやってきたのだが、残念なことに奥三面方面への入口にあたる橋には厳重な車止めのゲートが設けられ、今年の十月下旬までは通行不能である旨の表示がなされていた。奥三面ダムに付帯する道路がなお未整備であるためというのが表向きの理由のようだった。
通行止めでは仕方がないと思いながら、何気なく左手に顔を向けると、なにやら大きな解説板らしいものが目に飛び込んできた。車のライトで照らし出してみると、それは新潟県企業局が最近立てたばかりの奥三面水力発電所についての解説板だった。仰々しい割には、その解説板の内容はお粗末で、小学生でも知っていそうな水力発電の原理の簡単な図解に加えて、一秒間にドラム缶二百本分の水が発電用流水路を流れ落ち、最大出力は34500kwhで、それは村上と朝日村の約一万三千戸分の使用電力に相当するといった短い説明がついているだけのものだった。そして最後には「水力発電は純国産のクリーンエネルギーです」という一文が添えられていた。
いったい誰に読ませるつもりかもよくわからない解説板の説明の最後に、そんな見え透いた文句を大真面目な顔をして付け足したりする役人たちの無神経さに、私は唯々呆れかえるばかりであった。最大出力が34500kwh、1kwhあたりの電力料金が23円だとすると、一年間休みなく最大出力で連続発電をおこなったときの総発電量の円換算額は、
23円/kwh×34500kw×24h×365日=6951060000円
となる。
実際には最大出力で一年中発電を続けることは不可能だし、送電ロスなどもあるから、その四分の一程度の発電量と考えるのが妥当なところだろう。すると、実質的には年間総発電量の円換算額は17億円前後ということになる。古くからの集落を全戸立ち退かせ、国内でもきわめて稀な自然美に恵まれ秘境と呼ばれてきた大渓谷と、過去二万五千年にわたってその谷の地中に眠り埋もれてきた縄文の一大遺跡を水没させ、一千億円に近い工費を投入して造られたこのダムの発電能力は精々このくらいのものなのだ。なにが純国産のクリーンエネルギーなものかと、叫んでみたくなる人もけっして少なくないだろう。
奥三面ダム方面の分岐点を通り過ぎたあと、私はさらに奥のほうまで朝日スーパー林道を進んでいった。残雪などの影響を受けやすい県境周辺の道路事情の悪さもあって、例年まだこの時期には新潟側から山形県側には抜けられない。やむをえないので、通行止めの鎖の張ってある場所から遠くない石黒山登山口付近に駐車し、そこで仮眠をことにした。しばらく本を読んだり原稿を書いたりしていたこともあって、エアベッドを膨らませその上に身を横たえたのは午前三時頃だった。カーテンの隙間から差し込む月光が不思議なくらいに明るかった。
2001年6月20日