初期マセマティック放浪記より

178.ドラキュラ邸追想記(二)

受話器をとると、沈んだ感じの男性の声が流れてきた。石田宅の近くに住む陶芸家の平林昇さんという方からの電話だった。石田翁と親交のあった平林さんは、老翁から、自分の身にもしものことがあったらその旨を私に伝えるようにと頼まれていたのである。平林さんは、胸の内で悲しみを抑えるような声で、「石田さんが今日午後四時半に亡くなりました」と伝えてきた。二〇〇一年八月十七日、石田達夫翁は享年八十五歳をもって穂高町有明の地で逝去したのだった。その日はたまたま金曜日ではあったが、生前老翁がとくにお気に入りだった「十三日の金曜日」ではなかった。

私が電話をもらったのは老翁が息を引きとってから三時間ほど過ぎた午後八時前のことだった。まだ石田邸にいるという平林さんに、穂高に着くのは夜遅くになると思うけれど、出立の準備が整い次第そちらに向からと伝えると、どこか戸惑ったような声が受話器の向こうから響いてきた。平林さんにかわって、やはり石田翁と親しく私とも面識のある安曇野文庫の経営者山本さんが電話にでると、手短にその場の状況を教えてくれた。

山本さんの話によると、石田翁の遺体はほどなく信州大学から配される車に収容され、同大学医学部に献体されることになっており、いまから穂高に駆けつけてもらっても、もう遺体との対面はかなわないとのことであった。いまひとつ事情がよく呑み込めなかったが、どうやら葬儀なども一切行なわず、遺体はそのまま信州大学へと運ばれるらしかった。永眠した老翁の姿を見守りながら石田邸に留まっているのは、喪主の石田俊紀さんを含む数名の人々にすぎないことも判明した。「まあ、仕方ないことですので、いずれ私たちだけで会う機会を設け、生前の石田さんを偲ぶことにしましょう……」という山本さんの声を最後にその電話は切れた。

石田翁との親交は私よりもずっと長い湯河原在住の高名な紙彫刻家谷内庸夫さんと東京在住のカメラマン市川勝弘さんの二人に連絡をとった結果、翌日の午前中に松本で待ち合わせ、ともかく信大医学部付属病院を訪ねてみようということになった。そのあと出立の準備を終えた私は、午前零時頃に府中を発って一足先に穂高町へと向かうことにした。

午前三時過ぎには石田邸に着いたのだが、家の玄関の扉には錠が下り、ひたすら静まりかえった屋内からは仄暗い光がかすかに漏れてくるだけで、人の気配はまったく感じられなかった。もしかしたら、養子の俊紀さんが中に独りでおられるのではないかとも思ったが、かりにそうだとしても、ひとかたならぬ心労のゆえに疲れ切って眠っておられるに違いないと考えた。

谷内さんらとの松本での待ち合わせまでにはまだずいぶんと時間もあったので、石田翁との初めての出逢いを偲びながら、そのきっかけとなった碌山美術館前や穂高駅前を訪ね、そのあと、まだ明けやらぬ穂高の街並みを通り抜けて大王ワサビ園へと向かった。そして、同ワサビ園の脇を流れる万水川(よろずいがわ)のほとりに独り佇んだ。黒澤明の晩年の作品、「夢」のラストシーンのロケ地もなったこの美しい川辺に案内されたのは、老翁と初めて出逢った日の夕刻のことだった。その時、私たち二人は、この川の土手を下流に向かって歩きながら、珍妙なうえにどこか怪しげでさえもある不思議な会話を繰広げた。

万水川の川面はまだ暗く、いつもの澄んだ水の輝きこそ目にすることはできなかったが、映画の中にも登場した水車小屋の二基の水車は、相も変わらずゆっくりとした回転を続けていた。黒澤の「夢」のラストシーンに登場する村では、長寿者が天寿を全うするのはめでたいことだと考えられており、村人たちの葬儀の列は華やかなお祭りムード一色に包まれるのであるが、もしかしたら、石田翁の魂もその明るく賑やかな葬送のシーンに紛れ込んで天に昇っていってしまったのではないかと思いたくもなるのだった。

車に戻りながら何気なく東の方を仰ぎやると、ほぼ新月に近い細く長い月が夜明け前の空に昇ってきたところだった。私はどこか暗示的な感じのするその月のかたちと、不気味にも見える赤褐色の光にしばらく見入ったあと、ほどなく車中で横になりしばらくのあいだ仮眠をとった。

二、三時間ほどして目覚めた私はいったん穂高町から松本まで南下し、そこで予定通りに谷内、市川の両氏と合流した。そのあと我々三人は、松本市北部の信州大学医学部付属病院を訪ねてみた。もしもまだ石田翁の遺体が納棺されたままの状態だったら、せめて一目でも対面させてもらえないものかと思ったからだった。

しかしながら、残念なことに我々の願いは叶わなかった。既に遺体の保存処置がとられてしまったあとらしく、たとえ親族といえども、もはや翁の遺体を目にするのは許されないとのことであった。また、献体された遺体が再び遺族のもとに返されるのは早くても三年以上先のことで、いつになるか確かなことはわからないとも告げられた。どうやら当分は信州大学医学部やその付属病院に向かって合掌するしかないらしかった。なんとも人を食ったあの石田翁のことだから、いまごろ悠然とアルコール槽に身を委ねながら、「想像していたよりもずっと快適だから、お前らもそのうちここに遊びに来いよ!」などと毒舌を吐いているかもしれないね、という言葉までが誰の口からともなく飛び出したりもした。

信州大学病院をあとにした我々は、とにかく、もう一度石田邸を訪ねて老翁の最期の様子を詳しく訊いておこうと相談し合い、再び穂高町へと向かって車を走らせた。石田邸では、養子の俊紀さんがたった一人で、我々三人の到着を待っていてくれた。私が最後に石田翁と話をした書斎兼ベッドルームに入ると、遺髪を収めてあるというごく小さな壷が白布で包まれ、ベッド上にひとつぽつんと置かれていた。その前にはごく普通の小皿を用いた間に合わせの線香立てが一個並んでいるだけで、そのほかには何も置かれていなかった。むろん、お供え物の類などもあたりにはまったく見当らなかった。
  かねがねドラキュラ翁を自称して憚らなかった老人の魂がそのことを喜んでくれるかどうかは疑問だったが、ともかくも、我々は遺髪入りの小壷の前で合掌し、焼香して心の中で祈りを献げた。そしてそれから、石田翁の最期の有様などを俊紀さんに詳しく伺ってみることになった。

八月上旬に私が見舞いにやって来たあと、三、四日してから石田翁は再び激しい内臓の出血を起こして穂高病院に再入院したのだという。だが、またもや周囲の制止も耳を貸そうとはせず、医療器具を引き抜くなどして病床で激しく抵抗し、どうしても家に戻ると言い張ったらしい。ここまで入院を嫌がるのであれば、本人の希望通りに自宅で最期を迎えられるようにしたほうがよいのではないかという医師の判断もあって、結局、老翁は長年住みなれたこの家へと戻された。

石田翁は最後の最後までトイレだけは自力ですませると言ってきかなかったという。そこでやむなく、俊紀さんは寝室からベッドを運び出してトイレのすぐ脇に再配置し、そこに老翁を寝かせた。そして、移動したベッドのぞいの壁面に急遽取っ手を設け、トイレに立つときなど、身体の弱った翁がそれに掴まって身を起こしやすくなるような工夫もした。我々が訪ねたとき、ベッドはすでにトイレ脇から元の部屋に戻されていたが、取り付けられて間もない新しい取っ手はそのままになっていた。

おなじW Cでも、「創造的作品群」あるいは「創造的仕事の場」といったような意味を込め、WとCの二文字を赤色に、残りの文字を黒色にして「WORKS  CREATIVE」とトイレのドアに表記して悦に入っていた石田翁は、そのトイレに最後までこだわり、創造を促すドアのアルファベットに見守られながら静かに息を引き取ったのだった。それは、まるで、自らの生涯そのものがひとつの創造的芸術作品であったとでも言いげな往生ぶりであったのだ。

石田翁と出逢い、初めてこの屋敷に案内された日の夜、トイレに入ろうとした私は、「我が家のトイレにはいったら、あなた、一時間は出てこられませんよ」と言われて返事に窮してしまったものだ。「WORKS  CREATIVE」というその洒落た表記にニヤリとしながらトイレに一歩踏み入った私は、その天井と四面の壁に設えられたる驚くべき細工や作品群に圧倒された。さらにはまた、トイレットペーパーに刷り込まれている英語のクロスワードパズルに頭を抱えたりもした(詳細は、バックナンバー「人生模様ジグソーパズル:2000年4月26日)」参照)。私にとっても想い出深いそのトイレのドア脇の空間が、老翁の「冥界への旅路」の出発点になったとは、なんという運命の皮肉と言うべきであったろうか。

最後の瞬間が訪れたとき邸内には二人だけだったというが、そっと俊紀さんの手を取りながら、とくに苦しむこともなく、またこれといった言葉を残すこともなく永遠の眠りについたのだという。最後まで意識ははっきりしていたらしいが、他界する直前の老翁の衰弱ぶりはやはり相当なものであったようだ。その壮絶な姿を人目に曝すのは石田翁の美学にも反するのではないかと考えた俊紀さんは、結局、誰にも危篤の報せをしなかったのだという。

どうしたものかと迷いながらも、一応は心ばかりのものをとも思い、あらかじめ用意してきた香典を差し出そうとすると、俊紀さんはその受取りを固辞しながら、なにやら文言の記された一枚の用紙を見せてくれた。鉛筆書きのごく簡単なものではあったが、それは石田翁自らが生前にしたためた遺言状にほかならなかった。それに目を通させてもらった私たちは、そこで初めて老翁が逝去したあとになされた一連の対応の裏事情を知ったのだった。

私儀(石田達夫)の死後は次のことを守って下さい。
一、葬儀その他の儀式は一切行なわないこと。戒名や位牌の類も一切不用のこと。
二、香典の類も絶対に受取らないこと。その気持ちがあれば、どこかの慈善団体や福祉団体に寄付してもらうこと。
三、遺体は信州大学に献体すること。連絡先は松本市旭町3丁目1-1、信州大学医学部こまくさ会。
四、土地建物その他一切の所有物は養子石田俊紀のものとすること。
五、死亡通知は下記のものに限る。
加島祥造・としこ
 (以下省略)

俊紀さんは石田翁の遺言を忠実に守ることにした。信州大学への献体を急いだのは、医学部当局との相談の結果、なるべく早いほうがよいということになったからだった。また、遺体を長く安置しておくと、噂を伝え聞いた弔問者が香典や献花を持参して次々に来訪し、それらを固辞するだけでも容易でなくなるだろうことが危惧されたのも、献体を急いだ理由のひとつであったようだ。谷内さん、市川さん、それに私の三人には、永眠直前に一度は会ってもらっているから、あえて棺に横たわる姿を見てもらう必要もないだろうという判断もあってのことだったらしい。

死亡通知の送付先として指定されていたのも、もごく限られた数名の人たちだけで、その点でも石田翁は最後まで徹底していたと言ってよい。ちなみに述べておくと、最初に名前の挙げられている加島夫妻は、石田翁と公私において終生深い関係のあった方々で、老翁が安曇野に住みつくようになったのも同夫妻との親交が直接の契機であった。

近年は老子や荘子などについての斬新な著作でも名高い加島祥造さんは、以前、信州大学の助教授をしておられた。多忙な加島さんの英文学翻訳の代役を折々務めてもいた石田翁は、東京から松本方面に仕事の打ち合わせに出向くことが少なくなかった。そのうちにすっかり信濃の風土が気に入った石田翁は、安曇野に住みつくことを決意したのだった。いっぽうの加島さんは、そのあと横浜国大の教授に招聘されて信濃を離れることになり、結局、石田翁だけが信州に残ることになったのだそうである。

ちょっとだけ話が途切れかかったとき、俊紀さんはふと思い出したように立ち上がり、一枚の小さな紙片を取り出してきた。いつのまに書かれたものかは定かでないが、それは、老翁のベッドの片隅から俊紀さんの奥さんがたまたま見つけ出したものなのだそうであった。字体の著しく歪んだごく短い走り書きだったが、病床にあって石田翁が懸命に書き記したものには違いないようだった。そして、そこに残されたわずか四行の謎めいた文句は、いかにもこの稀代の奇人ならではのもとだと言ってよかった。
――医者も嘘つき、看護婦も嘘つき、薬も嘘つき、そして一番の嘘つきは病気――その紙片にはそう記されてあったからである。
2002年4月10日

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