初期マセマティック放浪記より

108.楽譜はあくまで曲の骨格

世界的に有名な楽器メーカーが創設したベアー・ヴァイオリン賞を、川畠さんは英国王立音楽院大学院在学中の一九九七年に受賞した。そのときに川畠さんが同賞の記念品としてもらったヴァイオリンの弓も見せてもらった。その弓の端末部には川畠さんの名がローマ字で刻まれていたが、それを手にとって見せてもらっているうちに面白いことに気がついた。たとえ弾けなくてもヴァイオリンを何度か手にしたことのある人なら誰でも知っていることなのだろうが、これまでそんな経験のなかった私はヴァイオリンの弓の構造に誤った先入観をもっていたのである。

弓というからには、弓の弦にあたるヘア(馬の毛のことで、写真週刊誌等に登場するシロモノではありません)は、和弓のそれと同様に、弧状に反った弓本体の両端を最短距離で繋ぐようにして張られているものだと思っていた。ところがヴァイオリンの弓のヘアはなんと弧状に軽く反った弓本体の背側、すなわち、通常の弓とは逆の側に張られているのだ。もちろん、張りの強弱は弓本体の末端についたネジで調整できるようになっているのだが、あの弓の出っ張りの外側にヘアが張られているとはこれまで考えてもみなかった。

「ところで、川畠さん、曲を演奏する場合、各音の長短も楽譜の音符の通りに正確に弾くものなんですか?」
  またしても私は素人ならではの愚問を発してみた。すると、お父さんの正雄さんが成道さんにかわって、
「いえ、ここにメトロノームがありますが、このメトロノームの拍子通りに曲を演奏したらメカニカルな音になってしまってとても聴けたものではありませんよ。同じ一拍の取り方でも人それぞれ曲それぞれによって違いますし、音符と音符の相対的な長短関係や強弱関係の解釈も各奏者によってまちまちなんです」と答えてくれた。

楽譜の音符というものはあくまでも曲の基本骨格を成すもので、それに適切な肉づけや色づけをおこなうのが演奏者だということなのだろう。そのためには単なる演奏技術の巧さとは異なる資質が必要となるに違いない。当然、演奏者の人生観や世界観、さらには諸々の事物に対する関心の強さや感動の深さ、すなわち、その人の感性と思想性とが大きく影響 してくるわけだ。したがって、かなりのところまで楽譜に拘束されているようには見えるけれども、実際には相当に自由度の高い世界なのであり、一定レベルからさきにおいては奏者の人間性がそのまま音なってあらわれる怖い世界でもあるというのだ。

同じ楽譜にしたがって弾いていても、ヴァイオリン奏者の紡ぎ出す音には自然にその人の育った国の民族音楽の影響が現れるものらしい。とくにビブラートの部分などにおいてはその傾向が顕著なのだそうだ。幼い頃に演歌の流れる環境で育った日本人奏者の場合には、意識するとしないとにかかわらずその音に演歌調の響きが忍び込みがちであるという。素人にはわかりにくいが、中国出身の奏者であればどこかに胡弓の音を偲ばせる調べが、お隣の韓国人奏者であればアリランの調べに近い響きがそれぞれの演奏に紛れ込んでくるというのである。その話を脇で聞いておられた麗子さんによると、イギリスに渡ったばかりの頃はあまりわからなかったが、最近ではどの国出身の奏者であるか音を聞いただけですぐにわかるようになったとのことだった。

あるとき川畠さんがスペインにゆかりの曲を弾いていたら、指導にあたっている先生から、「君はラテン系の国の出身かね」と訊かれたことがあったという。内心ニヤリとしながら、その言葉を嬉しく思って聞いていたんですと、川畠さんは笑いながら話してくれた。一流の先生の耳をもごまかしてしまったのだから、それは凄いことに違いない。お国柄が現れるどころか、国籍不明の音さえも出せない、いや音楽以前の音を出すことでさえも手に余る我々には、唯々恐れ入るばかりの話ではある。

川畠さんの経験によると、たとえばベートーベンの曲一つを弾くにしても、ラテン系の人は「結果よければすべてよし」的なその場その場の気分に乗じた大胆な弾き方をし、ロシア人に代表されるスラブ系の奏者は、あらかじめ「こうあるべきだ」という理念を掲げ、少しでもそれに近づくような弾き方をすることが多いという。本番などでは、曲の弾きだしのテンポが結構重要なのだそうで、そのテンポによって当該曲の演奏全体の印象がまったく異なるものになってしまうようである。どうやら、ヴァイオリンの生演奏というものはまるで生き物を相手にしているみたいなもので、その時々で様相が異なり一筋縄ではいかないようなのだ。

新しい曲をマスターしたり、その曲の表わす世界や旋律の奥に秘められた作曲家の深い想いなどを把握していくうえでの苦労などについて尋ねてみると、成道さんらしい率直な答えが返ってきた。通常のヴァイオリニストは楽譜を見て何度も何度も曲を弾きながら徐々に暗譜し、その過程を通じて音を磨き曲の背後に秘められた世界をどう表現するかを考えていく。しかし、そうすることが難しい川畠さんの場合は、CDを聴いたり譜面をピアノで弾いてもらったりしてまずその曲全部を暗譜してしまう。そして、そのあとでヴァイオリンを弾きながら次第に思索を深め、曲の秘め持つ世界の奥へと想像力をめぐらしていくのだという。その結果として、聴衆の心の底まで染み入る川畠さんならではのあの情感豊かな音が紡ぎ出されるというわけだ。

ただ実際にそういったことができるためには、演奏技術とはべつに、人間社会や自然界全般についての広い知識や経験、深い洞察力などといったようなものが必要とならざるをえない。しかも、ただ単にこの世界の甘美な一面だけを認識しておればよいというものではない。当然、人間の業の生みもたらす諸々の欲望とそのゆえの悲哀の数々、さらには凄絶かつ悲惨な地獄絵図そのものの世界の存在をも知っておかなければならないわけである。

御両親をはじめとする多くの協力者を介し、様々なジャンルの本を読んでもらったりいろいろな話をしてもらったりして、川畠さんは貪欲にこの世界の出来事について学んできた。学童期のシャーロック・ホームズ・シリーズにはじまり、のちの各種の文学書、思想書、科学書にいたるまで、読破いや聴破した本の数は相当量にのぼるらしい。もちろん、性描写などを含む週刊誌の各種きわもの記事にも、また日々の三面記事やテレビ・ラジオのニュースなどについても人並みの関心をもって接してきたという。要するに、好奇心旺盛で、この世の中のことならどんなことでも選り好みせず自然に目を向けるようにしてきているということらしい。

川畠さんの言葉づかいが驚くほどに端正で、しかもその話ぶりがユーモアに溢れ、このうえなく知的な魅力を感じさせるのもそんな背景があるからなのだろう。正雄さんも麗子さんも、成道さんにはなによりもまずごく普通の人間として生きることを大切にし、その上で音楽の仕事に精進してもらいたいと考えておられるようである。

「セックスがらみの週刊誌の記事やワイドショウの話題などについても、成道とはごく普通に話すようにしているんです。ある新聞に、『性教育も怠りなく…』なんて意味のことを書かれたりもしましたけどね」と麗子さんは愉快そうに笑っておられた。正雄さんや下二人の弟さんがたの了解のもと、成道さんに同伴してイギリスに渡った麗子さんは、ヨーロッパ各地で世界的に有名な音楽家たちと出逢う機会に恵まれた。その人達に共通していえるのは、日常生活にあってはどこにでもいるごく普通のオジサンといった風体で、高名な音楽家だなどという雰囲気は微塵も感じられないことであるという。庶民の生活に溶け込みごく自然に生きる偉大な音楽家たちの素顔を目にして、麗子さんは先々成道さんにもそうあってほしいと願っておられるのであろう。
2000年11月22日

カテゴリー 初期マセマティック放浪記より. Bookmark the permalink.