初期マセマティック放浪記より

23.ビーダナシとナポレオン岩

車道をはさんで左右に広がる深い照葉樹林は、私の体内に眠る記憶の古層を激しく揺すぶった。びっしりと生い茂る樹々の間を縫って林の中に入れば、シイやマテなどいろいろな木の実がいますぐにも見つかりそうだった。灰白色の艶やかな木肌をした薮椿の密生林も懐かしいものに思われた。冬になると枝がたわむほどに椿の花が咲きほこって、その甘い蜜でメジロたちを次々に誘い寄せるに違いない。

椿染めに関心のある人なら、ふんだんにある椿の木を見て大喜びすることは請け合いだ。一工夫すれば、若狭の若州一滴文庫のそれにならって椿染めの竹紙などを漉くこともできるだろう。島言葉で「カターシの実」と呼ばれる椿の実からは上質の椿油も採れる。椿油はローションとしてばかりでなく、最高級の食用油としても用いられる。最近の事情はわからないが、昔は島の集落には油屋があって、持参した椿の実を搾って油を採取し一升瓶に詰めてくれたものだった。搾油料は不要なかわりに、一番絞りの油だけが椿の実の持参者のものとなり、二番絞り以降の油のほうは油屋のものとなるという暗黙のルールが昔から定められていた。

快調に林道を走り続けた私たちの車は、谷山という標高四五〇メートルほどの山の東側鞍部までのぼりきったところで、東海岸の瀬尾集落と西海岸中部の瀬々野浦集落を結ぶ道路に合流した。左折して西に進路を取り、瀬々野浦方面へと走ればほどなく「しんきろうの丘」に着く。

かつて下甑島東海岸の青瀬で医者をしていた平田清さんという人が、中央の山地を越えて西海岸の瀬々野浦へと往診に向かう途中、ある丘の上で見事な蜃気楼を目撃した。平田さんはその時の体験を「往診の道すがら見ししんきろう」という一句に詠みあげたのだが、のちになって同地にその句を彫り刻んだ立派な記念碑が建てられた。碑文の文字を揮毫したのは下甑村出身の高名な女流書家町春草である。それら一連の出来事にちなんで、いまではその場所は「しんきろうの丘」と呼ばれている。出現条件のきわめて厳しい蜃気楼にめぐりあえることなどはもともと期待していなかったが、町春草の女流とは思えないほどに豪放な筆跡には大いに心惹かれるところがあった。

だが、急角度で西海岸に落ち込む照葉樹林帯を縫って進み、もう一息で目的地というところまで来たところで想わぬ事態に遭遇した。なんと、行く手の道路が二・三十メートルほどにわたって崩落していたのである。どうやら最近の台風に伴う豪雨によって崩落したものらしい。車を降りて恐るおそる落盤個所に近づいて足元を覗くと、二・三百メートル下の海岸部までほぼ垂直に崩れ落ちているではないか。背筋が寒くなるほどの崩壊ぶりである。こりゃ凄いわと、思わず息子と顔を見合わせながら呆然としていると、反対側からも車が一台やってきて私たちの車と崩落現場をはさむかたちで停車した。

かなり遠回りになるが、いったん引き返して中央山岳部の東側を迂回し、別の道から瀬々野浦方面に出るしか方法はないようだった。予定は大幅に狂うことになるし、時間的なこともあって「しんきろうの丘」を訪ねることも諦めざるを得なくなったが、この際いたしかたなさそうだった。先刻通ってきた片野浦からの道路との合流点を過ぎ、瀬尾方面へと進むと、下甑島南部の中央稜線地帯に出た。明るくのびやかな高原状の地形が南方に広がり、視界も開けて実にいい感じである。頭上に広がる秋の空も大きく近い。そして、私たち以外に人の気配はまったくない。このあたりにちょっとした天文台でも建てれば素晴らしいだろうなという思いが、一瞬脳裏をよぎったりもした。

緩やかな起伏を見せる一帯の地表は南国特有の様々な灌木や蔓草などで覆われている。風にゆれるススキの穂も美しい。自然薯すなわち山芋の蔓や色とりどりの木の実草の実、さらには地元で「ウンベー」と呼ぶアケビの一種なども目にとまった。黒い種子嚢をつけた鹿の子百合なども一面に散在している。今晩ここで月見をしながら一夜を明かすの悪くないなと話ながら前方に視線を送ると、道路を横切るキジの姿が目に飛び込んできた。かつて、この島はキジの宝庫として狩猟関係者の間では有名だった。現在どのくらいの個体数が生息しているのかはわからないが、島外から猟犬と共にやってくる狩猟者たちの手でかなりの乱獲が行われていたから、生息数は激減したことだろう。

昔はちょっと山に分け入るとキジに遭遇することなど珍しいことではなく、「ケンケーン、ケンケーン」と鳴く甲高い雄のキジの声が、夜の闇を貫いて集落まではっきりと聞こえてきたものだ。美味で知られるこの野鳥は、地表を這うようにして一直線に低空飛行する習性をもつ。高く空を舞うことはほとんどない。気性は勇猛で、マムシなどを爪先で押さえ、両足に絡みついたところを見計らい、激しく羽ばたきながら強靱な足や嘴で獲物の体を引きちぎり、それを食べたりすることもある。土地の古老などからは、雄のキジ同士がケンカを始めたら黙って見ておればよいと教わったものだ。どちらかが傷つき動けなくなるまで戦うから、弱ったほうを狙えばうまく捕まえられるというわけだった。

大きく東側へ迂回し、再び中央稜線を越え瀬々野浦方面へと近づくと周辺の山容も車道も険しさを増してきた。峠を越え少し西側に下ったところから直接に瀬々野浦へと続く道路に入ろうとすると、なんとここもしっかりロープが張られ進入禁止になっている。やはり道の一部でも崩落しているのだろう。結局、そこからさらに大きく北へと迂回し、瀬々野浦の北東側からアプローチするしかなくなった。

瀬々野浦集落に下る道の分岐点に着いたときには太陽が南西に傾きかけてきていたので、ちょうど太陽に向かって急斜面を駆け下る感じになった。半ばスリ鉢状の斜面をなして急角度で落ち込む地形の底に、箱庭のように小さく見えているのが瀬々野浦の集落である。スリ鉢の西側部四分の一ほどが大きく欠け落ちたかたちになっていて、その部分だけがきらきら輝く青い海になっている。車での探訪が可能になったいまでさえ、秘境という名に恥じないくらいだから、一昔前東海岸の集落からこの地を訪ねるのは容易なことではなかったろう。斜めから差し込む陽光を浴びて神秘的に浮かび輝く巨大な緑のスリ鉢の底を眺めるうちに、未知なるものとの出逢いを期する私の胸は不思議なまでに高鳴ってきた。

文字通り転がるようにして急峻な道を下りはじめてほどなく、一帯の斜面に淡い赤紫の花を枝いっぱいにつけた植物が繁茂しているのに気がついた。一面淡紫の花だらけである。車から降りてその樹木の一本に近づき、枝ごと花を摘んで確かめてみると、まぎれもない芙蓉の花だった。手打の歴史民俗資料館に展示してあったビーダナシ(芙蓉布で仕立てた着物)の原料となる自生種の芙蓉である。芙蓉の花が満開の時期にたまたま来合わせた運の良さを喜びながら、私たちはしばしその花びらに見入っていた。

ちなみに述べておくと、いまでは「ビーダナシ」という言葉は「芙蓉で織った布」の意味に使われているが、もともとは島言葉で「ビー」は「芙蓉」を、「タナシ」は「筒袖の着物」を意味していた。したがって「ビーダナシ」の原意は「芙蓉でつくった筒袖の着物」ということになる。

生き甲斐にビー布織りて村興し望みつ励まん島女(しまびと)われは

そう自らの強い思いを歌に詠んだ中村悦子さんは、眼下の瀬々野浦集落の一角でこの日もビーダナシを織り続けていたのかもしれない。中村さんがビーダナシ復元に没頭するようになったのは偶然のきっかっけからだったという。中村さんがお母さんの形見として大切に保存していたビーダナシ一枚がたまたま研究者の目にとまり、「世界で唯一枚しか存在しない幻の布で織った着物」と断定されたことが発端だった。いまから二十余年前の一九七六年のことである。

ビーダナシは明治の頃までは瀬々野浦一帯で織られていたらしいのだが、すでにその製法を伝承するものはいなくなっていた。「亡き母が私にビーダナシの復元を呼びかけている」と感じたという中村さんは、その困難な仕事に余生を賭ける決意をする。芙蓉の樹皮からいかにして白い繊維を取り出し、糸に紡ぎ上げるかを研究するのに十数年を費やしたという。樹皮を清流の底に沈めて重し、それらが繊維の採取に適した状態になるまで待つといった処理法を再発見するのに、想像以上の苦労をしたからだった。

いまでは芙蓉伐採からビーダナシが織り上がるまでの工程がすっかり完成し、地場産業としての発展の可能性が模索されはじめている。芙蓉は日当たりの良い荒れ地によく育つから、原料には事欠かない。一九九四年には鹿児島県の伝統工芸品にも指定されたというから、中村さんの復元した技術を継承する若い人材が次々に現れることを願ってやまない。甑島に帰るに先立って、復元されたビーダナシを少しばかり入手し知人にプレゼントしたことがあるが、粗めの手触りのある独特の光沢と弾力性をもった美しい布で、強度も通気性もきわめてよさそうだった。

半スリ鉢型地形の急斜面を下るにしたがって、瀬々野浦集落の家々の瓦屋根がどんどん大きくなってきた。そしてほどなく、車は集落手前の高台にある二層造りの展望台前に到着した。そこがナポレオン岩を望むことのできる「前の平展望所」だった。昨日、鹿島村の八尻展望所で出逢った東映ビデオ株式会社第二企画制作部の監督、相原義晴さんが話していたくだんの展望台である。

車を降りて展望台に近づくと前方が大きく開け、斜め下方に青い海が広がった。私たちはすぐには展望台に上がらず、その脇を通り抜けて前の平の一番端まで歩み寄った。足元の下は断崖になっていて、心地よい潮風が眼下の海面から吹き上げてくる。右手前方に続く瀬々野浦断崖の端に近い海上に目を向けると、人間の横顔そっくりの異様な巨岩がこれ見よがしに迫ってきた。ヒョウタン岳林道を通って片野浦に向かう途中で遠望したあのナポレオン岩の威厳に満ちた姿だった。

地図上では宙瀬(チュウセ)という名をもつこの巨大な奇岩は、誰が名づけたのかわからないが、いつの頃からかナポレオン岩と呼ばれるようになった。海面から一二七メートルの高さまで豪快にせりあがった大岩塊は、確かに帽子を脱いだナポレオンの横顔を連想させる。切り立つ岩壁の凹凸がつくりだす複雑な陰影も、人面のイメージを生みもたらすのに一役かっているようだ。

なかでも沖に向かってほどよく斜めに突き出た岩とその下部のへこみは、彫りの深い顔だちの西洋人特有の高い鼻と口元の形にそっくりだ。さらにまた、岩塊の頂上部一帯にはかなりの樹木が密生していて、遠くから見ると頭頂部だけを刈り残した中年男の特異な髪型を想わせる。自然の造形師も実に味なことをするものだ。高校生の頃には船に乗ってナポレオン岩の真下まで近づき、海上からこの天下の奇景を眺めたが、こうして陸上から望む偉容もなかなかのものだった。

せっかく二層造りの展望台があるのでどんなものだろうと上ってみたが、視野もいまひとつで正直なところその眺めは期待外れだった。いろいろな法的規制や構造上の理由があってのことなのだろうが、こんな中途半端な機能しかないコンクリート製の展望台をそれ相応の費用をかけて造るくらいなら、周辺の風景とマッチした休憩用のログハウスでも設けてくれたほうがよっぽどましだ。展望台の床にはナポレオンの姿を描いたカラータイルが張ってあったが、お金をかけてある割には実にちぐはぐに見え、場違いな感じがするばかりだった。ナポレオン岩にちなんだつもりなのだろうけれど、あまりにも発想がお粗末ではないだろうか。発案した人には申し訳ないが、こういう安易な人工の装飾物は、恵まれた大自然のもたらす感動をだいなしにしてしまう。

カラオケの背景となる風景を撮影にこの島までやってきた東映ビデオの相原さんが、この展望台のことを嘆いていた気持ちもなるほどと理解できる。旅行者を案内してあとから現れた地元の人も、この展望台にのぼるよりあっちのほうがずっと眺めがいいですよと言いながら、先刻まで私たちが佇んでいた場所のほうへと歩み寄って行った。誰からも無視されるこの展望台はいったい何のために建っているのだろう。雨風からの緊急避難場所に利用するにしても、その構造からしてもあまり役に立つとは考えられない。

前の平展望台をあとにした私たちは瀬々野浦海岸へとくだり、瀬々野浦港の防波堤に上がってみた。集落沿いの海岸周辺は、想像していた以上に近代化が進んでいた。かつてこの西海岸一帯を周遊したときには、瀬々野浦の海岸から私の乗っている船めざして和船のハシケが櫓の音をきしませながら漕ぎ出してきたものだが、もうそんな光景が見られるはずもない。

瀬々野浦周辺にはナポレオン岩のほかにも数々の奇岩が存在している。海は澄み切った濃いブルー一色だし、夕陽も美しいところだから、今も昔もこのあたりが甑島一・二の観光ポイントであることには変わりがない。しかし、この無造作に積み上げられた無数の不粋な消波ブロックは、相原さんでなくても、もう少しなんとかならないものかと思いたくなってくる。

激しい冬の季節風や猛烈な台風に煽られ寄せる激浪から船を守り、集落の安全を保つには、頑強な防波堤と消波ブロックが不可欠なことはよくわかる。一抱えも二抱えもある巨石や巨岩を海岸に向かってピンポン玉のように弾き飛ばす嵐の海のエネルギーの凄みは、私自身いやというほど知っているから、安全のためには二重三重のガードが必要なことは認めざるを得ない。それでもなお思うのは、絶景の名に恥じないこの自然の景観とうまく調和する防波堤や消波ブロックの設計配置が工夫できなかったかと言うことだ。専門家の知恵を結集すれば、なんらかの方法はあったのではなかろうか。

もちろん、いまでも船に乗って沖に出れば、ナポレオン岩をはじめとする奇岩や奇景を人工物とは切り離された角度から眺めることはできる。料金を払うとナポレオン岩周辺を案内してくれる小型船でも瀬々野浦から出ているならば、それはそれで有り難い。だが、現実には常時そんな船が待機していてくれる気配はないし、手打港から出ている観光船の就航期間も限定されてしまっている。そのため、この季節、ほとんどの観光客は陸路でここまでやって来て、その景観を集落周辺の海岸や展望台から眺める以外に手段はない。そんな来訪者の立場で無理を言わせてもらうならば、集落一円の風景とダイナミックな海の景色とは可能なかぎり自然なかたちで調和を保っていてほしい。

風景で食えるかという批判も聞こえてきそうだが、安全の確保と生活環境の向上をモットーにした大型土木工事で島民に労賃という現金収入の道を開くという従来の方策は、そろそろ限界に来ているのではなかろうか。自然環境を最大限に活かし島内活性化を図る別の道を探るべき時期にもうきているのではないだろうか。

ビーダナシを織る中村さんの工房にお邪魔することも考えたが、すでに大きく陽が西に傾く時刻になっていたので、突然に伺うことは先方もご迷惑なことだろうと推測し、工房訪問は断念した。そして、集落の右手はずれにある玉石の浜辺を散策しながらナポレオン岩の威容をもう一度記憶の底に焼き付け、瀬々野浦をあとにした。

エンジンを唸らせながら来た道を逆に駆けのぼり西部林道に戻ると、私たちはまた北へ向かって走り出した。車は新たな照葉樹林帯に突入したが、この照葉樹林はそれまで島内で目にしてきたどの樹林よりも見事なもので、太古以来一度も斧のはいったことのない原生林だと言っても疑う人はいないだろう。実際には全部が全部厳密な意味での原生林ではないだろうが、近寄るのが恐ろしいほどの急角度で西の海に向かって落ち込むこの地形から想像すると、いまだ斧に無縁な原生林がかなりの面積含まれていてもおかしくない。

水平線にぐんぐん近づく夕陽を時々木の間越しに睨みながら、私はアクセルをぐんぐん踏み込んだ。日没前までには名勝金山海岸を望む松島展望台に辿り着き、そこから西の海に沈む夕陽を眺めたいと考えたからである。史実かどうかはべつとして、昔、神功皇后の軍勢が新羅遠征を試みた折、天候の都合もあって麾下の軍船団が立ち寄ったと伝えられる大内浦をはるかに見下ろす林道を走り抜け、松島展望台に着いたのは一帯の山肌が夕陽に赤く染まりはじめた時刻だった。
1999年3月24日

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