初期マセマティック放浪記より

201.磯原から新舞子浜へ

日立市に差しかかるころにはすっかり日も暮れ、東の空から「盆のようにまるい」という言葉そのままの大きな月が昇ってきた。運のよいことに、たまたま満月の夜にあたっていたというわけだった。この望外のチャンスを逃す手はないと考えた私は、どこか海の見えるところに出て、明るい月光と夜の潮のきらめきおりなす魅惑的な情景を楽しもうと考えた。

しばらく走ると、海沿いに一軒だけ温泉宿のある北茨木町の磯原というところに出た。その地名の通りにすぐそばが海だったので、そこで車を駐め、おもむろに浜辺に降り立った。太平洋上はるかなところにある台風の影響なのだろう、海はかなり荒れていて、絶間なく大波が岸辺に向かって打ち寄せてきていた。浜辺のすぐ近くにある小島の磯のほうからはとりわけ激しく砕け散る荒波の音が響いてきた。その轟々という潮鳴りを聞いているうちに、海にまつわる遠い日の記憶の断片が突然に甦ってきはじめた。回想の中で眺めやる風景というものは、月光にきらめく足元の白砂にもどこか似た「時間の砂」に浄化され、よけいなものが削ぎ落とされてしまっているから、不思議なほどに美しく感動的にみえたりする。

しばらくその浜辺に佇んでいるうちに、満月の光のもとで大きくうねり輝く眼前の海面の光景と、月の美しい夜などに櫓を漕いで渡った南の島の海の懐かしい記憶とが奇妙なまでに交錯しだし、その結果、現実とも非現実ともつかぬいまひとつの新たな心象風景が私の胸中に形成された。

荒潮を湧き立て煽る望月の光満ち降る磯原の海

昼間、明るい太陽のもとで眺めたら、たぶん、この磯原の浜辺やその向こうに広がる海の風景はごくありふれたものにすぎないことだろう。しかし、ある風景を目にし、そこから我々が心で感じ取る心象風景というものは、現実の風景とは異なっていることがすくなくない。一見したところなんでもないような風景をもとに偉大な絵画作品を生み出すこともなどあったりする画家たちのことをおもえば、べつだん不思議なことでもない。もともと風景とは個々の人間が発見するものであるのかもしれない。

昔の人々が、女性の姿の美しく見える状況を「夜目、遠目、傘の内」などと言い表わしたのも、恋する男が相手の女を慕う心理を「アバタもエクボ」と言ったりするのも、本質的にはそれとおなじことなのだろう。

よくよく考えてみると、そもそも「現実の風景」なるものが存在するのかどうかさえも怪しいものである。白日下で眺めるのが真の光景であって、朝日や夕陽の淡い光のもとで、さらには月光や星明かりのもとで目にするそれは真の光景ではないなどと言うことができるだろうか。それらのいずれもが等価な風景であり、特定の条件下で見る風景だけがほんとうの風景だなどということはありえない。百人の人がいるとき、それらの中の特定の人物だけを指して「これが真の人間である」と断定することなど誰にもできないのとおなじように……。

磯原をあとにすると、国道六号からすこしはずれたところにある五浦のあたりをめぐったりもした。それから再び国道筋に戻ると、「吹く風を勿来の関とおもへどもみちもせに散る山桜花」という八幡太郎義家の歌で名高い勿来を通過して福島県に入った。二箇所も掛詞のある技巧的でどこか思わせぶりなこの歌は、はからずものちの源頼朝、義経ら一族の子孫の運命を暗示しているようでもある。

風よまだ吹いてきてくれるなよ、桜の花もまだこれからというこの勿来の関に吹き寄せてくるようならこの関の先には通してはやるまいぞ――そうおもってはみたももの、そんな我が願いも空しく、勿来の関を吹き抜ける春の嵐のために、満開の日をむかえることもできないままに細く狭い山路一面に山桜の花が散っていくことよ

我流の下手な解釈をすれば、どうやらそのようなことを言わんとしているらしいこの歌を詠んだ源義家は、勿来の関を馬に乗って越え、当時蝦夷地と呼ばれた東北地方一帯の支配者、阿部一族に戦いを挑んだのだった。

いっぽう、すっかり近代文明に毒された現代人の私のほうは、おなじ四つ足でも馬ならぬ車に乗って、夏の夜の勿来をひといきに走り抜けた。そして、小名浜を通過し、磐城(いわき)市の東部に位置する新舞子浜へと出た。さすがにちょっと眠気を催しもしてもきたので、浜沿いの空き地の一角に車を駐めると、気分転換をかねて広大な無人の砂浜へと足を踏み入れてみることにした。

南天高くに昇りつめた満月の光はいちだんと冴え渡り、南北に遠くのびる砂浜を明るく照らし出していた。ゆるやかに流れる夜の大気は爽やかそのもので、さくさくと深く砂中に足跡を刻み込みながら、月下の浜辺を独り占めにして歩きまわるのは実にいい気分だった。ところが、波打ちぎわに近づいて寄せ引きする大波と戯れるうちに突如生理現象を催しはじめた。近くにはもちろんそれ専用の施設らしいものは見当たらなかった。

ものには我慢の限界というものがあるから、そうとなったらとるべき手段はひとつしかない。山奥でなら珍しくもないことだが、広い浜辺でということになると最近ではあまりその種の記憶はない。もっとも、島の荒磯や浜辺を駆けめぐっていた少年時代のことともなると話はべつである。その状況を克明に描写するわけにもいかないが、とにかく、生活の中で自然に身につけたそれなりの知恵と工夫に頼っていたものだった。

まあそんなわけもあって、ここはどうせならと天真爛漫だった少年時代の気分に戻っておおいに開き直ることにした。煌々と照り映える満月下の広大な無人の砂浜で、きらめく海面を眺め、さらには高らかに響く波音を聞きながら一大イベントを決行することになったのは言うまでもない。お月様の呆れたような呟きが空のほうから漏れ聞えてくるのではないかともおもったが、この際そんなことなど気になんかしてもおられなかった。

考えようによっては、人間にとってこれほどの贅沢はないのかもしれないなあ――ふざけていると言われてしまえばそれまでだが、イベントの進行中にそんなおもいが一瞬脳裏をよぎったりもした。さらにまた、カタルシスという有名な言葉があるが、その言葉はまさにこのような心理的さらには身体的状況のことを意味しているのかもしれないという奇妙な想いにかられたりもした。

深夜の新舞子浜をあちこちと徘徊しその風情と景観を心ゆくまで楽しんだあと、車に戻って二、三人の知人宛てにEメールを打った。文明の利器というものはこういう場合にはたいへんに有り難い。切手や葉書を買い求めたりポストを探したりすることなどなく、自分を取り巻く現在の状況をリアルタイムで直接相手に伝えることができるから、うまく使えばなんとも臨場感溢れる情報のやりとりが可能になる。ただ、だからと言って、この時のEメールで知人たちに月下の新舞子浜での特別イベントの有様をつぶさにレポートしたというわけではない。カタルシス云々はあくまでも私の個人的な体験にともなう印象なのであって、他人の知るところではないからだ。

メールを送信し終えたとき、時針はちょうど午前二時を指そうとしているところだった。さすがに頭がボーッとしてきたので、これ以上無理して先を急ぐこともなかろうと考え、そのまま眠りにつくことにした。草木も眠る丑三つの刻にあって、はるかな天空で青く輝く月影だけが、一瞬たりともとどまることなく孤高の旅を続けていた。
2002年9月18日

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