初期マセマティック放浪記より

190.斜めから見たサッカー観

ドイツとブラジルの決勝戦進出が決まり、いよいよワールドカップ・コリア・ジャパンもフィナーレを迎えようとしている。一ヶ月余にわたる熱狂が冷めたあとのサッカーファンの虚脱感には想像以上のものがあるに違いない。私には、「サッカーって見ているだけで疲れるものなんですねえ……」というお年寄りたちの感慨とも溜息ともつかぬ言葉がなんとも印象的であった。そんな状況から考えてみると、海外のサッカー強国などにおいては、興奮のあまり憤死するファンさえもあるというのも十分に頷ける。

日本においてもお隣の韓国においても、久々に国民としての一体感を味わうことができたという声が絶えないようだ。たしかに私自身も、日本チームと外国チームとの試合を観戦していて、日本ゴールが危機にさらされたり、逆に自国選手が相手ゴールをおびやかしたりするたびにハラハラドキドキさせられていたから、にわか愛国者になったことだけは疑う余地のないところだ。

相手国に有利な判定には客観的にみて正当な場合でもブーイングを浴びせかけ、自国に有利な判定にはそれが明らかに誤りであってもエコヒイキまるだしで歓声をあげて応援する――あくまでもスポーツなのだから問題ないと言われればもっともらしくはあるけれど、いったん冷静になって別の角度から考えてみると、そんな己の精神状態の奥底には結構恐いものが潜んでいるようにもおもわれる。

まだ学生だった頃、明らかに国威発揚と若者の戦意高揚を狙った高村光太郎の戦時中の詩を読み、国際経験も豊かだったはずのあれだけの知識人がなぜそんな詩を書いたのだろうかと不思議に感じたものである。光太郎自身も戦後になってからそのことを深く悔やみ、反省の意味もあって、世間との交流を絶ち岩手の早池峰山麓にこもったことはよく知られているところである。ちなみに述べておくと、亡き智恵子をイメージして制作したという十和田湖畔の豊満な女性の裸像はこのときにつくられたものである。

光太郎が若者を戦場へと煽りたてる詩を書いた背景には、軍政による思想弾圧下の特殊な事情もあったことだろう。また、光太郎の内奥では、日本古来の伝統に深く根づく神秘主義的精神とロダンに象徴されるような自然主義的近代精神とが、まるでお互いの存在を誇示つつ絡み合う二匹の蛇のようにうごめいていたようである。だから、さきの世界大戦中においては、彼の体内に棲む大和魂的な神秘主義精神の蛇のほうがたまたま勢いを増していたとも言えないことはないだろう。

だが、このところのサッカー騒動に自らも巻き込まれるうちに、私は光太郎が国威発揚と戦意高揚の意図まるだしの詩を書いた心理状況がいくらかわかるような気がしてきた。それがサッカーであれ何であれ、国民全体が一定方向にむかっていったん熱狂しはじめると、その激しい流れの中におかれた者は、少々知性的だろうが理性的だろうがおかまいなく、いっきにその潮流に押し流されてしまうのではないかと思うようになったからだ。低次元の野次馬精神しか持ち合わせない私のような人間が激流に抗すべくもないのは当然のことなのだが、どうやら光太郎のような崇高な精神をもつ知識人でも、そのような状況におかれたら理屈抜きで時流に呑み込まれてしまうことがあるようなのだ。

もう何十年も前のことだが、サッカー先進国イギリスの作家ジョージ・オーウェルは、サッカーに熱狂する人々の心理背景を鋭く分析した「The Sporting Sprit」という一篇のショートエッセイを発表した。名作「アニマル・ファーム」において、ロシア革命と革命政権の悲惨な前途を強烈かつ的確な風刺をもって描写し予測してみせたこの作家ならではのサッカー観が、そこには皮肉たっぷりな筆致で語り綴られているのである。ずいぶん昔の作品であるにもかかわらず、昨今のワールドカップ狂騒劇にもそのままぴったり当てはまり、なるほどと納得させられるところも少なくないので、そのサッカー観をすこしばかり紹介してみることにしたい。

あるとき、旧ソビエト連邦のサッカーチーム、ダイナモスが親善試合のために渡英し、イギリスの名門チーム、アーセナルやグラスゴーと対戦したが、アーセナルとの試合では途中で両チームの選手同士で殴り合いとなり、観客のほうも騒乱状態に陥った。また、グラスゴーとの試合は最初からなんでもありの凄まじい乱闘模様となり、友好親善どころの騒ぎではなくなった。

さらに、ソ連人たちは「アーセナルは事実上全英チームであった」と主張し、いっぽうの英国人たちは「アーセナルは全英チームなどではなく一リーグチームに過ぎなかった。ダイナモスが予定を切り上げ急遽帰国したのは、全英チームとの対戦を避けようとしたからだ」と主張した。そのため、こころある人々は、このようなサッカー親善試合は尽きることのない憎悪の根源となるばかりで、英ソ関係をますます悪化させ、両国間に新たな敵対意識を生みもたらすだけだと蔭で囁き合ていたという。

そんな状況下にあって、オーウェルは、「サッカーのようなスポーツは国家間の友好と親善を深め戦争を回避するのに役立つ」などと真顔で唱える人々の気がしれないと公言してはばからなかった。国家や民族の威信がかかる関係上、相手を完膚なきまでに打ちのめして勝つことにこそ意義があり、敗れたら体面を失い屈辱をこうむることになるとするスポーツでは、必然的にもっとも野蛮な人間の闘争本能が喚起される。だから、国際間でおこなわれるサッカーのようなスポーツは擬似戦争そのものにならざるをえないというのである。

オーウェルはまた、ほんとうに問題なのは、試合における選手たちの野蛮な行為そのものよりも、見方によっては馬鹿げてもいる試合に熱狂興奮し、たとえ一時的ではあっても、懸命にボールを追いかけそれを相手ごと蹴りまくることが国家美徳の証であると信じてやまない観衆や、その背後にある国民のほうだとも述べている。

サッカー先進国の国民以上にサッカー新興国の国民のほうが国家意識と敵意剥き出しで狂乱しがちなのもサッカーというゲームの特色で、自国チームが相手ゴールに迫ると一部の観衆がフィールドに飛び出しゴールキーパーの動きを妨害するといった事態もかつては日常的に起こっていたらしい。したがって、国際試合における観衆同士の暴動はごくあたりまえのことだったようだ。

強い敵対感情が喚起されると、ルールを守ろうなどという意識はたちまちどこかへ吹き飛んでしまう。各国民は自国チームが完勝し、相手国チームがこのうえない屈辱を味わうことを熱望するから、不正行為による勝利だろうが相手側選手やレフリーへの観客による直接間接の示威妨害行為による勝利だろうが、とにかく勝ちさえすればよいのだということになる。

真剣勝負のスポーツというものはもともとフェアプレイとは無縁であり、ルールとは無関係の憎悪、妬み、自己存在の誇示、さらには暴力行為や残虐行為を目にしたいというサディスティックな欲望などと深く結びついている。換言すれば、それは、「A war minus the shooting」、すなわち、「銃撃戦のない戦争」なのだというオーウェルの言葉は実に手厳しい。
古代からスポーツには残虐さがつきものだったけれども、サッカーなどのようなスポーツが政治体制や宗教観の異なる国家あるいは民族間の集団憎悪につながるようになったのは近世のことであるとも彼は述べ、その原因は、欧米の大国が大衆の原始的な闘争本能を喚起するスポーツを利用し、莫大な富を生む商業活動をもくろんだことにあるとしている。

そして、オーウェルは最後に、ダイナモスの親善訪英に応えてソ連に英国代表チームを送るなら、試合で必ず相手チームに敗れ、しかも英国人のほうはそれが全英チームではないと主張できるような二流のチームを派遣すべきだと皮肉たっぷりに提案している。それでなくても争いのタネの絶えない時世に、猛り狂う観衆の怒号のなかで若者たちが互いの脛を蹴り合うことを煽り立てることによって、さらに紛争のタネを増やす必要などないということのようである。

オーウェルの指摘を素直に受けとめて考えると、日本チームの試合の観戦に夢中になったのは、たしかに自分の深奥に眠る原始的闘争本能や敵愾心を喚起されたからに違いない。銃を持たない熾烈な代理戦争を日本イレブンにたくしていたことになるわけだ。共同開催国の日韓両国民が相手国のチームの活躍に複雑な気持ちを抱き、手放しでそれを喜ぶことができずにいたのも、一筋縄ではいかないそんな深層心理がはたらいていたからだろう。

日常的社会生活のなかで無意識のうちに抑圧されている原始的闘争本能やサディスティックな願望、さらにはそれらに伴うストレスなどが、日韓ワール・ドカップの試合観戦を通して解消されたというのなら、それはそれで意義があったと言ってもよい。ただ、以前にもましてストレスが溜まったというなら、いささか問題ではあるだろう。

もっとも、私個人の感想としては、オーウェルの辛辣な言葉にもかかわらず、ワールドカップの国内開催にはそれなりの収穫もあったようにおもう。たとえば大分県中津江村にみるカメルーンチームと村人との親善交流がそれである。もともと外国人との交流などほとんどない山村のことだから、もしカメルーンチームが中津江村に滞在することがなかったら、黒色の肌をもつアフリカ人に対する違和感やいくらかの偏見などが村人の心のどこかになお棲みつづけただろうとも考えられる。

しかし、今回のカメルーンチームの滞在でそんな違和感や偏見はまったくなくなり、村人との親善交流はいっきに進んだ。他の国のチームの合宿地でも同様のことが起こったことだろう。サッカーの試合そのものの勝敗とは直接に関係ないが、ワールドカップというこの一大フェスティバルが日本国民にもたらした国際親善効果は、それなりに評価されるべきなのかもしれない。スポーツを通した国際交流というとまっさきにオリンピックがあげられるが、それとはまた一味違う不思議なはたらきがサッカーのワールドカップにはあるようだ。もしかしたら、原始的闘争本能の裏返し効果なのだろうか。

その点はよいのだが、利益追求主義のFIFA幹部たちの体質には、せっかくのそんな友好ムードに水をもさす違和感がおぼえられてならない。バイロム社との癒着さえも感じさせるチケット販売の不備に関するFIFA幹部の対応は、まさに、組織の威信を守ることができ、自分たちの利益になりさえすれば相手の立場などどうでもよいという、サッカーの悪しき闘争本能まるだしの状態そのままだといってよい。それもまた、サッカーという名の代理戦争を体験してきたがゆえのFIFA幹部連の悲しき性(さが)なのであろうか。

今回韓国が準決勝まで進んだことにより、四年後のドイツ大会では日本チームもいっそうの飛躍を期待されている。しかしながら、より強くなるということは、これまで以上にずるくなり、いざというときは当然のように身体を張ってルール無視の妨害行為をやってのけるコツを修得することでもあるようだ。単にボールコントロールの技術を高め、高度なチームプレーを身につけるだけではサッカー先進国に勝つことは難しい。

審判の見ていないところでは相手のユニホームを引っ張ったり身体を押さえたりすることはあたりまえ、ゴールを決められそうになったら渾身の力を込めて蹴り倒すのは当然のこと、ボールを追うとみせて相手の主要選手に強烈な体当たりをくわせ、あわよくば負傷退場を願うのは不可欠な戦略――どうやらそれらの高等技術をマスターしたうえでないと、いくらサッカー本来の技術を身につけても実戦では通用しないものらしい。観客のほうも自国選手の見事な反則プレーに心底拍手を送れるだけのサッカー眼をもたないと真の意味でゲームを楽しむことはできないらしいと知ったのは思わぬ収穫であった。

国内外のチームを問わず、一流といわれるサッカー選手には、身体的な強靭さや俊敏さのほかに知的な雰囲気をそなえている者がすくなくない。彼らの目の輝きには、戦うもの特有の視線の鋭さばかりでなく、常に頭脳のかぎりを尽くしありとあらゆる画策をおこなう者に共通の知性のきらめきが感じられる。若い女性が彼らの一挙一動に夢中になるのもそんな理由からなのであろう。ただ、そういった彼らのはかりしれない魅力が国家や民族の威信を背負った擬似戦争の結果生まれたものであるとすれば、なんとも皮肉なことだと言わざるをえないだろう。

ちょうどここまで本稿を書き進んだところで、韓国対トルコの三位決定戦がトルコの勝利で終了した。最後まで両チーム相譲らぬ激戦だったにもかかわらず、まれにみるほどに感動的で、しかもいままで書いてきたことを真っ向から否定するかのようなフェアなゲームであった。まだ完全にはヨーロッパや南米流のサッカーに毒されていないアジアチーム同士の試合だったからかもしれないが、こんなゲームもあるにはあるということらしい。

ところで明日はブラジル対ドイツの決勝戦――私の場合にはとくにどちらのチームにも想い入れはないから、原始的闘争本能を選手たちにたくしハラハラドキドキしながら観戦する必要はない。映画「猿の惑星」のなかの将軍を連想させるドイツのカーン選手と、シトシトピッチャンシトピッチャンの風情にそうにはヒネすぎたブラジルの大五郎ロナウド選手のどちらに軍配があがっても、歓喜も落胆もせず冷静にテレビに向かうことができるのは、精神衛生上大変よいことではあるのかもしれない。
2002年7月3日

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