初期マセマティック放浪記より

67.吹上浜の夕景

薩摩半島を西海岸沿いに南下する途中、吹上浜(ふきあげはま)に立ち寄って夕陽を眺めることにした。天の底までが青く澄み透った快晴の一日だったので、素晴らしい夕陽が見られるに違いないと思ったからである。車を降りて松林を抜けると、ほぼ南北に長大な弓形をなして延びる砂浜に出た。石英質の砂と珊瑚質の砂とが混じり合った白砂は、歩くたびにサクサクと心地よい響きをたてる。他に人影はまったくない。西方に遠く広がる夕凪の東シナ海は、とるに足らぬ一人の旅人のことなどまるで関心がないかのように、深い瞑想に沈んだままだった。

こういう砂浜は裸足になって歩くにかぎると思い、すぐさま靴を脱ぎ捨て、あらためて砂上に足をおろしてみた。その途端に、土踏まずを通して、裸足で海辺や野辺を駆け巡っていた懐かしい少年の日の感覚が甦ってきた。北西方向の海上はるかなところには、夕陽に染まる細長い島影が見えた。幼少期に私が育った甑島である。少年の日々、私はその島に在って、遠く青霞む九州本土の山並みを憧れの眼差しで眺めていた。海の向こうの本土には、数限りない夢とロマンに彩られた未知の世界があって、未来の私を待っていてくれるはずであった。

あの時から長い歳月が流れ去ったいま、私は、たまたま訪れた九州本土の吹上の浜辺から、自分の育った甑島の島影を夕陽のもとで眺めている。ノスタルジアだと言ってしまえばそれまでだが、おのれの過去の埋もれ眠る島影をこうしてはるかに望むのは、なんとも感慨深いものだった。赤味を増した太陽が水平線に沈むまでには、まだすこし時間がありそうだったので、私は、次第に赤紫色を深めていく遠い島影を右手に眺めながら、しばし渚を歩き回って時をやりすごすことにした。そんな私のすぐそばを、二羽の千鳥が静かに寄せ引きする波と戯れながら、ちょこちょこと急ぎ足で通り過ぎていった。ユーモラスな動きのなかにもどこか言葉には尽し難い哀愁を湛えた、なんとも不思議な鳥である。

気温が下がり身体が急に冷えてきたせいだろう、突然、生理的信号を感じはじめた。むろん、近くにはそれらしき施設があろうはずもない。ただ、さいわいとでも言うか、広大な浜辺に立つのはこの身ひとりだけである。こうなったら原始的な処理法に頼るしかないと思った私は、どうせなら、子供の頃よくやったように、乾いた白砂の上に大きな字を描いてみようと思い立った。

暴走族の落書き並に「本田成親只今参上!」などと記すには水分の量が足りそうにもなかったので、とりあえず姓の二文字だけを大きく描いてみることにした。砂浜を和紙がわりにして筆(?)をふるった結果、インスタント書道作品としてはまあまあの書を仕上げることができた。おかげで気分がすっきりした私は、砂の上にどっかりと腰をおろし、水平線へと急速に近づきはじめた太陽にじっと見入ることにした。
  久々に見る美しい夕陽だった。海面は輝くような朱色に染まり、西空は濃い茜色一色に覆われた。そして、右手に浮かぶ懐かしい島影は、その輪郭を焔で縁取りでもしたかのように赤々と燃え立っていた。大きく明るいオレンジ色の太陽が揺らめくような残光を発して水平線の彼方へと姿を隠すまで、私は、ブロンズの坐像かなにかのように、腕を組んでその場にすわったままだった。

少年の日々逝き眠る島影を紅蓮に染めて東シナ海の燃ゆ

還りなきひと日の生の戯れを茜と変えて陽は往きにけり

夕闇の迫る砂上に坐してそんな歌などを詠み呟いたあと、松林を縫う砂地の細道を抜けて車に戻ったときには、あたりはすっかり暗くなっていた。

再びハンドルを握って薩摩半島を南下していくうちに、たまたま「ゆーふる」という吹上町営の温泉保養施設のそばを通りかかった。「ゆーふる」ねえ……お湯がいっぱいとでもいう意味なのかなあ?……いまいちなんかよくわかんない名前だけどなあ……そんなことを考えながら、ちょっと立ち寄ってみると、施設内には旅の汗を流すのにもってこいの快適な温泉などもあった。絶好のタイミングでもあったから、一も二もなく私はそこで一風呂浴びることにした。

温泉に入ってさっぱりしたまではよかったのだが、そのあとがいささか問題だった。「ゆーふる」で夕食をとるか、その周辺でちょとした食材を購入しておけばよかったのだが、そんなには空腹感を覚えていなかった。そこで、どこか先のほうにまだ開いている食堂かコンビニがあるだろうと軽く考え、薩摩半島南西端の笠沙町野間岬方面を目指して走り出したのだった。ところが、予想に反して、食堂や食材店などはどこも閉まっていて、コンビニらしきものもさっぱり見当たらない。この付近は夜九時も過ぎると人通りや車の通行がほとんどなくなるから、店を開けていても商売にならないのだろう。

たまたまインスタント食品類もすっかり食べ尽していたところだったので、手元には煎餅が二、三枚残っているだけだった。さすがに飲み物の自動販売機だけは道路脇のあちこちに設置されていたので、缶コーヒーと缶紅茶だけは買い込むことができた。もちろん、一、二時間走って大きな市街地のあるところに出ればなんとでもなることはわかっていたが、それでは、わざわざ海岸沿いの夜道を伝ってここまでやってきた意味がない。断食や絶食にくらべればなんてことはない、よし、それなら今夜は煎餅三枚と飲み物だけでで我慢しようと腹を括った。

笠沙町に入ってから野間岳の北側麓に点在する海沿いの小集落をいくつか通過し、野間岳の西北西に位置する野間池港に着いたときにはすでに午後十一時が近かった。野間池港は薩摩半島西端の野間岬の付け根に位置するかなり大きな漁港であるが、港近くの集落周辺には人影はほとんど見当たらなかった。ひとわたり夜の野間池港をめぐり終え、鎌の刃形に海中に延び出る野間岬の根元を横切って野間岳の南西側山麓に回ると、闇が一段と深まり、まるでそれを待っていたかのように天上の星々の輝きが増してきた。眼下には東支那海が黒々と横たわり、はるか遠くには漁り火が五つか六つ点々と浮かんで見えた。

夜のためその姿を仰ぎ見ることはできなかったが、海抜591メートルの野間岳は綺麗な形の山である。半島南端に位置する海抜992メートルの開聞岳とともに、古来、薩摩半島の象徴的存在として舟人たちの航海の標にもなってきた。南方海上はるかな薩南諸島や琉球諸島方面から九州本土を目指した古の舟人たちは、二本の角のように左右に大きく間を開いて聳え立つ野間岳と開聞岳の秀麗な山影が見えてくると、これで無事に薩摩に着けると喜び、安堵の胸を撫でおろしたものだという。

野間岳の南斜面が急角度で海中に落ち込んでいるあたりまで行くと、道路脇に小さな展望所が設けられているのが目にとまった。試しにと立ち寄ってみると、昼間ならかなり展望がききそうな場所である。都合のよいことに、車が一、二台ほどおける駐車場もあった。少々眠気を催してきたところでもあったので、とりあえずはそこに車を駐め、ひっそりと一夜を明かすことにした。とっておきの三枚の煎餅をたいらげ、缶紅茶と缶コーヒーを飲んでから、深夜の展望台に立って大きな深呼吸をしていると、かすかに潮の騒ぐ音が夜風に乗って途切れとぎれに響いてきた。

なにげなく展望台の片隅に目をやると、石造りの記念碑らしいものが立っている。何だろうと思って懐中電灯で照らし出してみると、なんと、斎藤茂吉の歌碑であった。交通の便のきわめて悪かった時代に、茂吉はこんなところまではるばるやって来たものらしい。

神つ代の笠狭の碕にわが足をひとたびとどめ心和ぎなむ

  その歌碑にはそんな一首が深々と彫り刻まれていた。この歌の「笠狭の碕」という地名がこの展望台のある付近のことを指すのか、それとも実際の薩摩半島の最西端、野間岬を指しているのかは、私にはよくわからなかった。ただ、現在でも最先端まで行くとなると、深い藪を切り分け、身体中に蜘蛛の巣の洗礼を受けながら進まねばならない野間岬に実際に茂吉が足を運んだとすれば、その旅心の深さはやはり人並みはずれたものであったと言わざるをえないだろう。

茂吉の歌碑の立つこの展望台から、唐招提寺の開祖鑑真ゆかりの地として知られる坊津町秋目まではわずかしか離れていない。おそらく茂吉は坊津を訪ねたついでにこの野間岬方面へも足を伸ばしたのであろう。夜が明けたら、私もまた鑑真和上の足跡をたずねてその坊津へと向かうつもりだった。
2000年2月2日

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