鑑真らによる第六次日本渡航計画決行の話に移るまえに、当時の遣唐使船の諸状況について少しばかり触れておこう。
六三〇年に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を正使とする第一回の遣唐使団が入唐して以来、記録に残っているだけでも、中止になったもの三回を含めて合計十八回の遣唐使団派遣が計画されたことがわかっている。その間、文物から各種制度にいたるまで様々な大陸文化が日本へと導入されたが、菅原道実を正使とする八九四年の派遣計画が中止になったのを最後に、二百六十年余にも及ぶ遣唐使船渡航の歴史は終わりを告げた。
最盛時には五百人から六百人もの派遣使節団員が四隻の船に分乗して唐に渡っていたといわれるが、黄海や魔の東シナ海は容赦なく多くの人命を呑み込んだ。新羅との関係がよかった初期の頃には、難波を出た四隻編成の遣唐使船団は瀬戸内海を通って博多津に至り、そのあと壱岐対馬付近を抜けて朝鮮半島南岸の沖合いへと進み、同半島の西南端を回って西岸に出た。そして、そこから朝鮮半島西海岸沿いに北上、途中で新羅の唐恩津に寄港したりしながら遼東半島南岸に至り、同半島沿岸を西進して山東半島北岸の登州に達するという航路がとられた。また、帰路のほうは、山東半島南岸沿いに東進し、黄海北部に出たあと北西の季節風に乗って朝鮮半島西岸に近づき西南端まで南下、東に航路を変えて同半島南岸沿いに進み、壱岐対馬付近を経て博多津に入るというルートが中心であった。
北路と呼ばれるこのルートは陸地沿いのため比較的安全で、いざというときには最寄の港に緊急避難することもできたから、遭難はつきものだったにしても、遣唐使一行のうちのかなりの数の者はなんとか唐との往復を成し遂げ、文化の掛け橋としての役割を果たすことができた。ところが、新羅との対立が生じ、両国の関係が悪化したのにともない、安全性の高い北路をとることができなくなったために、以後、遣唐使船は東シナ海を直接横断する南路あるいは南島路を選ばざるをえなくなった。しかし、航行能力の十分でない当時の小型木造帆船でこの東シナ海ルートを無事に航行するのは至難の業で、必然的に遭難が続発し、多くの人命が失われるようになった。
博多津を出たあと五島列島西岸沖合いに向かい、そこからいっきに西進して東シナ海を横断、揚子江下流域を目指すか、その逆コースをとるかしたのが南路と呼ばれる航路である。地図を見ればわかるように、この航路をとった場合には、五島列島沖を離れると、揚子江下流域に着くまで中継地や避難所となるような島がまったく存在しない。当時の船の能力では、どんなに天候に恵まれ順風に乗ったとしても中国に着くまでに数日は要したはずである。実際には、東シナ海の地理的条件に因する気象状況からして、数日間も好天が続くということは稀だったろうから、航海の途中どこかで荒天に遭遇するのは避けられなかったことだろう。いったん嵐に遭うと、構造の脆い木造和船はたちまち破損してしまい、浸水転覆したりし、そうでなくても航行不能の状態に陥ることが多かった。
また、かりに好天が続いたにしても、当時の和船の原始的な帆の構造や操帆技術からすると、無風に近い場合や逆風の場合などにはまるで帆が役に立たなかったに違いない。そんな場合、一時的には備え付けの艪(ろ)を用いて進むこともできたろうが、だからといって艪だけを頼りに大海を横断することなどは土台無理な話であった。風が強すぎても困るし風が弱すぎても困るというこの厄介なジレンマを抱えながら東シナ海の横断を企てることは、文字通り身命を賭した一生一代の博打であったと言えるだろう。
季節風と海流の関係もあって、唐から日本への帰還航路になることの多かった南島路をとった場合、遣唐使船は揚子江河口に近い蘇州、あるいはそのすこし南方に位置する杭州から出航し、最短でも数日かかる奄美諸島付近を目指して航行した。ただ、現実には風まかせの航行に頼らせざるをえなかったから、北西の季節風が強いときなどには南に流され、難破寸前の状態で、阿児奈波、すなわち、現在の沖縄諸島へと漂着することも少なくなかった。奄美や沖縄諸島のどこかへ漂着した船はまだよいほうで、太平洋へと流された船は黒潮に乗って洋上を北東方向へと運ばれ、そのまま行方不明になってしまうことが多かった。天運に恵まれた場合には、太平洋を数百キロも流され紀伊半島の南部あたりに辿り着くこともあったようだが、いずれにしろ命懸けの航海には変わりなかった。
いったん奄美や阿児奈波に着いた遣唐使船はそこで修復や補給作業を行い、そのあと風待ちをしながら、対馬海流に乗って沖縄諸島、奄美諸島、薩南諸島と飛び石状に続く島伝いに北上、薩摩半島西南端に近い坊津へと入港した。したがって、坊津は唐や琉球諸島方面から到来ないしは帰還する内外の船の玄関口になっていた。坊津からは九州西岸沿いに現在の長崎県西海地方に向かって進み、そこから玄海灘を通って博多津へと至っていたのである。
記録によると、二、四、九、十、十四、十六次の遣唐使船が大遭難事故に遭遇し、それ以外の場合においても、一部の船が遭難したり乗員が多数疫病で倒れたりして、四船編成の遣唐使船団と団員のすべてが無事に任務をまっとうすることはほとんどなかったようである。遣唐使に選ばれるということは、はじめから死をも覚悟しなければならないことであったわけだが、それでも選ばれた者たちは、命を惜しむことなく新しい知識を求めて東シナ海を押し渡り、中国大陸へと赴いた。
今日の尺度で考えると理解に苦しむところもあるが、たぶん、当時の人々の安全に対する考え方や、人生における価値観は現代の我々のそれとはずいぶんと異なっていたのだろう。平均寿命が現代人の半分ほどで、しかも限られた地域で過酷な労働に耐え赤貧に喘ぎながら暮らすことを余儀なくされていた当時の人々にとって、唐という遠い未知の世界へと旅立つことは、命を賭けるに値するほど魅力的なことであり、栄誉に満ちたことでもあったのだろう。苦渋の尽きない短い人生にとって、それが一瞬のはかない夢であったとしても、激しい精神の高揚をともなう一期一会の劇的な体験は、当時の人々にすれば願ってもないものに思われたに違いない。
たとえ唐に行き着くことなく生涯を終えるとしても、当時としては最新型の遣唐使船に乗り込み、瀬戸内の海を抜けて博多津に至り、そこから東シナ海の荒波の中へと出帆するという未知の船旅そのものに、己の命に値する大義を感じていたのだろう。それなりの危険を覚悟でスペースシップに搭乗し、はるかな宇宙へと飛び立つ現代の飛行士たちの思いに通じるものがそこにはあったと想像される。
ところで、遣唐使船というものはどんな構造をしており、どの程度の能力をもつ船であったのだろうか。中国史談東海往来物語の中には船長が十五丈ほど、船幅が一丈余りだったと記述されている。一丈は十尺で、現代の単位になおすと三メートル余に相当するから、長さが四十五メートルほど、幅が四、五メートル程度ということになろう。ちょっと大きすぎる気がしないでもないが、ともかく、この船に百二十人から百六十人の者が乗り込んだといわれている。乗り組み員の半分は操船に携わる水夫たちだったらしい。
双端の舳先をもつものなどもあって、長方形の大きな帆を張る帆柱が船央付近には二本立っていた。また、甲板上には、好天時に要人を載せたと思われる高台や、文物を収めたり風浪から身を隠したりするために用いたらしい木造蔵のようなものが設けられていた。両舷側にはそれぞれ八丁ほどの艪が並置できるようになっていて、無風時や逆風時、帆が破損した時、さらには陸地近くで地形に応じた細かな動きをしなければならない時などに、水夫が交替でそれらの艪を漕いで船を進めたようである。
余談になるが、船を漕ぐために古くから伝わってきた艪というものは、海が穏やかな場合などにはオールなどよりもずっと便利で効率的な道具である。小型エンジンの普及もあって、いまではもうほとんど見かけることがなくなってしまったが、幼い頃から艪を漕いで育った私には、その有り難さや面白さはよくわかる。上手くなると伝馬船用などの小型の艪なら片手でも漕げるし、坐ったままでも漕げる。押し引きするときの手首の返しにちょっとしたコツはあるが、慣れてくると力もそんなに要らないし、オールと違って船の進行方向に顔を向けて漕げるから、操船も楽である。腰を入れて漕ぐと相当な速度も出せるし、微妙な進路調整や速度調整も自由にできる。
いっぽう艪の難点はオールなどに比べ漕ぎ方をマスターするまでに時間がかかることである。また、海が荒れて波が高くなり、船の上下動が激しくなると、櫓にかかる水の抵抗力が大きくかつ不均衡になり、支点にあたる小突起(櫓杭)から艪が外れてしまうことも難点だろう。当時の遣唐使船の場合でも、海が穏やかならば艪はそれなりに有効だったろうが、いったん嵐になったら艪はほとんど役立たなかったに違いない。荒れた海ではローマ時代のガレー船に見るような大型オールのほうがずっと役立ったことだろう。
艪は漕ぎ手がそこを両手で握って前後に押し引きする「腕部」と、水中にあって水をかく「脚部(羽部ともいう)」からなっていて、全体的には曲がりのゆるやかな「へ」の字形をしている。艪を使うときには、まず、脚部の上のほうにある艪臍(ろべそ)という凹んだ円い穴に、舷の艪床に固定された艪杭(ろぐい)という頭の丸い凸形突起を嵌め込む。次ぎに、舷に一端が固定された早緒(はやお、艪縄とも呼ぶ)という輪綱のもう一端を、腕部の上側にある円柱状小突起に引っ掛ける。そして、艪杭を支点に腕部を押し引きして水中の脚部を左右に動かし、その煽力で船を進める。その際、早緒は艪を安定させ、その動きを一定の範囲に抑える働きをするわけだ。
比較的後世の艪杭には海水による腐食に強い真鍮製のものも見られるが、もともとは樫のような硬い木材で作られていた。遠い天平時代などには鉄や銅などの金具は貴重品だったろうから、船の艪杭は当然木製だったはずである。外洋でも通用するような長大かつ頑丈な艪を使う場合、艪杭にかかる重量と力は相当なものになったはずだから、艪杭や艪臍が折れたり割れたり摩滅したりして、その機能に支障がおこることもしょっちゅうだったに違いない。遣唐使船が艪だけを頼りに東シナ海を越えることは、むろん無理なことだった。
和船を漕ぐ時に艪の操作が未熟だと、すぐに艪臍が艪杭から外れて艪が浮き上がり操艪が不可能になってしまう。反対に艪の操作が上手いと、艪臍と艪杭とはうまく和合し、艪が前後に往復するごとに、ギーッ、ギーッという小気味よい音をたてる。昔、和船に乗る舟人たちは、艪杭のことを男性器に、また艪臍を女性器に見たて、「艪を漕ぐ」あるいは「船を漕ぐ」という言葉を性行為の隠語にしていた。実際、私が育った田舎では、艪杭や艪臍には、それぞれ男性器や女性器そのままの呼称がつけられていた。
古歌などによく見られる「梶」という言葉は、艪、櫂、舵などの和船の船具の総称であるが、「梶」を「艪」や「舵」に重ねると、歌の裏にさりげなく隠されたいまひとつの意味が浮かび上がってくることがある。「艪」のほうについてはいま述べた通りだが、「舵」のほうについてもすこし説明を加えておきたい。
「舵」とはもちろん、船の最後尾水中にあって船首の向きを変えたり、それを一定方向へと向けたりする道具のことである。昔の小型和船などでは、船尾の横木の外側中央に舵穴があって、必要に応じて舵本体をその穴に抜き差しできるようになっていた。また、その舵を自由に嵌めたり外したりできるように、船尾の底部中央には細長い隙間が切られていた。見方によっては女性の股間を連想させる造りのため、昔ながらの和船に頼っていた時代の漁師たちは、こちらについても、舵を男性器に、舵穴を女性器に見なしていたようである。舵穴に舵が嵌められた状態を彼らが男女の交合の象徴と考えたのは、ごく自然のことだったと言ってよい。
これはまったくの私見であるから、あくまでも古典に無知な素人の戯言と受け取ってもらって構わないが、百人一首の中の有名な歌なども、そんな観点に立って眺めてみると、背後に秘められたいまひとつの作者の趣向が感じられたりしなくもない。私のような俗人の目からすると、そんな隠喩が潜んでいるとみなすほうが、作者の生きた時代背景からしても自然であるように思われてならないのだ。
由良のとをわたる舟人かぢをたえ行くへも知らぬ恋の道かな (曾禰好忠)
「と(戸)」とは突出した地形にはさまれた狭い水道のことで、「由良のと」とは現在の紀淡海峡(淡路島と和歌山県田倉崎間の海峡)をさしているといわれている。この海峡も鳴門海峡同様に潮流が激しい。その速い潮の流れに立ち向かいながら懸命に海峡を漕ぎわたろうとする舟人が、早緒を切り、艪を艪杭からはずし、あげくのはては艪を流失してしまい、舟は潮に流されどこへ行き着くともわからぬ状態で漂いはじめる。そんな舟人や舟の運命同様にどうなっていくのかわからない恋の道であることよ、というのが直喩に基づく表の解釈である。
しかし、舟人が懸命に「舟を漕ぎ」、ついには力尽きて「艪杭」から「艪(臍)」をはずしてしまい茫然自失する有様が「男女の交わり」の一連の過程そのものの隠喩だとすれば、「行くへも知らぬ恋の道かな」という結びの句も、またその句のなかの「行く」という一語も、それ相応に妖しく艶やかな裏の意味を含んでくることになる。さらに、「難波の海(現在の大阪湾)」の入り口にある「由良のと(紀淡海峡)」を女性のシンボルに、また、舟を男性のシンボルに見立てれば、この歌全体が男女の行為の隠喩になっているという読み取りもできるかもしれない。
和船や艪に無縁になってしまった現代人には想像のつきにくい話かもしれないが、それらのものに慣れ親しんでいた昔の人々、とくに舟人の間などでは、そういった隠喩はごく普通に通じていたものと思われる。
艪にまつわる余談が過ぎてしまったので、話の核心がずれてしまったが、当時の造船技術水準からすると、遣唐使船は国内最大級の新造豪華船であったといえる。だが、残念なことに、遣唐使船の甲板の構造、船底の構造、帆の構造のそれぞれには重大な欠陥が潜んでいた。なかでも和船の帆のもつ流体力学上の欠陥は、船の航行能力ばかりでなく渡航時期や航路の選択にまで制約をもたらすことになった。その結果として、遣唐使船には必然ともいえる遭難事故が続発することになったのだった。
2000年3月1日