初期マセマティック放浪記より

60.魂の琴線を操る異才!

五月の風のように優しくやわらかく全身を包み込む弦の囁きがホールに響きわたりはじめた瞬間、歳柄にもなく私は激しい胸の高鳴りを覚えた。ステージに立つその小柄なヴァイオリニストの奏で出す玄妙な音の一つひとつには、あるときは明るく、またあるときは淡く輝きうつろう不思議な光彩が感じられた。やわらかくて深く澄みきった、それでいて聴衆の魂を激しく揺すぶるその音色は、心の奥底にいま一つの類稀なるヴァイオリンの名器を秘めている者でなければ絶対に奏で出せないものであった。去る十一月二十七日、東京千代田区紀尾井ホールで催された川畠成道ヴァイオリンリサイタルでのことである。

実際にその演奏を耳にするまでは、正直なところこれほどのものだとは想像もしていなかった。たいして音楽の世界のことなどわからない私だが、貧乏学生の頃から、三食をインスタントラーメンですませるなどして貯めたお金で演奏会にだけはよく出かけた。ヴァイオリンのコンサートにもずいぶんと通ったが、ソリストの奏でるヴァイオリンの音色にこれほどまでに感動したのは、若い時代にアイザック・スターンの演奏を聴いて以来のことである。

最初の曲目、モーツアルトのケッフェル三七九番、ピアノとヴァイオリンのためのソナタ、ト長調の演奏が半ばにさしかかるころには、まるで魔法にでもかかったかのように、私の五感のすべてが、弱冠二十八歳のそのヴァイオリニストの操る見えない糸に引き寄せられる感じになった。ホールの聴衆のほとんどが私と同じような気分になっていたに違いない。全体的にも素晴らしい演奏だったが、とくに高音域の弦の響きは絶妙このうえなく、高音にはいくらかはつきものの硬質な響きがまったくと言っていいほど感じられなかった。高い音にもかかわらず、聴く者の体内深くまで、やわらかく、心地よくしみ込んでくるのである。

二曲目はベートーヴェンのピアノとヴァイオリンのためのソナタ七番ハ短調「アレキサンダー」だったが、その第四楽章に入ってほどなく、弦が切れるというハプニングが起こった。幼少期の薬害に端を発した熱病が原因で川畠成道さんはほとんど目が見えない。だから、一瞬どうなることか思ったが、少しも動じず、静かな口調で聴衆に弦が切れた旨を伝えると、ピアノ奏者のドミニク・ハーレンに導かれていったん舞台裏にさがった。そして、そして、弦を張り換えたヴァイオリンをもって再び舞台に立つと、何事もなかったかのように、鮮やかな弦さばきと圧倒的な迫力をもって第四楽章を弾き終えた。

休憩を交えたあと、ヴィエニャフスキーの「伝説曲、 作品十七」、エルンストの第六番「夏の名残のバラ」と演奏が進み、川畠さんが最終曲目のラヴェルの「ツィガーヌ」を弾き終えたあとも、ホール全体が感動の溜め息とも称賛の呟きともつかぬ深い余韻に包まれ、席を立つ人はほとんど見あたらなかった。アンコールに応えて川畠さんは四曲ほど小曲を弾いたのだが、サラサーテのツィゴイネルワイゼンは、そのなかでも絶品と呼ぶにふさわしい演奏であった。昔からずいぶんと聴きなれた曲であるにもかかわらず、その哀調を深く湛えた響きに思わず目頭が熱くなったほどだった。

演奏も素晴らしかったが、いまひとつ感心させられたのは、演奏会のパンフレットにある曲目解説の文章である。それぞれの演奏曲目には川畠さん自筆の解説文がついていた。あとで確認したところによると、川畠さんは、演奏会があるごとに、演奏曲目の解説文を自分で書くのだという。何度も演奏したこのとある曲でも、毎回新たに解説文を書き直すらしい。しかも、その文章がなかなか見事なものなのである。たとえば、先日のコンサートの第二曲目、ベートーヴェンのピアノとヴァイオリンのためのソナタ七番「アレキサンダー」には次ぎのような解説がついていた。

「ベート―ヴェンの曲には、風にゆれる一本の野の草がいのちの輝きを必死で吸い上げて生き続けていくような、強い意識的な力を感じます。人生を真剣に見つめ、心の深いところを掘り下げて考えさせられる思いになり、不思議なことに悲しいことも苦しいことも純粋に昇華してしまい、心の世界を広く豊かにしてくれるような気さえしてくるのです。アレキサンダー一世に献げられたソナタのうち、この七番は、ベートーヴェンの曲恋しさに、時々弾いてみたくなるような曲の一つです。」

川畠成道さんのことは、先月、朝日新聞の「ひと」欄でも紹介された。来年一月の半ば頃には、黒柳徹子さんの「徹子の部屋(テレビ朝日)」にも登場するということなので、音楽に関心のある方はご覧になるとよいだろう。川畠さんに強く心惹かれた私は、知人の仲介もあって、終演後に楽屋を訪ね、短い時間だったが川畠さん、ならびにそのお父様の正夫さんと初めてお話する機会を得た。父子ともども実に謙虚な方々である。後日あらためてお父様のほうからは鄭重な電話を賜り、折をみて一度ゆっくり成道さんと歓談する機会をつくっていただけることにもなった。

川畠成道さんが異才のヴァイオリニストとして世界にその一歩を踏み出すまでには、想像を絶するような苦悩と悲哀の日々があったようである。あるラジオ放送局のイタビューの中で、川畠さんはユーモアをさえ交えながら淡々とその間の事情を語っているが、その話は実に感銘深いし、またその語りにおける成道さんの日本語の響きはとても美しい。一語一語が修練を積んだ心の奥の弦を通して発せられるためだろう。

八歳だった川畠さんは、祖父母とのアメリカ旅行中に風邪をひき市販の風邪薬を服用した。ところが十分と経たぬうちに高熱とともに全身に水泡が発生、ほどなく身体中の皮膚も爪も無残に剥がれる状態になった。救急に担ぎ込まれた現地の病院では、生存の確率は五パーセント、かりに一命をとりとめたとしても通常の健康体は保証できないと宣告されもした。幸い最悪の事態だけは免れたが、川畠さんはその不運な出来事が原因で視力を失ってしまった。日本に戻った幼い川畠さんを前にして、御両親の正雄さんと麗子さんとは一時期悲嘆に明け暮れる毎日だったという。

息子の将来を考え、最初は将棋指しにでもということになったのだそうだが、近くに適当な将棋の師が見つからなかったためその話は実現しなかった。お父さんの正雄さんは現在も芸大などで学生の指導をしておられるヴァイオリンの先生、奥様のほうも音楽家という川畠さん一家だったが、音楽で生きていくことの厳しさを共に痛感しておられたため、それまで成道さんを長男とする三人のお子さんにヴァイオリンを教えることはなかったという。

ただ、状況が状況なので、試しにと、正夫さん御夫妻は十歳になった成道さんに初めてヴァイオリンを持たせてみた。ヴァイオリンの名手といわれる人々のほとんどは三、四歳で練習を始めているというから、相当遅いスタートだったわけである。正雄さんも必死だったがようだが、成道さんのほうもそれによく応えた。もともと眠っていた才能が目を覚まし、徐々に開花しはじめたのだろう。成道さんは一年半もしないうちにツィゴイネルワイゼンをマスターし、ほどなく技量的にも父親の正雄さんを抜き去ってしまった。

かすかに視力が残っていた当初は、大きな模造紙に五線譜を拡大して描いたものを一曲ごとに百枚近くも用意し、それで曲を憶えていたが、ほどなく視力が衰えまったく楽譜が読めなくなってしまった。それ以降はピアノなどで弾かれるメロディを聴きながら、楽譜の音譜や各種記号を読んでもらい暗譜するようになったという。いまでは、その驚異的な集中力と記憶力をもって、一週間もあれば新しいコンチェルトを完全に暗譜できるそうである。

十三歳のとき巨匠アイザック・スターンの前でヴァイオリンを弾き、スターンが驚きの声をあげて激賞するほどの才能を示した川畠少年は、それを契機に本格的にヴァイオリン奏者への道を歩むことを決意する。成道さんの将来についての御両親の苦悩と迷いが吹っ切れたのもこの時であったらしい。成長した成道さんはやがて桐朋学園高校を経て桐朋学園大学音楽部に進学、我が国のヴァイオリンの第一人者江藤俊哉に師事、一九九四年に同大学を卒業後、ロンドンにある英国王立音楽院(Royal Academy of Music)の大学院に留学した。四年後の一九九七年にはいくつもの栄誉ある賞を受賞し、英国王立音楽院大学院を首席で卒業、百八十年近くに及ぶ同音楽院の歴史上二人目のスペシャル・アーティスト・ステイタスの称号を授与された。二十五年に一度だけ開催される王立音楽院記念コンサートにおいては、ソリストとして演奏するという栄誉にも輝いた。

現在、川畠さんはイギリスを本拠地にしてフランス、ドイツ、オーストラリアなどのヨーロッパ各地で精力的に公演を行い、ソリストとして大活躍中である。一九九八年三月には東京のサントリーホールでの日本フィルとの共演を通して日本デビューを果たし、同年の十一月に紀尾井ホールで催されたソロリサイタルのほうも今年のリサイタルと同様に大好評を博した。まもなく、ビクターから川畠成道ファーストアルバム「歌の翼に」のCDが発売されることにもなっている。

「英国では、単に楽譜に忠実な演奏をするだけではなく、何を表現したいかを聴衆に伝える大切さを学びました」と語る川畠さんは、シャーロックホームズの熱烈なファンでもある。八歳のときの米国での闘病中に読んでもらったホームズものがきっかけとなり、ホームズ作品は全巻読破(聴破)したのだそうだ。

「シャーロックホームズの舞台となったベーカー街221番地は王立音楽院のすぐ近くでしたので、ホームズのヴァイオリンの腕を確かめに何度も自ら訪ねてみました。ドアをノックするのですが、いつも不在で、残念ながらいまだにホームズとの対面を果たしていません」とさりげない口調で語る川畠さんのジョークは、これまた見事な英国仕込みのようである。

視覚障害のゆえに特別扱いされることの嫌いな川畠さんは、多くの人々とごく普通に交流し、音楽以外のことについても広く学び、すこしでも人間として成長していくことを望んでいるという。そうすることによって、自らの奏でる音楽がいっそう深みと凄みを増していくことを十分に自覚してのことなのだろう。小説やエッセイから科学書、哲学書にいたるまで、ジャンルを問わずにボランティアが吹き込んでくれたテープの助けを借りて読書を楽しんでもいるそうだから、その知識と思索の深さは相当なものに違いない。それでいて、毎日八時間から十時間のヴァイオリンの練習は欠かしたことがないというから、ただもう敬服するばかりである。

「自分がヴァイオリンの演奏を通して表現したいと思ったことが聴衆のほうにもうまく伝わった、という確信を得られた時がもっとも幸せな瞬間です」と川畠さんは語る。たとえば、天上から聞こえ響いてくるような音を奏でたいと思って舞台に立ったとき、聴衆にも実際そのように聞こえたとすれば、それは何物にも勝る喜びであるという。言葉で言うのは易しいが、それを実際に実現するとなると、けっして容易なことではないだろう。

ドイツのシュツッツガルトに演奏旅行に出かけ、帰りの電車に乗り遅れた川畠さんは、次の電車を待つ間に、駅近くの路上で一人のジプシーのヴァイオリン奏者が奏でるツィゴイネルワイゼンをたまたま耳にした。言葉に尽し難いほどに深く哀しいそのヴァイオリンの音色に込められたジプシーの心に深く胸を打たれた川畠さんは、それまでの自分のツィゴイネルワイゼンの演奏に足りないものが何だったかを悟り、その曲に対する考え方とそれに立ち向かう態度を根底からあらためたという。あの思わず目頭が熱くなり、胸が詰まるようなツィゴイネルアイゼンの響きは、そんな謙虚な努力を通して生み出されたものなのだ。

いま二十八歳の青年ヴァイオリニストは、円熟期に入るであろう十年後、二十年後にはいったいどのような演奏を聴かせてくれるのであろう。なんとも楽しみな才能の持ち主が現れたものである。私のような音楽の素人が言うのもなんだが、一人でも多くの人々に日本の生んだ若き異才のヴァイオリン演奏を聴いていただきたいものである。
1999年12月15日

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