オンネトーの水面は明るい朝の陽光のもとでどこまでも青く澄み輝いていた。浅い周辺部をエメラルドグリーンに、そのすこし沖をジルコンブルーに、さらにその向こうの深奥部をサファイア色に彩られたこの沼の美しさは、数ある他の沼々の追随を許さない。対岸の原生林のすぐ背後には雌阿寒岳と阿寒富士の双峰が、まるで自分たちの間に生まれたかけがえのない愛娘を見守りでもするかのように並び聳え立っている。いや、実際、このオンネトーを生みもたらしたのは、端正でしかも秀麗なそれら二つの火山なのだった。
実際にはオンネトーというアイヌ語は「老いた沼」を意味しているから、二つの火山の間に生まれた「愛娘」という表現は適切でないかもしれない。たしかに、湖中には水没して久しい樹木などが多数見られるし、晩秋などには湖畔一帯に物淋しい雰囲気が漂うから、老いた沼という呼称のほうがふさわしいのかもしれない。だが、明るい太陽に湖面を照らされた新緑期のオンネトーは、どうみても「老沼」という感じではない。
名残は尽きないが、これから明日にかけて東京までの一大ロングランに挑まなければならない。ほどほどに散策を切り上げた我々は、S君が一目だけでも見てみたいという摩周湖目指して走りだした。途中の阿寒湖には申し訳程度に立寄っただけだった。摩周湖に着くまでの間、私のほうは助手席のシートに深く身を沈め、コクリコクリと居眠りしていた。
摩周湖はこの日も霧模様だった。このぶんだと摩周湖は見えないと読んだ私は、五百円の駐車料を取られる第一展望台をノンストップで通過し、無料で駐車でき、眺めのほうも勝っている第三展望台に車を駐めるように指示を出した。誰しもが疑問を抱くことなのだが、何故か摩周湖には第二展望台なるものが存在しない。第一、第三、それに裏摩周の三展望台があるだけなのだ。
すこしでも霧が切れてほしいと願いながら展望台に立っていると、眼下はるかに群青色の湖面がちょっとだけ見えてきた。しかし、次々と湖壁を乗り越え、急峻な斜面にそって湖面に流れ込む霧のために、なかなかそれ以上には展望がきかなかった。もう諦めるしかないな――そう思いかけたときである、突然、大きく霧が晴れ、一瞬だが、湖心にあるカムイシ島が幻のごとくにその姿を現した。そしてまた、再び湧き出た霧のヴェールに包まれて、たちまち姿を消していった。もしかしたら、摩周湖の主によるS君への特別な計らいだったのかもしれないが、実際、それはなんとも粋な演出ではあった。
すっかり気をよくしたS君の運転ぶりは快調を極めた。第三展望台をあとにした我々は、硫黄山、川湯、さらには屈斜路湖沿いの砂湯や和琴半島を経由し、これまた風光明媚で知られる美幌峠に到着した。上空に厚い雲がかかり、眼下の屈斜路の対岸にある藻琴山も、その右手後方に位置する斜里岳も、そして先刻までそこに立っていた摩周湖の外輪山もみな霧に霞んで見えなかった。屈斜路湖に浮かぶ中之島だけはよく見えていたが、広大な北見平野やその向こうに広がるオホーツク海もほとんど姿を隠したままだった。そんな状況下にはあったけれども、初めて美幌峠に立つS君の目にすれば、その景観はそれなりに雄大なものに映ったようだった。
美幌峠からは、美幌市街に下ったあと女満別の西側を通って能取湖に沿う国道に合流、そこを左折してサロマ湖畔のワッカ原生花園へと車を走らせた。今度の旅で既に一度訪ねたワッカ原生花園を再訪したのは、どこかひとつくらいは北海道の湿原か原生花園を見て帰りたいという、S君たっての願いをなんとか叶えてやるためだった。
到着したのが既に閉園間近な時刻でもあったため、二度目のワッカ原生花園探訪はかなり慌しいものになった。天候も曇天模様で風も冷たかったせいだろうか、エゾスカシユリもエゾゼンテイカも、過日に比べ、花びらの張りと色艶とがどことなく弱々しく萎縮して見えた。ひとつには日が照っていなかったせいでもあったのだろうが、もともと厳しい環境の下に咲く北国の花々は、盛りを過ぎるとその衰えも意外なほどに早いのだ。多分にそんな花自体の性質のゆえでもあったのだろう。もっとも、S君はそんなことなどあまり気にせず、北海道ならではの広大な原生花園の雰囲気とその素晴らしさを堪能しきっているようだった。
サロマ湖畔のなかほどには湖の眺望を楽しみながら入浴できる温泉がある。ワッカ原生花園の散策を終えたあと、夜を徹してのロングランに備え一風呂浴びていこうということになって、夕闇の迫る頃その温泉に立寄った。そして、一時間ほど弱塩泉の湯に身を沈めて疲れをとったあと、再び走行を開始した。前日のこともあったので、むろん、夕方早目に燃料の補給をすることも忘れなかった。
湧別からは中湧別、遠軽を経て上川盆地方面へと向かう国道に入った。翌朝早くに小樽付近に到達できれば、積丹半島の先端をまわり、ニセコ付近を経て、午後三時過ぎ函館を出るフェリーになんとか間に合うだろうという計算だった。そんなわけで、途中たまたま目についた小料理屋に飛び込み、夕食としてちょっとした海鮮料理に舌鼓を打ったあとは、夜を徹してひたすら走り続けることになった。
遠軽から丸瀬布を経て北見峠に差し掛かる頃になると、S君のハンドル操作がかなり怪しくなってきた。若いとはいえ、前日の早朝からの強行軍でさすがに疲れが出てきたのだろう、私が運転をかわると、それを待っていたかのように、フラットにした後部シートに移って死んだように眠ってしまった。
深夜の国道をひた走り、上川町を経て旭川に入ると、そこからは高速道路に上がり、札幌、小樽方面を目指してぐいぐいとアクセルを踏み込んだ。明け方ちょっと眠気がさしてきたところでまたS君と運転を交替し、午前五時前に小樽港の新日本海フェリー乗り場に到着した。港までやってきたのはフェリーに乗るためではなく、渡航客のために早朝から開いているターミナルビルのレストランで、小樽港を眺めながら休憩をかねて軽い朝食をとるだめだった。
朝食をとりながらこの日の行程を再検討した結果、神威岬まで足を運び、積丹半島の先端をまわって神恵内へと抜け、岩内、ニセコ、長万部というルートをとっても、午後三時頃までには函館港に着けるだろうということになった。そこで、小樽運河沿いの倉庫街をひとまわりしたあと、余市で国道五号からわかれて積丹半島を海沿いに一周する道へと入った。そして、ほどなく余市と古平の間の豊浜というあたりにあるトンネルを通過した。以前に大きな落盤事故が起こり、何台もの車が大量の土石によって押し潰されてしまったトンネルで、いまではその位置はすこし内陸側に移っている。
多数の人命が失われたその事故よりもすこし前のことだが、このトンネルの入口付近で私もあわやという目に遭ったことがある。その時はこの日と逆方向に走行中だったが、後続の他車を次々に追い越し猛スピードで背後に迫ってきた乗用車に、クラクションを鳴らして道を譲れと急き立てられた。正直なところ少々腹も立ったのだが、当時このトンネル入口の海側にはごく小さな待避スペースがあったので、とっさに左に寄って道をあけた。
うしろの車が私の車を追い越しトンネルに飛び込んだ次ぎの瞬間、異様な衝突音が一帯に響き渡った。なんと、その車は、トンネル内での追い越しか居眠り運転が原因で反対車線からこちら側の車線に割り込んだ対向車と正面衝突してしまったのだった。当然、トンネルは通行止めになり、死傷者が出て救急車が駆けつける騒動にまで発展したのだが、お蔭で私は事故に巻き込まれずにすんだのである。悪運(?)が強いと言われればそれまでだが、道を譲らずそのまま先にトンネルに突入していたら、いまごろはどうなっていたかわからない。
実際に走ってみると積丹半島は地図などで想像するよりもずっと大きく変化に富んでいる。その中央背稜部には千三百メートル弱の余別岳をはじめとし、千メートル前後の高さの山々が連なっているから、横断路も古平と神恵内とをつなぐ一本だけしか存在しない。しかも、その横断路も険しい山越えの道だからそれなりに時間がかかるのだ。また、海岸線のほとんどは急角度で海中に切れ落ちる峻険な海食崖に占められているので、その断崖足下を縫い走る道は事あるごとに不通になることがすくなくない。長年にわたって計画道路の建設工事が進められながら、最近まで積丹半島先端部をまわる道路が未開通だったのも、そんな地形上の理由あってのことだった。
朝早かったせいもあって、路上には他車の影などなかったから、古平、積丹町と順調に走り抜け、神威岬入口の駐車場へと到着した。以前は国道沿いの草内というところに車を駐め、そこから岬へと続く細道を四十分ほど歩いたものだった。たしか、草内というその地点には、「日本で一番夕日の美しい場所」という看板が立てられていたように記憶している。いまでは、その場所から岬方面へと分岐する舗装道路が建設され、道路の終点には売店などもある広い駐車場が造られていた。
神威岬の先端まではこの駐車場からアップダウンのある小道をさらに二十分ほど歩かねばならない。徹夜の強行軍でさすがに疲労感を覚えていた私は、先に独りで岬の突端に向かって駆け出すS君の後姿を見送りながら、マイペースでのんびりと歩き出した。岬への遊歩道は以前とは見違えるほどに整備が行き届き、格段に歩きやすくなっていた。ただ、そのぶん、かつての自然らしさがかなり失われてしまったような気もしないではなかった。
細長く伸び出た岬の背稜上を伝う遊歩道の両側眼下には、シャコタンブルーなどとも称される紺碧の海が広がっていた。そして、明るい朝日の差し込む海中では、白緑色の大小の岩々とそれらに付着する海藻類が、幻想的な色合いを見せながらかすかに揺らめき動いていた。急峻な斜面に点々と咲くエゾカンゾウの花々が風と戯れる姿なども印象深かった。
前方の遊歩道を小走りで駆け登っていくS君の姿を遠望しながら、ふと自分の体力の衰えに思い至った。一晩や二晩徹夜をしようがどうしようが、十年くらい前までは、この程度の道ならいっきに駆け足で走りぬくことができた。しかし、睡眠不足と旅の疲れの重なったいまそんなことをやったら、息があがってしまうのは目に見えていた。体力的に無理のない程度に少しずつ歩調を整えていくうちに、それでもかなり歩速は上がった。神威岬先端にある灯台脇の展望台に着いたS君は、私がやってくるにはまだまだ時間がかかると考えていたらしい。だから、私が展望台に姿を見せた時には、意外そうな表情を浮かべながら、「えつ?、こんなに早く着くなんて思ってなかったですよ」と半ば感心したように声をかけてきた。
かつてはゴツゴツした自然の岩石に覆われ、あちこちに身を隠せるくらいの窪みもあった岬の最先端部は、観光客が歩きやすいようにコンクリートがはられ、ずいぶんと様相が変わっていた。海面からおよそ八十メートルの断崖上に位置するこの岬は、江戸時代末期の安政三年頃までは女人禁制の地であったという。幸いなことに、沖合いの海中に屹立する高さ四、五十メートルの神威岩の偉容と、その足元を絶え間なく食む激浪の青白い牙の煌きは昔のままのようだった。
この岬から眺める夕日は、思わず手を合わせたくなるほどに荘厳で、しかも哀しいまでに美しい。巨大な神像そのものの神威岩が夕日を背にして黒々と聳え立つ有様は、抗し難い力をもって見る者の魂を魅了する。明るく朝日の輝く時刻にあって、そんな落日の光景を想い浮かべるというのも妙な話だったけれども、夕日ホリックのこの身にすれば、それは致しかたないことではあった。
十余年前の夏の朝五時頃だったかと思うが、私は山田岩利さんという地元の密漁監視員の方とこの場所でたまたま出逢ったことがある。その時、山田さんは、大きな岩の窪みから顔だけをのぞかせ、神威岩周辺に浮かぶ男女数名乗りの異様なレジャーボートの動向を双眼鏡でじっと監視しているところだった。トランシーバでどこかと緊密に連絡をとりながら彼らの動きを探り続ける山田さんの様子は真剣そのものだった。それは暴力団系の悪質な密漁グループで、法律的なことまであらかじめ計算し尽くした巧妙きわまりない手口を駆使してアワビやサザエの密猟をするため、取締りは困難を極め、この周辺の漁民たちは甚大な損害を被っていたのである。
親しくなった山田さんから、私は双眼鏡で眼下のボートの様子をのぞかせてもらったり、想像を絶するような密漁組織の実態について話を聞かせてもらったりもした。そして、のちに、拙著「星闇の旅路」(自由国民社)の中などでそれら一連の驚くべき事態について詳しい紹介をしたりもした。その後、一帯の密漁問題がどうなったのかはわからないが、これほどまでに展望台が整備されたいまとなっては、密漁監視員が身を隠そうにも、付近にはそれにふさわしい岩陰や窪地など見当たりそうにもない感じだった。
ほどなく岬から車に戻った我々は、再び国道に出たあと沼前岬方面へと走り出した。沼前までは以前から道が通じていたのだが、大絶壁の連なる地帯を貫いて神恵内へと至る予定のトンネル道路の開通は遅れ、いつ訪ねてみても工事中で通行不能になっていた。しかし、最近ようやくその道路が完成し、積丹半島を海伝いに一周できるようになったのだった。
トンネルの連続する新しい道路を車は快調に走り続けた。むろん、私もこの新道路を走り抜けるのは初めてのことだった。北海道の外周道路のなかで、この沼前と神恵内間の道路だけは最後まで私が通行できずにいたところだったからである。トンネルばかりで展望がほとんどきかないため、景色を楽しむというわけにはいかなかったものの、それでも私はいつしか深い感慨にひたっていた。そして、ついに車が神恵内側の見覚えのある地点に到達したとき、私は、年甲斐もなく、胸の中で「ついにやったぞ!」と叫んでいた。長年の懸案だった北海道外周道路の完全走行がようやくにして成った瞬間だからだった。
厳密なことを言うならば、秘境中の秘境、知床半島の知床岬だけは、車道はもちろん、海沿いに岬に至る歩行路さえもまったくない有様だから、それは例外とせざるをえない。ただ、知床半島に関しても、知床横断道路は言うに及ばず、知床林道の終点や、瀬石温泉のある反対側の道路の最終地点、相泊までは行ったことがあるわけだし、船でなら知床岬も一周はしたことだから、一応、北海道外周道路全走破達成と考えて差し支えないだろう。いずれにしろ、積丹半島の周回走行が達成できたのは、この度の北海道旅行最大の収穫ではあった。
2001年10月24日