続マセマティック放浪記

15. 春の薩摩路に鑑真の足跡を偲ぶ

NHK大河ドラマ「天璋院篤姫」が好評なこともあって、南国薩摩の春の旅がブームになっている。篤姫とも縁の深い錦江湾沿岸一帯の観光地が脚光を浴びるのは当然だが、せっかく薩摩路に足を運ぶなら、鑑真和上が九州本土に初めてその足跡をしるした坊津の地まで足をのばしてみるといい。薩摩半島西南端に位置する春の坊津一帯では、椎、樫、楠などをはじめとする照葉樹の若葉が柔らかな陽光をふんだんに吸い込み、我が世の春を謳歌しながら艶やかな萌黄色に輝きわたる。折から吹き寄せる春風もこのうえなく爽やかで心地よい。花々に彩られた野山も、どこまでも青く煌く南国の海も生気に満ち満ちていて、旅人の誰もが心癒されるに違いない。群青色の澄んだ潮を満々と湛える美しい入江の数々は、絶景奇勝に恵まれているうえに、知る人ぞ知る海の幸の宝庫にほかならない。夕刻ともなれば、東シナ海に沈む真紅の夕日と荘厳な海面の輝きに息を呑みながら、鄙びた宿の新鮮な魚介料理に舌鼓を打ち、本場の薩摩焼酎で旅愁を癒すこともできる。そんな風情に身を委ねながら、鑑真の偉大な足跡と人徳を遠く偲ぶのもまた一興だ。

嵐の東シナ海を越えて

天平勝宝五年(西暦七五三年)十二月二十日、現在の太陽暦でいえば一月の中旬、薩摩国阿多郡秋妻屋浦、すなわち、現在は立派な鑑真記念館の建つ鹿児島県南さつま市坊津町秋目浦の地に一隻の遣唐使船が難破寸前の状態で漂着した。そしてその船から、ひとりの盲目の僧侶が随行の者に手を取られながらその磯辺へと降り立った。その名は鑑真、当時の先進国、唐においても一、二を争う稀代の高僧であった。

唐にならった律令国家体制が整い、それを背後で支える仏教も隆盛の極に達していたものの、当時の日本には仏教本来の厳格な戒律にのっとり授戒の儀を執り行える高僧は皆無だった。そのため、聖武天皇は鑑真のもとに密使を遣わし日本渡航を懇請した。現代の世界的大学者にも匹敵する高僧らの国外流出を防ぐため唐王朝は厳しい規制を敷いていたが、奈良朝廷再三の懇願に意を決した五十六歳の鑑真は、西暦七四三年、果敢にも日本への密航を企てた。不運にもこの企ては弟子の密告によりあえなく挫折したのだが、鑑真は同年の十二月に真冬の東シナ海の荒波をついて二回目の渡航を試みる。しかし天運はなおも鑑真に味方せず、狼溝浦で遭難、密航は再び失敗に終わった。さらにその一年後の七四四年、鑑真は慎重に三回目の渡航計画を練り上げるも、またもや密議が発覚、先導役の日本人僧栄叡が捕らえられ計画は頓挫した。それでも懲りない鑑真は同年の冬に天台山巡礼を表向きの理由にして揚州から南下、東シナ海沿岸の渡航待機地に回って四度目の密航を図ろうとする。だが厳重警戒中の役人に身柄を拘束され、再び揚州へと護送される羽目になった。

四度目の渡航失敗から四年間、鑑真は平静を装い続けた。だが、西暦七四八年六月密かに揚州を離れて九月には暑風山に到着、そこで風待ちをしていた船に乗り、十月半ば奄美・沖縄方面目指して五度目の渡航を企てた。しかしながら東シナ海で船は激しい嵐に遭遇、航行能力を失って一ヶ月ほど海上をさまよったあと現在のヴェトナムに近い海南島に漂着した。容赦ない潮風と強烈な太陽、さらには食料や飲料不足のもとでの苛酷な漂流によって体力を消耗した高齢の鑑真は、その航海でとうとう失明してしまったのだった。

五度目の失敗から五年を経た七五三年十月、遣唐使の藤原清河らは揚州延光寺を訪ね、遣唐使帰国船に便乗し日本へ渡航してくれるよう鑑真に要請した。極秘のうちに揚州を離れた鑑真は、十一月半ば蘇州黄泗浦に着き、出航を前にした遣唐使船団の第二船に乗り込んだ。密出国の発覚に伴う唐との関係悪化が懸念されたので、遣唐使一行には計画決行への躊躇いもあったらしい。遣唐使船団は四隻編成で、この時の第一船には正使藤原清河のほか、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」の歌で知られる阿倍仲麻呂も乗り込んでいた。役人の監視の目を忍ぶため、鑑真らは要人の乗る第一船ではなく第二船に乗船したが、結果的にはそのことが幸いした。藤原清河や阿倍仲麻呂の乗る第一船は出航後ほどなく遭難し、かつての鑑真同様に海南島へと漂着した。また、第三船は風浪に翻弄されて太平洋側に押し出され、紀伊半島南部の田辺付近に無残な姿で流れ着き、第四船は開門岳に近い薩摩半島最南端部の荒磯に難破船の残骸となって打ち上げられた。

当時の和式帆船は追手すなわち順風のみが頼りだったので、日本へ帰る遣唐使船は、晩秋から冬期に大陸から吹き出す北西の季節風に乗って中国沿岸を離れ、いったん琉球諸島や奄美諸島のどこかの島に立寄った。そしてそのあと黒潮や対馬海流に乗りながら薩南諸島伝いに種子島・屋久島あたりまで北上し、天候を見はからって坊津に入港する航路をとった。風向きの関係もあって、揚子江河口のほぼ真東に位置する坊津への直行は不可能だったのだ。鑑真一行の乗った第二船は沖縄到着後黒潮に乗って無事屋久島まで北上した。だが、屋久島から坊津に向かう九十キロほどの航海中に激しい嵐に遭遇、一時は方向を失い太平洋側に流されかけたが、辛うじて遭難を免れ坊津秋目浦に着岸したのだった。

日本三津のひとつだった坊津

いまは静かな地方漁港になっているが、当時の坊津は、筑前博多津、伊勢安濃津と並び日本三津として栄えた港だった。西に中国大陸を望む坊津は、唐や琉球諸島との交易の表玄関になっていたからだ。後代には倭寇の基地となったり薩摩藩の密貿易の中継地や補給基地になったりもした。坊津が良港とされたのは、東シナ海に面する地理的利点や琉球諸島沖で黒潮本流から分岐北上する対馬海流が沖合を流れていることなどのほかに、坊津の地形のもつ特殊性があったからである。一口に坊津というが、北側から順に、秋目浦、久志浦、泊浦、坊浦と、それぞれ複雑な形をした四つの入江がほぼ西に向かって並んでいる。それらの浦々の総称がいわゆる坊津だったのだ。形状的にはいちばん北側の秋目浦がもっとも大きく、南端の坊浦がもっとも小さい。

五本の指を広げたような地形の四つの指間に相当する部分が入江になっているようなもので、しかも各々の入江の奥には船の停泊に適した二重、三重のより小さな入江があって、外海の風浪から停泊船がしっかりと守られる構造になっている。満足な海図や羅針盤などない時代の風まかせ浪まかせの木造小型帆船にとって、四つの浦のどれかに辿り着きさえすれば当面の安全が保証される坊津は願ってもない良港であった。なかでも激しい風浪に翻弄され難破寸前になっている船などの漂着地としては、これほどに有り難い場所はなかったことだろう。開聞岳や野間岳のような航海の目印となる山々が近くにあったのも古代の舟人には幸いなことだった。

十年にわたる苦節の末、坊津秋目浦に降り立った時、鑑真はすでに六十六歳になっていた。仏教にいう大勇猛心の化身のごとき鑑真は、遠い異郷の地でどのような感慨にひたったのであろう。一説によると「たとえ山川の景観の異なる別々の世界であろうとも、それぞれの地を吹き渡る風や、それぞれの世界を照らす月影は、同じ天をめぐる共通の存在ではないか」といった趣旨の思いを語り述べたともいう。 坊津で修理と補給を終えた遣唐使船は九州西岸沿いに航行し、有明海最奥の浜辺に着いた。そのあと鑑真らは陸路大宰府入りし、博多津から再び船に乗り瀬戸内海を経て難波津に入った。そして七五四年二月四日に聖武天皇の待つ平城京入りを果たしたのだった。故郷揚州を立ってから平城京に到るまで実に三ヶ月半にも及ぶ長旅であった。

ちなみに述べておくと、東山魁夷画伯筆の唐招提寺障壁画「濤聲」のモデルとなったのは秋目浦ではなく、歴史資料館「輝津館」のある坊浦の「双剣岩」とその一帯の厳冬期の光景である。東山画伯は鑑真が初めて坊津の地を踏んだのと同じ時節に当地を訪れ、海の荒れる日を選んではスケッチに勤しんでおられたという。秋目浦からそう遠くない野間岬には斎藤茂吉の歌碑なども建っている。当然、茂吉はこの坊津の地にも立ち寄ったに違いない。

カテゴリー 続マセマティック放浪記. Bookmark the permalink.