続マセマティック放浪記

43. 参議院選の結果をどう考えるべきなのか

ねじれ国会に突入とやらで政界はてんやわんやの騒ぎである。菅政権がこのまま行き詰まって衆議院が解散され、仮に野党の自民党が過半数を制したとしても、同党のもつ参議院議席数は八十六と民主党のもつ百六議席よりも少ないから、またまた新たなねじれが生じてしまうだけのことになる。左巻きにねじれるか右巻きにねじれるかの違いがあるだけで、どちらになっても国会が機能不全に陥るのは避けられそうにない。先々のねじれ解消を期するにしても、次の参議院選挙がある三年後まで待つしかない。地方区でも比例区でも国全体としては得票数が最多だった民主党の獲得議席が、より得票数の少なかった自民党の獲得議席を七議席も下回るという「一票格差」問題の影響も、今回のねじれ騒動の一因となっている。だが、こちらのほうも、各地方の選挙民の声を国政に反映させるという一見もっともらしい主義主張のゆえに、いますぐに是正することは容易でない。

みんなの党をはじめとする乱立気味の小党は現実味の乏しい大言壮語そのままの公約を掲げ、ねじれを巧みに利用しようとやっきになってはいるけれど、その魂胆は見え透いている。衆参両院合わせて数議席から十数議席しかもたない小党に単独でできることは皆無だから、どんなにその主張が立派だろうと、結局、それら小党は寄生虫なみの生き残り方策を探るしかない。参議院は「良識の府」だなどと言われてきたが、いまや「良死期の府」と成り果てかけている。

政界のそのような異常事態を前にして、いったい我々国民のほうはどのように対処していけばよいのだろう。皮肉な言い方をすれば、その答えは明瞭そのもので、なにも事を難しく考える必要などまったくない。ねじれの結果、どんどん法案の可決が滞り、行政が麻痺し、他国から笑いものにされ、さらには世界的な政治経済の不安材料と見なされたりし、どんどんこの国の国際的な地位が下落していくのを待てばよい。国民のためと称しながら、その実は自分の名誉と利得のことしか考えていない政治屋どもをいくらかでも改心させるには、一時的に国民が不幸になろうとも結局そうするしかないからだ。

またいっぽう、病んだ政治に即効薬があるかのような錯覚を起こし、過大な要求だけを突きつけて事態をいっそう悪化させ、その場かぎりのマスメディアの無節操な報道に乗せられて目先の政権交代だけを願う浅はかな我々国民の側にしても、おのれの愚を深く反省するためには、遠回りであろうともそのような道筋を辿るしかないからだ。

現状では誰が総理の座に着いたとしてもかわりばえはしないだろうから、たとえドロドロになろうとも菅総理は日本丸の舵取りを続けるべきだと思う。この際、とことんドロドロになるくらいしか、この総理にはながらえる道などないはずだし、また活路はそこにしか見出せないだろうからだ。

菅総理の政治上の恩師とも言うべき存在は故市川房枝議員であるが、真の勉強家であり根っからの庶民的政治家であった市川房枝女史に菅氏が近づくには、まだまだ修行が必要なようだ。私の知人にある地方議会の議員がいる。庶民のために真摯に活動していることで知られる議員だが、かつて菅氏と共に旧社会党のある大物国会議員の秘書を務めていたことがある。菅氏のことをよく知るこの人物は、ある時その人柄を、「日の当たる格好よいところだけを選んで歩いてきた人だけに、どちらに転んでも自らが泥をかぶらなければならないような厳しい状況に負い込まれたら弱いし、敢えて目をつぶってはじめからそんなところを避けて通ろうとするきらいがある」と評したものだ。さて、いまや正念場に到ったそんな菅総理、テレビ報道つきの四国霊場めぐりなどという格好つけた綺麗事などではなく、全身泥土と汗水だらけの真の政治家修行に耐え抜くことができるものだろうか。泥をもって泥を制す――そんな究極の政治家芸がこの総理にできるものかどうか――思い通りにならないとすぐ苛立つことからついたというニックネーム「イラ菅」が、自ら泥んこになりながらも国政のどぶさらいをするドロ菅に見事変身できるかどうか――ここはちょっとした見物である。

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