続マセマティック放浪記

36. 念珠ヶ関を経て瀬波温泉へ

遊佐町の「おくりびと」ロケ地をあとにすると、藤沢周平の時代小説で知られる鶴岡市方面に南下し、日本海に沿って越後方面にのびる国道七号線に入った。太平洋側の諸都市や関西方面からはずいぶんと遠いこともあって訪ねる人こそ少ないが、この日本海沿いの国道周辺は、奇岩奇勝の連なる風光明媚な土地として昔から旅好きの間ではよく知られてきた。西方に海面の広がる地形のゆえに、この一帯は荘厳な夕日の眺められることでもつとに名高い。「奥の細道」の中では、念珠ヶ関(奥の細道の記述では鼠ヶ関)を通過したこと以外にはこの付近のことはまったく触れられていないが、芭蕉と曽良はこの海岸線沿いの古道を辿って越後へと抜けている。出羽の酒田から越中との国境に近い越後市振(奥の細道の記述では一振)の海岸に至るまでの約二週間の記述がほとんどないことについては、芭蕉の体調が悪かったからだとか、不快な出来事が重なったからだとか、猛暑と悪路のため難儀したからだとかいったような諸説があるのだが、結局のところ真相は不明である。「荒海や佐渡によこたふ天河」の名句はその間に吟じられたものではあるのだけれども・・・・・・。

国道七号線伝いに鶴岡市西部の由良浜に出ると、進行方向右手に日本海の青い海面が広がってきた。夏場だと海水浴場になる由良浜はなかなか景色のよいところで、奇岩の取り巻く小島状の岬が沖へと大きく延び出している。もう随分と以前のこと、この由良浜の岩場で亀の手などを採取し海水で茹でて食べたことがあったが、この日はとくにそのようなこともせず一息にその地を通過した。

日本海と羽越線に挟まれた国道七号線をどんどん南下し五十川を過ぎると、近年立派に整備された温海町の道の駅に着く。風情豊かな温海温泉はこの海沿いの国道から少し内陸側に入ったところに位置している。なかなかに立派な造りのこの温海町の道の駅は、付設された駐車場も十分に広く、その地域一帯の文化の紹介と近隣の特産物の販売促進との両機能を備えてもっている。もちろん、レストランも完備しており、家族連れなどは青潮の食む磯辺に降りて小蟹や貝類その他の海の生物などと戯れることもできる。当然だが、日本海に沈む落日の景観も実に素晴らしい。

しばらくこの道の駅で休息をとりながら付近を歩き回っていると、見るからにうまそうな焼きホタテを売っているお店の前に出た。小腹もすいてきたこともあったが、なによりもまず、プーンとあたりに漂うその磯のかおりの誘惑にはなんとも抗し難いものがあった。一個五百円という値段はそう安いとは思わなかったが、綺麗な海水だけを味付けに用いてじっくりと焼き上げられ貝殻ごと出されたホタテは、期待にたがわず美味そのものであった。ホタテの粒の大きさも通常目にするものの三~四倍はあったし、下皿を兼ねる貝殻内に溜まった焼き汁もすべて飲み干すにふさわしいものだったから、仕舞いには五百円というその値段ももっともだと思われるようになった。

温海町の道の駅を出ると再び国道沿いに南下を続け、昔、白河の関、勿来の関、と並ぶ陸奥路への三大関所の一つがあった念珠ヶ関を経て、新潟県山北町に入った。国道七号は山北町の南部から左折して山間部を縫うルートとなるので、そこで海岸線沿いに延びる国道三四五号線へとハンドルを切った。以前は狭くてあちこちがかなりの悪路になっていたこの国道も、いまではすっかり整備が行き届き走りやすい道路になっている。進むにつれて、海岸線に向かって切れ落ちる急峻な岩山と日本海の荒波とがつくりあげた奇岩奇勝が次々とその姿を見せ始めた。気が向いた時には路肩に車をとめてそれらの景観を楽しみ、さらには磯辺を歩き回って水中の生物を観察したりしながらのんびりと走るうちに「笹川流れ」で知られる羽越線の桑川駅に到着した。

桑川駅に隣接する道の駅「笹川流れ」の建物の階上部には夕日館と呼ばれる展望所が設けられていて、眼下に広がる雄大な日本海の海面を一望することができる。ここから眺める真紅の夕日の輝きもまた息を呑むような美しさだ。桑川駅近くの船着場からは観光船が出ていて、ゆったりとした潮の流れに乗りながら、全長十一キロにわたって青い海と数々の小島や海食崖、海食洞門の織り成す絶景を眺めることもできる。その情趣は奥の細道にも登場する松島のそれにも勝るとも称えられ、潮流の赴くままに海上を漂いながら笹川集落の沖一帯の情景を楽しむ趣向は、いつしか「笹川流れ」という異称で呼ばれるようになった。

もう夕刻も迫っていたし、以前に「笹川流れ」は体験済みだったので、この日は遊覧船には乗らないことにした。さらにまた、生憎の曇天模様とあって夕日そのものも眺められそうになかったので、夕景の醸し出す旅愁にひたることをも断念し、ほどなく桑川駅をあとにすると三四五号線の南下を再開した。だが、自然というものは時に人間の予想を覆し、粋な演出をしてくれることがあるものだ。羽越線早川駅を通過する頃になると、日本海の西方水平線上に突然細長い筋状の雲の切れ目が現われ、そこの部分だけが徐々に明るさを増し始めた。

このぶんだと、たとえ一瞬ではあっても夕日が眺められるかもしれないぞ――そう思った私はすぐに路肩に車をとめ、ひたひたと夕潮の押し寄せる砂地の浜辺へと降り立った。水平線上に細長くのびる明るい雲の切れ間に、目も眩むようなオレンジ色の輝きの太陽が姿を現したのは次の瞬間であった。まるで強力なサーチライトに突然照らし出されでもしたかのように海面が帯状に赤く輝き、私を取り巻く風景全体が鮮やかな真紅に燃え立ち染まった。やがて太陽はその全貌を水平線上に現し、思わず合掌でもしたくなるような赤黄金色に煌きわたった。そして、それからほどなく水平線の彼方へと沈んでいった。それは瞬時のドラマではあったが、瞬時であったぶんだけかえって感動的で、日没後にあたりを包む余韻のほどもまたひとしおであった。

新潟県村上市の北部に位置する三面川河口近くの橋を渡って瀬波温泉の街並みに差し掛かる頃にはとっぷりと日も暮れた。この瀬波温泉には龍泉という日帰り入浴客専用の温泉がある。この温泉の広大な露天の浴場には風情ある石組みの大浴槽がいくつもあり、湯量も豊富で泉質も良く、疲れた旅の身体を休めるにはもってこいときている。ふんだんにお湯の流れ落ちる温泉滝も設えられている。入浴料も手ごろだし、その気なら睡眠もとれるゆったりした休憩室も備わっている。日本各地の日帰り温泉にはずいぶんと立寄ったことがあるが、この龍泉ほどに風情があって心身も癒される温泉はめったにない。この一帯を旅する人には是非ともお薦めしたい温泉だ。

瀬波付近を通るごとに龍泉に立寄っている私は、この夜もその大きな湯船にどっぷりと浸かり一日の旅の疲れを癒すことにした。たまたまこの日は入浴客も少なく、浴場はがらんとしていて文字通りの貸切り状態であった。温泉滝に打たれたり、ほどよい温度の湯船で瞑想に耽ったりしながら旅の汗を流し、軽い食事を取ってから再び車に戻るともう時刻は十時近くになっていた。

龍泉をあとにすると新潟方面を目指して夜の国道を疾走し、中条インターチェンジで関越道に上がって黒崎パーキングエリアまで行き、そこで車中泊を決め込むと翌朝までぐっすりと眠った。そして、土日の千円料金をいいことに、いっきに関越道を疾走して東京へと戻り着いた。

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