続マセマティック放浪記

38. 科学技術研究費予算削減に思うこと

過日の政府の「行政刷新会議」なるもののテレビ報道を観ていて、それでなくても危機的状況にある我が国の基礎科学研究がますます窮地に追い込まれていく状況を痛感する結果になった。理化学研究所の次世代スパコン開発予算や世界最先端の光科学関係の研究が行われている兵庫県佐用町の大型放射光施設SPring-8の研究用予算などが、たいした議論もなく、しかも、基礎科学の意味などまるでわかっていない人々の手によって半ば無駄扱いされ、次々に削られていく有り様はなんとも悲しく、また情けないかぎりであった。

ただ、文科省の役人をはじめとする科学研究予算要求サイドの「仕分け人」に対する反論はまったく論理的でなく、説得力にも欠け、幼稚そのものでなんとも心もとないかぎりであった。あれでは仕分け人らに一蹴されても仕方がなかったとも言えよう。行政予算の無駄を切り詰めるという現政府の全体的な方針が必ずしも悪いとは思わないが、日本の未来に大きくかかわる学術の重要性、なかでも基礎科学の重要性に関して、新政権の政治家もその傘下の官僚も、そしてほかならぬ我々日本一般国民の一人一人も無関心かつ無知になり過ぎてしまっているように思われてならない。

すぐには実用に結びつかない、すなわち、費用対効果評価主義や成果重視主義的見地からすると最も軽視されやすい基礎科学の真の重要性を広く国民に説くのは、目先のことしか考えず、プラグマティズム(実用主義)思考に凝り固まっている人々に「広い教養の重要性」や「哲学的思索の必須さ」を説くのと同じくらいに、あるいはそれ以上に難しいことなのかもしれない。いささかふざけた言い方をすれば、「犬は犬である」というごく当たり前のことを説明するのは、実は「犬は猫である」ということを説明するより遥かに困難であるということにも通じる話かもしれない。

将来の日本の発展を願いながらこの問題に対処していくためには、ノーベル賞受賞者の方々をはじめとする日本の優れた研究者や大学人たちがこれまでになく連携し合い、しっかり理論武装したうえで、その人々自らが前面に立ち、政治家や行政当局者、財界人などと真剣に議論を戦わせるとともに、一般国民に向かってわかりやすく平易な言葉で基礎科学研究の重要性を訴えなければならないことだろう。また、そのための能力を磨き、効果的なアピールに不可欠な手段とそのためのシステムを構築していかなければならないことだろう。残念なことではあるが、現在の日本の一流研究者らにはそのような問題意識が目下のところ大きく欠落しているように思われる。

喩えて言うなら、崇高な教理を説くキリストはそれなりに存在していても、その教えを咀嚼してわかりやすく大衆に説き伝える、優れた伝道師パウロがこの国にはほとんど存在していない。パウロの重要性をキリスト自身があまり深くは認識せずにきてしまったこともその大きな原因である。その証拠に、この国ではサイエンスライターやサイエンスネゴシエータの地位は極めて低く、その立場も甚だ脆弱である。また大学にはそのような人材を養成する学科などもほとんど見当たらない。

未来を背負う子供たちを対象にした科学教育などのありかたにも一工夫が必要なようだ。一昔前の著名なスイス人認知心理学者ピアジェは、「どんな学術上の高等な理論であっても、そのエッセンスは初等の子どもたちにわかりやすく説き伝えることができるものだ。ただ、そのためには一流の専門研究者が初等教育の現場に直接かかわる必要がある」といった主旨のことを述べている。将来の日本を支える子どもたちに夢を持たせ、ほんとうに学ぶことの楽しさやその意味を教えるには、このピアジェの考えを実践に移すのがベストなのかもしれない。欧米では高名な学者が初等中等教育課程の生徒らと親しく接する機会が常時設けられているようだが、日本ではそれに類するものとしてはNHKのテレビ番組「課外授業・ようこそ先輩」にみる事例があるくらいのものである。そのほかのほとんどのものは、一過性の表敬訪問的なものに過ぎないのが実情だ。その大きな阻害要因のひとつは日本の学校制度にあるようなのだが、現実にはその解消は容易でない。

今回の仕分け会議でも問題になった予算削減の日本科学未来館をはじめ、各地の子ども科学館のような施設をつくるのもよいのだが、そんなところに子どもたちの誰もが行けるわけではない。それよりも、日本各地の、特に教育環境にあまり恵まれていない地方の小・中学校などに著名な研究者などが出向き、自然体でそこの子どもたちと直に接することができるような機会をなるべく頻繁に設けるようにしたほうがよほど教育的ではないだろうか。それによって啓発される子どもたちは少なくないだろうし、またそのほうが集客効率の悪い箱物をつくるよりも費用も安くて済むはずだ。各学校にそのための経費を支給することも一法だろうし、そのような要請にうまく対応するため、常時有志の専門研究者集団をプールしておくのも一案だろう。一線を退いた方々でも十分なわけだから……。

話は前後するが、基礎科学の重要性が十分国民に伝わっていないことに関してはマスメディアのありかたも問題だ。昨日の行政刷新会議の場では、理研の次世代スパコン開発の予算要求に関し、蓮舫議員が、文科省の担当者に対し、「国民の目線からすると、次世代スパコンの能力が世界一でなく世界で二番目であって何が悪いのかという見方もある。また、もしも世界一になれなかった場合のリスクヘッジの取り方やその責任の所在をどう考えるのか?」という主旨の質問を浴びせかけていた。それに対する文科省サイドの反論は「世界一には世界一の意味があり、そのことは科学的に重要なのだ。科学研究には成果主義ではかれないものがある」といった程度のなんともお粗末なものであった。

実際には多岐にわたる極めて重要な研究を行い、ネイチャー誌やサイエン誌をこれまで幾度となく飾ってきたSPring-8の研究成果に関しても、その成果のひとつに過ぎないタンパク質の構造解析研究を取り上げ、「タンパク質の構造解析が何の役に立つのだ。創薬や医療に繋がる結果が出ていないではないか」などという批判がなされたりもした。

そもそも、次世代スパコン開発問題一つをとってみても、その新開発マシンの演算速度世界一実現を目指すという受けを狙ったこれまでの理研サイドの構想発表や、それを煽り立てるように報道してきたマスコミの姿勢自体が問題なのである。次世代スパコンの開発が重要なのは演算速度が世界一になるからではなく(一時的に演算速度世界一を達成しても、それだけなら次々により高速のものが現われる)、学術研究におけるその多機能性こそが、そしてまた、それによって進められる諸研究の成果こそが重要なのだ。演算速度など次世代パソコンのもつ価値のごく一部に過ぎない。さらに言えば、その次世代新機種開発にともなう膨大なソフトウエア上の技術の蓄積やそれらに関する数々の副産物こそがこの国の生命線でもあるのだ。

このままでは、インドや中国、シンガポールなどのようなアジアの先進国にも立ち遅れ、遠くない将来、我が国では自前の次世代スパコン用の高度なチップさえつくれなくなってしまう危機に瀕するに違いない。それでなくても、NECや日立が理研の次世代スパコン開発プロジェクトから撤退した真の理由は、技術者不足にあると囁かれているくらいなのだ。実際、NECなどからは中国などへの優秀な技術者の流出が起こっている。そんなことなど考えもせず、表面的な議論に終始するこの国に最早未来はないのかもしれない。

一連の「行政刷新会議」の科学技術関係予算の削減処置に対し、内閣府に属する総合科学技術会議の相澤益男委員(元東京工業大学学長)以下八名の全員一致の見解として、「基礎科学の評価に成果主義に基づく判断はふさわしくない」という提言がなされたようだが、当然のことだろう。

意外なほど国民には知られていないことであるが、本来基礎科学研究を担うはずの日本の大学院教育は現在崩壊の危機に瀕している。この秋に日本経済新聞社から創刊された季刊の教育誌「ducare(デュケレ)」の巻頭において「崩壊する日本の大学院教育」という記事の執筆を担当した。我田引水にはなるが、もし関心のおありの方があれば本屋でも立ち読みしていただきたい。ちょっと探しにくいけれども、この南勢出版のホームページの「夢想一途」のコーナーの最後のほうにある「執筆活動の一部」のところにも収録されているので(ただし、生原稿のままだが)、そちらのほうを参照してもらうのもいいかもしれない。いまでは世の片隅でほそぼそと生きる筆者のような人間がこんなことを書いてみても「瘠せ犬の遠吠え」に過ぎないが、それでもまあ、吠えないよりはましであろうとは思う。

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