一時はその実現が懐疑視されさえしていた初の黒人米国大統領が誕生することになった。黒人大統領とはいっても、白人の母をもつオバマの場合は厳密に言うとハーフなのだから、その表現にはいささか違和感も覚えるが(これがアフリカでの出来事だったら、母方の血筋をもとにして白人大統領と呼ばれてもおかしくないわけで、「黒人」とことさら強調すること自体、潜在的な差別意識の表われとも言えるのだが)、それはともかく、まずは喜ばしいことである。
世界各地への不毛な軍事介入やサブプライム問題を発端とする世界金融破綻の元凶となるなど、なにかと問題の多い近年のアメリカではあるが、政治の世界における民主主義の理念と、曲りなりにもその理念を表に掲げて行動する国民の高い政治意識はなお健在のようである。もしもこれが我が国だったらどうだろう。韓国人や北朝鮮人、中国人、フィリピン人、インド人などを父方に、日本人を母方にもつ人物があったとしてみよう。その人物が如何に優秀であり、人格者であったとしても首相に選ばれることなど絶対にないだろう。なんとか政治家の一端に座すことくらいはできるかもしれないが、閣僚などの主要ポストに就くことなど想像することさえできない。学術界、芸術界、芸能界、スポーツ界などではそのような出自に纏わる障壁は急速に影を潜めつつあるようだが、国家の命運を左右する政界だけは旧態然としたままである。
その最大の原因は、我々国民の大多数が無意識のうちに抱くかつての村社会的な排他性やそれに因する蔑視感情にあるようだ。他国での人種差別を他人事のように批判することの多い日本人であるが、自国のこと、自分自身のこととなるとだんまりを決め込むのが相場ときている。そんな土壌に胡座(あぐら)をかく既存の政治家たちは、表向き民主主義を標榜し、米国との関係を絶対視する割には、米国を支える民主主義の本質にはいたく無関心である。二世・三世の無能な国会議員が跋扈(ばっこ)し、変化を求める国民の声に怯えて政権を盥回(たらいまわし)しながら総理の座や閣僚の座に恋々とする卑小な人物らを指導者と仰ぐことに、我々国民はそろそろ見切りをつけるべきである。
黒人の血をひくオバマを大統領に選んだ米国流の「change(変革)」をいっきに実現せよとは言わないが、折々政権政党を変えるくらいの、そして、無能な二世・三世議員は落選させるくらいの意識の改革は必要だろう。海の向こうでオバマが高らかに唱えた「Yes, we can change !」という言葉に身をもって呼応すべきは、アメリカ人よりも我々日本人なのではなかろうか。