続マセマティック放浪記

34. 那須高原サービスエリアで水上先生を偲ぶ

六月初旬の金曜日の夕刻のこと、久々に車のハンドルを握り、山形県の西北部に位置する酒田方面を目指して走り出した。もちろん、東北自動車道に入ったあとは翌日の土曜日にかけて酒田まで高速道路を走行し、高速料金を千円ぽっきりで済ませてしまおうという魂胆だった。「あっ、そう」とばかりに、来るべき総選挙で麻生自民党支持の一票を投じる気などはさらさらないが、土日の高速道路料金を下げてもらえたのは正直有り難い。ただまあ、二年間限定の処置だとかで、安くなった分がいずれは税金となって撥ね返ってくるのだそうだから、朝三暮四みたいな話である。民主党が政権を取ったら高速道路料金は全面無料化になるとのことだが、いっぽうでは、ほんとうにそう事がうまく進むのだろうかという懸念も湧いてこなくはない。朝三暮四ならまだ我慢もできようが、朝惨暮死になったりしたらたまったものではないからだ。

この折の長距離ドライブの目的はいささか仕事疲れした心身の解放のためだった……などと格好をつけてみたくもなるが、正直なところは現実逃避の一環には違いなかった。ただ、誰にも気兼ねせずに勝手気ままに遠くへ出かけ、たとえ一時的にではあるにしろ、日常的な時間の流れなどいっさい忘れ去り、己の魂を異空間に浮遊させることにはそれなりに意味がある。しがない物書きの身にしてみれば、そのような旅が執筆テーマの発掘に繋がることも少なくはない。

大泉インターチェンジから東京外環道に入り、浦和を経て東北自動車道に入ると、のんびりとしたペースで那須高原サービスエリアまで走り、そこで軽い夕食をとった。若い頃と違って基礎代謝の落ちたいまでは、食べ過ぎは禁物と常々自らを戒めている。とくに先を急ぐ必要もなかったので、食後にお茶を飲みながら、おもむろに持参した文庫本を開いてみた。その本はNHKライブラリーとして二〇〇四年四月十五日に文庫本化された、水上勉著「良寛を歩く、一休を歩く」であった。良寛や一休の足跡を克明に辿り、その時代背景を鮮明に描き上げたこの名著には何度読んでも教えられるところが多いのだが、いまひとつ、この本には忘れようにも忘れられない思い出があった。私が折々この本を持ち歩くのはその掛け替えのない思い出のゆえでもある。

二〇〇四年五月一日、かねてから親交のある若狭の画家渡辺淳さんと私とは、北海道岩内町の木田金次郎美術館での講演に出向いた帰り、信州の北御牧(現東御市)下八重原にお住まいだった水上勉先生を訪ねた。北御牧から遠くない鹿教湯温泉のリハビリセンターでご静養中の先生を、やはり渡辺さんと二人でお見舞いして以来のことだった。その日、先生は車椅子に乗り介護の方の助けを借りて姿をお見せになられたが、すでに身体はまったく自由がきかず、また、時々呻くような意味不明の声を発せられる以外、言葉もいっさいお出しになれない状態だった。ただ、それにもかかわらず、渡辺さんや私のお話しすることについてはしっかり理解なさっているご様子だった。

長らく先生のお世話をしている介護の方に、「どうやら先生は岩内での記念展や記念講演会のパンフレットの文を読んで欲しいとおっしゃっておられるようだ」と促されたので、私がそれを読んで差し上げた。すると先生は心から嬉しそうな表情を浮かべられ、何事か言葉にならない言葉を発せられた。

二時間ほどでおいとますることになったのだが、別れ際に、刊行されてまだ間もないこの「良寛を歩く、一休を歩く」を介護の方に持ってこさせ、同じくその方の助けを借りながら必死のご様子でサインをし、我々二人に一冊ずつ進呈してくださったのだ。もともと洒落の大好きだった先生は、「勉」というご自分の名前とお辛い日々の闘病生活に掛けて「毎日つとめます」とお書きになろうとしたのだったが、「ます」の二文字がページからはみ出てほとんどなくなってしまった。「毎日つとめ」の部分もまるで字を習いたての子供の筆跡のように不恰好に歪み、味のある字をお書きだったかつての先生の面目など最早どこにも感じられない有り様だった。

ただもう壮絶としか言い表しようのないお姿でのそのサインぶりに、渡辺さんも私も思わず瞼を熱くせずにはおられなかった。サインを終えられたあとで、また何事かを唸るようにしておっしゃられたが、介護の方によると、「もうちゃんとサインができなくてごめんなさい」と言っておられるようだとのことだった。最後にお別れの握手をしたのだが、水上先生は私や渡辺さんの手を力を込めてしっかりと握ってくださり、「ありがとう」とも聞こえる、呟くような短いひと声をいま一度呻くようにお出しになられた。

玄関先で私たちは何度も何度もお別れの挨拶をしながら「勘六山房」と呼ばれていたそのお住まいをあとにしたが、先生はかすかに涙さえ浮かべながら、そんな私たちを無言のままじっと見送ってくださった。その静かなお顔は、あの弥勒菩薩の慈愛に満ちたご尊顔にも重なっているように感じられてならなかった。そしてそれが、渡辺さんにとっても私にとっても、生前の先生のお姿を目にした最後の機会となったのだった。

それから四ヶ月後の二〇〇四年九月八日朝、水上先生は逝去された。翌九月九日の午前中、渡辺淳さんと私とは再び北御牧の勘六山房に出向き、昼過ぎから同所でおこなわれた密葬に参列した。末席で先生のご冥福を祈らせていただいたのだが、二十人前後のごく内輪の人々だけによってとりおこなわれたその葬儀は文字通りの密葬であった。戒名は「影竹菴箒階清勉居士」(えいちくあん・そうかいせいべんこじ)」――静かに照る月の光によって庵かお堂の階段や回廊のようなところに映し出された竹林の影が、音もなく無心にその一帯を勉め箒き清める――ご生前に授かっておられたというその戒名を介してそんな静寂な夜の情景を想い浮かべながら、穏やかな表情で永遠の眠りにおつきになられた先生の最期の姿をお見送りした。水上文学作品の挿画や装丁を長年にわたって担当、作品中に登場する人物のモデルなどになられたりもし、誰よりも先生の信頼の厚かった渡辺淳さんは、その深い悲しみをじっと心の内で押し殺しておられるご様子で、それを見る私のほうも胸中いたたまれぬ思いだった。

先生のご遺体は上田市の火葬場で荼毘に付されたが、そのお骨は太くがっしりしていて量も多く、通常の骨壷には納まりきれないほどであった。晩年、陶芸に興味をお持ちだった先生は、生前にご自分用の骨壷を焼いておられ、火葬の際にはその骨壷も前もって準備されていた。だが、とてもその骨壷にお骨のすべてを納めることはできそうになかったので、その場では火葬場側から供された通常型の大きい白地の骨壷が用いられた。

お骨を拾い終えた葬儀の参列者一行は、先生のご遺骨ともども火葬場から再び勘六山房へと戻った。その密葬がおこなわれたのは秋晴れの好天の一日で、勘六山房のすぐ近くからは、浅間山の大きな山影が、まるで先生の御霊を弔いでもするかのように、いつにもましてくっきりと浮かんで見えた。勘六山房の玄関の柱には先生の筆で「常不在」としたためられた墨書の看板が掛かっていたが、その文字の意味する通り、山房主は永遠に不在ということになってしまったのだった。私は胸中の深い思いをその場でささやかな歌に托し、先生の御霊をお送りすることにした。

千万の苦悩を永久(とは)の微笑(ゑみ)にかへ竹の庵主は旅立ちたまふ

いま手にしている文庫本「良寛を歩く、一休を歩く」の見開きに黒々と記された「毎日つとめ…」という文字は、その後のご病状の進展具合からしても、水上先生による最後のサインであったことは間違いない。あれからはや五年の歳月が流れ去った今、絶筆と呼んでも差し支えはないだろう先生の筆跡を眺めながら、那須高原サービスエリアという甚だ場違いなところにあって、たまたま私はそんな回想にひたることになったのだった。水上勉先生や渡辺淳さんとの出合いがなく、そしてまた、先生が主宰しておられた若州一滴文庫の会員誌「一滴」上で筆を執らせていただくことがなかったら、奥の細道文学賞を頂戴し、ささやかながらもこうして文筆活動に身を委ねることもなかったかもしれない。

手にした本を閉じ、自分も心して「毎日つとめ」なければいけないなとあらためて思い直しながら那須高原サービスエリアをあとにした私は、福島県の安達太良サービスエリアまで走り、そこで朝まで眠ることにした。昼間なら女性の乳房そっくりの形をした頂をもつ安達太良山を仰ぐことができるのだが、すでに深夜のこととあっては、さすがにそれも叶わなかった。高村光太郎と千恵子にゆかりのこの山には以前に岳温泉経由のルートで一度登ったことがあるが、途中の山道に咲く石楠花がとても綺麗だったことを憶えている。

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