続マセマティック放浪記

16. 講演録「地方文化にいま一度誇りを!」(その1)

以下にご紹介するのは、2004年4月、北海道岩内町の木田金次郎美術館で開催された、若狭の画家、渡辺淳さんと貝井春治郎さんの絵画展(「岩内町教育委員会・木田金次郎美術館・岩内美術振興協会の主催」に伴う記念講演会の講演録です。私の講演が終わったあと、渡辺さん、貝井さん、それに会場の有志の方々を交えた対談がありました。終わりのほうにその内容も収録されています。なお、渡辺淳さん、貝井春治郎さんのプロフィールは以下の通りです。地方文化の重要性や地方で育つことの意義をメインテーマにした講演の記録なのですが、かなり長いものですので何回かに分けてその内容をご紹介したいと思います。

【渡辺淳(わたなべ・すなお)】画家。1931年福井県大飯郡佐分利村(現大飯町)川上に生まれる。十代後半より炭焼きを始める。1952年結婚を機に油彩を始め、大飯郵便局の請負配達を務めながら制作を重ねる。1967年「炭窯と蛾」で日展初入選。以後8回入選。同郷の作家・水上勉の著作挿絵・装丁多数。1983年「若州一滴文庫」の創設に参加。福井県文化奨励賞受賞。1990年31年続けた郵便集配請負を退職。2001年東京銀座・大黒屋ギャラリーで個展開催。主な著作に『渡辺淳画集』(一滴文庫)、『山椒庵日記』(於里満舎)などがある。木田金次郎美術館での作品展示は2001年に注ぎ二度目となる。

【貝井春治郎(かいい・はるじろう)】画家。1934年福井県大飯郡高浜町に生まれる。中学を卒業後、漁業に従事。独学で絵を学ぶ。1961年旺玄会展で「鮟鱇」入選。1969年示現会展で「たこつぼ」入選。現在も現役の漁師で、漁仕事が終わった午後、キャンバスに向かう。一貫して自らの生活の場である海と漁師と魚をテーマに描き続ける。著書に『若狭の漁師、四季の魚ぐらし』(草思社)がある。


(以下講演録その1)
本田: ただ今御紹介に預かりました、本田と申します。

プロフィールを紹介いただいている間に、なんだか逃げ出したい気分になってしまったのですが、私はそんな大した人間ではございません。そもそも木田金次郎美術館の10周年の記念に講演をさせていただくような資格などあるわけもないのですが、渡辺さんや貝井さんとのご縁もありまして、力量不足とは思いましたけれども、やむなくお引き受け致しましたようなわけなのです。

最近は旅人間をやっておりまして、正直申しまして、こんなスーツ姿になるのは1年に1回あるかないかのことなのです。

実は、家内が北海道出身でして、そんな関係もございまして北海道はよく旅しております。雷電海岸を通るとか、ニセコ方面から山越えし岩内の夜景を見ながら市街を通過したようなことは何度もありますが、正直申し上げまして、岩内町そのものについてはあまり詳しくはありませんでした。木田金次郎画伯の伝記等は存じておりましたけれども、これまで実際に絵を拝見する機会もなかったのです。ですが、今回初めて作品を拝見しまして、そのすごさに衝撃を受けたところです。とくに、岩内大火の後の、魂の底から炎が吹き上げるような激しい筆遣いの絵には本当に感動しました。

また今日あわせて郷土館も拝見したのですが、岩内というところは非常に古い歴史があり、文化的にもとても優れた先人たちがおられたことを知り、深い感銘を受けました。北海道と申しますと、どうしても札幌とか小樽とかを先に想い浮かべてしまうのですが、実際には岩内というところが、それよりもずっと先に開けたのだということを知り、この町の文化度の高さをなるほどと納得したような次第でございます。

今回は渡辺さんや貝井さんの作品展に関係した話をということなので、とりあえずそういうテーマで話をさせていただこうと思いますが、まずは私自身の育ちについてすこしばかり述べさせていただくこうと存じます。

私が育ったのは鹿児島県の「甑島(こしきじま)」というところで、鹿児島県の天草諸島の南30km、薩摩半島の串木野という町の西方30㎞~40㎞ほどの海上に浮かぶ離島です。濁点を打ちますと、「乞食島」となってしまいまして(笑)、2つ点があるかないかで名前に大きな違いが生じる島でございます。

そういう島で私は幼少期から中学時代までを過ごしました。甑島からは、海の向こうに本土の山影が遠く霞んで見えるのです。ですが、40㎞の海というのは、当時の私にとっては太平洋みたいな存在でして、本土の山並みを眺めながら、あそこにはいったいなにがあるのだろうという想いを募らせておりました。しかし飛び立つことは出来ませんから、たとえていえば、ちょうど空母のカタパルトにつながれた飛行機みたいに飛行エネルギーだけが内にたまって――まあ今考えますとそれがかえってよかったのかもしれませんが――早く遠くに飛び立ちたい、あの山々の向こうにはいったい何があるのだろうかという思い、すなわち旅への憧れが心の中でどんどんと大きくなっていったのでした。

それと、先ほどもご紹介がありましたが、肉親縁が薄く、早くに両親をなくし、兄弟姉妹はもちろん、従兄弟いったようなものも皆無でした。最後の肉親だった母方の祖父母も他界して、高校へ進学したときには、全くの天涯孤独の身になってしまったのです。そういう育ちをしましたから、幼い頃から既に、先々一人ぼっちになってしまったらいったいどうやって生きたらよいのだろうというような不安と迷いがありました。当時の離島におきましては、小中学生にもなると大人並の集団作業に参加するのはごく普通のことでした。島育ちなわけですから、ここにいらっしゃる画家の貝井さんと同様に漁の真似事をしながら成長しましたようなわけで、中学生の頃には地元の漁師の船に乗せてもらい、イカ釣りなどの漁の手伝いに出掛けたりもしていました。農作業も一通りは経験しておりまして、下肥や堆肥の類を直接手で触るというようなことも当たり前のようにやってまいりました。米の作り方なども、苗代つくりから収穫までの一貫した体験を積んできていますから、その方面のことは結構詳しいんです。そのほか、草履や竹篭をなど編んだり、刃物を研いだり、魚を捌いたりするようなことも実生活に役立つ程度には身につけております。

ともかくも、私はそういう離島の自然と生活環境の中で育ちました。そして、そんな生活を送るなかで、私の旅への憧れはますます大きなものになっていったのでした。これは北海道に関係した話なのですが、私より1歳年上の定塚信夫さんという人がいま旭川に住んでいます。かつては旭川混声合唱団などを指導して海外ツアーなども何度となくおこない、北海道ではかなり有名になった方です(注:定塚さんはこの講演の一年ほどのちに他界)。その定塚さんがまだ小学校6年生のとき、僕は小学校5年だったわけですね。離島生活とあって、どんなにそうしたくても島から出ることはできませんから、せめて遠くの誰かと文通でもできないかと思い立ちました。今でさえもちゃんとした本屋などない島のことですから容易に雑誌など手に入らなかったのですが、たまたま誰かが持っていた『小学生の友』という雑誌を借りて読んでいましたら、当時北海道の南富良野村幾寅に住んでいた定塚信男さんが、読者欄に自分の学校の校歌を載せていたんですね。幾寅というところを学習用地図で探してみましたら、北海道のなかほどの空知郡南富良野村にそんなところが確かにありました。それ以上のことは何もわからなかったのですが、とにかく手紙を出してみようと思い、「北海道空知郡南富良野村幾寅・定塚信男様」宛てに拙い手紙を書き送りました。どうせ文通するのだったらなるべく遠くのほうがいいと思ったのも、定塚さんを相手に選んだ理由でした。

当時はまだ色気らしいものはほとんどありませんでした。もう少し高学年であったら女の子を相手にと思ったのかもしれませんけれども(笑)、とりあえず、男性の彼に手紙を書いたのです。しばらくはなんの返事もなかったのですが、諦めかけた頃になって、その定塚さんからすごい達筆の手紙が届いたのです。そしてそれから延々と北海道の彼と私の間で文通が続くとうになったのでした。あとでわかったのですが、定塚さんも色々と苦労をなさって育った方でした。

実を申しますと、定塚さんと初めて会ったのは、それから随分と経ってからのことでした。彼が28歳になったとき結婚するというので、その結婚式に参加するため私は初めて北海道にやってきました。そして彼との初対面の日を迎えたわけなのです。以前から私は、北海道を訪ねるときには、南富良野幾寅の土地を最初に踏もうと思っていたのです。のちに幾寅は浅田次郎作「鉄道員」の舞台「幌舞」のモデルになったのだそうですが、当時そんなことは想像もできませんでした。どうしても連絡船で青森から函館に渡りますから、函館駅のプラットホームや埠頭は踏んでおりますけれども、ともかく途中下車しないでそのまま札幌を通り抜け、ひたすら南富良野幾寅目指しました。そして、そこで初めて北海道の大地に第一歩を印したというわけなのです。

それ以来今日までずっと交流が続いておりまして、お互い遠く離れたところに住んでいた純真なかつての田舎の少年二人は、今ではどうしようもないほどにふてぶてしい悪い大人になってしまいました。まあ、そのようなこともありまして、北海道はさまざまな意味でも私にとって想い出深いところなのです。北海道に大変惹かれたせいなのでしょうか、これまた、たまたま北海道育ちである家内と出会いまして結婚し、現在に至っているような次第です。

自分の資質のひとつに放浪癖という厄介な習癖がございます。幼少年期に培われたものだと思うのですへれども……。あちらにいらっしゃる渡辺さんと貝井さんはご自分の生活の場所や地域にしっかりと根を張りおろし、そうした情況のもとで素晴らしい表現活動をなさっているわけですが、私の場合は全くの根無し草でありまして、今現在自分がいるところを思考や表現の原点にしようと心がけてきました。要するに旅人間なのです。

実は以前は大学で教鞭をとっておりました。専門は数学ですが、そのなかでもとくに位相幾何学や基礎論理学といった分野を専攻しておりました。ただ、大学に進み研究者となるまでにはさまざまな紆余曲折がありました。田舎育ちですから、なによりもまず、都会育ちの人々に対する大きなコンプレックスがありました。とくに中学時代の英語などの学力はひどいもので、島の中学では一応成績はよかったのですが、都市部の人たちに比べると劣等生もいいところだったんです。鹿児島市内の進学校を受験しても合格の見込みなどまったくたちませんし、それ以前の問題として、島には高校がありませんでしたから、進学するにはどうしても本土の高校へ入学するしかなかったんです。ですから、何かの間違いで万一高校に合格したとしても、家庭的な事情からして進学に必要な費用が工面できるはずもなく、自分としては、中学卒業後は関西方面に出て就職するつもりでした。

ところが、中学3年の二学期になった頃、ちょっとしたきっかけから、せめて高校入試だけでも受けてみたいという思いが募り、付け焼き刃の勉強を試みながらも、ともかくも高校を受験したのでした。奇跡的に合格したあとも、経済的にたいへんなので一時は進学を断念しようかと迷いもしたのですが、入学すればなんとかなるんだからという周囲の激励の声もあって、結果的には高校に進みました。高校に入ったのはいいのですけれど、英語などは目もあてられない有様でしたし、他の教科も都市部の連中にくらべて大幅に遅れていましたから、高校半ばまでは超低空飛行もいいところでした。それでも何とか高校時代の後半期を頑張り、曲がりなりにも東京の国立大学に進学するこができました。

田舎で育った者には、都会育ちの人がみんな天才に見えるころがあります。甑島の中学3年時に高校受験をしてみようと思い立った頃の記憶がいまも鮮明に私の脳裏に甦ってきます。当時は東京の都立高校、日比谷・新宿・西・戸山などが、名門校と謳われている時代でした。甑島などには受験問題集もなかったものですから、その時まではまだ生きていた祖父が東京の知人に依頼して、使い古しの都立高校の過去問題集を入手してくれたのです。当時の公立高校の受験教科は9教科でしたが、日比谷高校とか新宿高校に合格する人の最低基準点は900点満点中850点くらいで、一番易しい都立高校に合格するためであっても70点平均の630点くらいは必要だったんですね。それを田舎育ちの私なんかがやってみると、精々400~500点ぐらいしか取れないんですね。だから、東京というところは天才だけが住んでいるところだと、大真面目で思ったりもしたものです。

既に述べましたように、ほんとうのところ進学するつもりで高校を受験したのではなかったのです。いささか意地っ張りなところのある自分の気持ちの整理をつけたい、どうせ通えはしないけれど、とにかく高校入試というものがどういうものなのか体験してみたいと思って受けたのです。集団就職で大阪へ行き、働きながら夜学に通うつもりでいたのですが、神様の悪戯でともかくも鹿児島市内の進学校に合格してしまい、そこからいろいろと状況が変わって、結果的にその高校に進学することになってしまったのです。そして、いろいろな方々の目に見えない支えなどもあって、さらに大学へと進む道が開けたという次第だったのです。

皆さんの中にも私と同年代の方がいらっしゃるだろうと思いますが、私が大学生だった頃には、真面目に勉強することはダサくて格好が悪いことで、学生運動やっているほうがはるかに格好良いことだとする風潮や雰囲気のようなものがありました。私だって、もちろんベトナム戦争には反対でしたし、それなりには学生運動もやったんですよ。ただ自分で自分の生活費の面倒を見なければならなかったものですから、東京シェアリングという鉄板の切断を専門尾の仕事とする工場で夜警のアルバイトをやっていたんです。ただ、そのことが逆に幸いし、世の中の動きから少し離れたところから、学生運動のありかたなどの是非をじっと見つめる機会を得ることができるようにもなりました。冗談に「夜の工場長」などと称しながら夜警を務め、その場を通して多少とも真剣に勉強することが出来ましたので、数学の専門家を目指す研究の世界へと突っ込んでいくことが可能になりました。

(岩内地方文化センターにて 講演:本田成親)その2に続く

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