お二人は、渡辺さんのほうが山、貝井さんのほうが海と生活の場も描かれる世界も対照的なんですが、折角ですから、お二人との出会いの話を少々させていただこうと存じます。
実は、渡辺さんとの出会いのほうが先でございまして、その渡辺さんとの出会いを描いた作品『佐分利谷の奇遇』で私は奥の細道文学賞を受賞しました。同賞は埼玉県の草加市が主催する文学賞で、大岡信さん、尾形功さん、ドナルド・キーンさんのお三方が審査員でした。その作品は自由国民社刊の拙著『星闇の旅路』の中に収録されているのですが、同書は現在絶版になってしまっています。この『星闇の旅路』という本の装丁は渡辺さんが担当してくださいまして、月下の田沢湖畔で私がハーモニカを吹いているところが表紙の絵になっています。ハーモニカは自分で言うのも何ですがセミプロ級でありまして(笑)――ただ、ハーモニカというものは自分に聞かせる楽器なのではないかと思ったりもしております。なお、ちなみに述べておきますと、『佐分利谷の奇遇』だけは渡辺さんのご著書『山椒庵日記』の中にも収録されております。
余談になりますが、ハーモニカについてはちょっとした想い出があります。北海道を一人旅をしていたある月の美しい夜のこと、洞爺湖の湖畔でハーモニカを吹いていたんです。ふと気がついてみると、あちこちに男女のカップルがいて気持ちよさそうに私の奏でる曲を聞いてくれているんですね。ちょっとしたBGMというわけで、なんだか途中でやめるのが申し訳なくなってしまって、サービス精神を発揮しながら何曲も何曲も吹き続けたりしましたよ(笑)。
それからですね、東北の山旅をしていまして、たまたまある鄙(ひな)びた温泉宿に泊まったことがありました。そして夕食後にその宿の二階でハーモニカを吹いていたんです。僕はとくべつ軍歌が好きだというわけではないのですが、その時何気なく吹き始めたのが例の「異国の丘」という哀調に満ちた名曲だったんです。すると突然宿の主らしい人から声がかかりましてね、階下のお客様方がお客様を是非呼んでほしいとおっしゃっておられますので、お差し支えのないようけでしたらちょっと出向いてあげてくださいませんかと……。何事かと思ってその部屋に降りていってみますと、実はそこで戦友会が開かれていたんですね(笑)。そこの方々がどうしても「異国の丘」をはじめとする軍歌を吹いてほしいとおっしゃるので、断ることもできなくなり、知っているかぎりの軍歌を次々に吹き続けました。皆さん涙を流しながら私の演奏に合わせて熱唱してくれましてね。ハーモニカ冥利に尽きるといったところでしたね。
渡辺さんと初めて出合ったのは晩秋のことでした。前日は越前海岸で車中泊をしましてね。当日は小雨の降る寒い一日でした。若狭を通り抜け、舞鶴から天の橋立や伊根の舟屋などのある丹後半島方面に向かおうと思ったんです。ボロ車を運転して走っていました。いまの車もほどなく排ガス規制法にかかって廃車にならざるを得ないのですが、乗っていたのはそれよりもっと前の車でした。
大飯町の海岸沿いの道を走っていたら、突然、右手に「竹人形文楽の里 若州一滴文庫」という案内板が立っているのが目にとまりました。そんなところ、私はそれまで全然知らなかったんです。だからいったんはその分岐点を通り過ぎたんですよ。50mほどは……。いま振返ってみても不思議な気がするんですが、もともと縁とはそういうものなのかもしれませんが、その「竹人形文楽の里」という表示に妙に心が惹かれましてね。とりあえずそこからバックしまして、何だかよくわからないけど、ものは試しにどんなところか訪ねてみるか、という気分になったんですね。
走っていた国道筋からは結構奥に入ることになったんですが、ともかく一滴文庫を訪ねてみました。ところが、たまたまその日のその時間にはお客は私しかいなかったんですよ。一滴文庫へお出でになったことのある方はご存知かと思いますが、その敷地内の一角には水上勉先生の着想がもとになって制作された文楽用竹人形群が展示されている「竹人形館」があります。そこを一通り見学したあと二階へ上がってみると、そこには水上文学作品の装丁画の原画などが展示されてるコーナーがありまして、その中に『秋夜』という作品の装丁用原画があったんですよ。
私はたいして絵画に対する感性や鑑賞能力を持っているわけではないのですが、その原画を眺めているうちに、なんだかその迫力にとりつかれたような気分になってしまったんです。佐分利川の夜の光景を描いた絵でした。川があって、その周辺には草が生い茂っていて、朧な月が輝いている。その絵を凝視しているうちに、川の中や草叢の中から人間の霊や地の霊の呻き声や叫び声、さらには怨念のようなものが立ち昇っているような凄みを感じたわけなんです。ただ単に月夜の佐分利川の風景というだけでなくてですね……。原画の制作者名を見ると「渡辺淳」とありました。
まだ渡辺淳さんとお会いする前の話ですから、当初は作家の渡辺淳一の名と混同してしまいましてね、あれっ、あの作家、文章書くだけでなくこんな凄い絵を描いたりもするんだったっけなどと……(笑)。でも、しばらくするうちに、あの作家は「一」という文字が余分についてるから違うなと思いながら、見学を終えて一旦外に出たんです。そろそろ一滴文庫をあとにしようかなと思いつつ右手の方を見やったら、何やら煙が立ち昇っているんですよ。あれは何だろうとその煙のことが気になりましてね。なにせ私も田舎育ちなものですから、煙を見るとなんだか懐かしくなってくるんです。もしも田舎育ちでなかったら、多分渡辺さんとのご縁が生じることはなかったでしょうね。火とか煙とかいったものが日常的に存在する環境下で育ったものですから、ついふらふらとそのほうに心惹かれて、煙の立ち昇る小屋の前へと歩いていたんですよ。
そこでは、がっちりした身体つきの人が、なにやらをグツグツ煮ようとしているところでした。何だろうと思って近づいて見ると、竹紙の素材となる竹の皮を煮ようとしているところのようでした。そこでこちらからそれとなく話しかけてみましたところ、その人物はすぐ話に乗ってきてくれまして……。でもまだその時には、その方が渡辺淳さんだとはわかりませんでした。いろいろお話を伺ううちに、その中で以前は炭焼きをなさっていたとの話なども出たりしました。展示されていた油絵や装丁画の原画の中に炭焼きの風景を描いた絵もあったので、その時になってはじめて、もしかしたらと思ったわけなのです。その人が渡辺淳さんだとわかってこちらはただただ驚いたのですが、そんな私を渡辺さんはもう一度竹人形館へと案内してくださいました。そして、竹人形の詳しい作り方とか、竹人形の指の数は五本指ではなく、わざわざ四本指にしてあるのだとういうことなどを説明してくださったのです。五本指だと竹人形文楽をやる際などに光を当てると、その影が六本にも七本にも見えて不気味に感じられたりするからだも伺ったりしました。
そうこうするうちに、「今晩これからどこまで行くのか?」という話になりまして、私のほうは「一応これから丹後半島あたりまで行くつもりです」と答えました。すると、渡辺さんは、それなら今晩うちに泊まっていかないかと誘いかけてくださったんです。あとになってからよくよく事情を伺いますと、たまたま雨が降っていたのでバイクで帰るのが面倒くさいということもあったとかで……(笑)、どうせなら家まで僕の車に乗っけてもらえば好都合だとという計算なども半分あってのことだったらしいのですが……(笑)。まあ、いずれにしろ、変な奴だけど、話すと面白そうだなという思いが渡辺さんの脳裏をよぎったようなのです。
そんな訳で、結局、渡辺さんのお宅に伺うことになったのです。その折に私が伺いました渡辺さんのアトリエ「山椒庵」は、正真正銘のボロ屋でした(笑)。ですが、そこはただのボロ屋であるばかりではなく、これほど心の和むところは他にないと思われるほとの温かさに満ちたボロ屋でした。中に入りますと、奥の方に掛かっている「うつむく」という題の一枚の絵……、二十歳前のご自分の自画像だったようなんですが、とにかく一人の若者が頭を抱えて何事かに苦悶している様子を描いた絵が目に飛び込んできたのです。素人ながらも、一目見てこれは凄い絵だなと思いましたね。
一晩いろいろと語り明かしたのですが、最初は「蛍袋」の話題になりましてね。僕が旅先などで蛍を捕らえては蛍袋の花の中に入れてその美しい輝きを楽しんだりすることがあると伝えると、渡辺さんのほうもよく同じことをするのだと話してくださいました。二人の間で話が合い、ますます話が盛り上がってそれはもう……。奥様のほうはアトリエ「山椒庵」からちょっと離れたところにあるご自宅のほうにお住まいで、渡辺さんは通常山椒庵のほうに一人でいらっしゃることが多かったようなんですね。ほんとうは多分その夜ご家族で食べる予定でおられたはずの松茸御飯を突然割り込んだ私がちゃっかりご馳走になる事態になっちゃいましてね。それからもいろいろと話が弾みに弾みました。当時は猫ちゃんが二匹ほどいましてね。名前は「オイオイ」と「コラコラ」っていったんですよ(笑)。
皆さんお話しになるとよくわかるのですが、渡辺さんという方はとてもユーモアのある面白い方なんです。ただ、誤解してはいけないのは、渡辺さんのそのユーモアというのは、もの凄い苦労を超えてある種の達観の域に至った人間のみが発することができるユーモアでありウィットであると思うんですね。また、だからこそ、渡辺流自然体が生み出すジョークは素晴らしいわけなんですよね。ところがそれをよく誤解する人がいるんです。ある時に渡辺さんを紹介した朝日新聞の記者なんかは、「渡辺さんは見るからに暗い感じの人かと思ったけど、直に本人に会ったらすごく明るい人なんで、本田さんが『佐分利谷の奇遇』書いた渡辺さんはかなり違うんじゃないか」というんですね。私の「佐分利川の奇遇」の中には結構冗談も書いてありまして、よく読んでいただくとそうでないことがわかるんですがね……。いずれにしましても、まあそのくらいユーモアのある方でもあるんです。
長年にわたって炭焼夫や請負郵便配達夫として働きながら、若狭の自然やそこで生活する人々をじっと見据えながら過ごしてこられた。真の生活者としてのご苦労あってこそのユーモアでありウイットであり、さらには味わい深い生活感の表出であると思うんです。ですから、絵そのものからもそういったものが自然に流れ出してきてもいます。
私は口が悪いですから、いまの渡辺さんの山椒庵を「山椒御殿」だと呼んでいるんです。実際、以前の山椒庵に比べると御殿そのものですからね。以前の山椒庵の中は信じられないような状況になっていましたよ。もの凄い絵が雨漏りのひどい部屋の中に平然と置いてあるんですよ。その絵で猫が爪を研いではいるわ、カビが生えてきてはいるわ……、そんな状態の中にとてつもなく貴重な絵が、それも大量に重ね置かれていたんですからね。ご本人はケロッとして、「絵なんて僕の日記で、カビが生えてきたら生えてきたでその絵の運命だから、まあ仕方がないですね……」なんていうようなことを平然と口走っておられたんですね。ほんとうにそういうところがおありの方で……。言葉では言い尽くせないような長い長いご苦労と苦悩の数々が時の流れの中で練磨され浄化される過程を経、その末にある種の達観の域に到達した人だけがはじめて語りえる言葉だと……、絵がまったくの素人の私にもそのことだけはすぐにわかって、つくづく凄い人だなと思ったわけなのです。
実に淡々としてらっしゃいまして、いわゆる名誉欲とかいった類のものはまったくお持ちでないですよね。そんなわけですから大都会の東京なんかで個展をやるのは嫌だと……(笑)。それが、ひょんなことから是非とも東京で渡辺さんの個展を催したいという話が持ち上がりまして、私が渡辺さんの説得役に回わることになりました。そして、銀座の大黒屋画廊で初めて渡辺さんの東京での個展が実現したんです。実は木田金次郎美術館と渡辺さんとのご縁が生じたのも、その個展開催が契機となったわけなのですが……。
その個展は大盛況でした。普通は銀座で個展をやってもあんなに人が入ることはないのですが、ほんとうに沢山の方々がいらしてくださいました。しかも皆さん衝撃を受けて、凄い凄いと感嘆の声を上げておられました。たまたまその時に、岩内の美術館関係者の方々がお見えになったんですね。そしてその後に渡辺さんとこちらの美術館との関係もできてきたという経緯があったんです。
そういうわけで、私は渡辺さんにはどんなことでも図々しく言えるくらいに親しくなってしまったものですから、二人で「奥の脇道放浪の旅」と称する、10日間ほどの貧乏旅行をしたりもしました。車中で寝泊りしまして、10日間の旅に二人でかけたお金が5万円とちょっと・……。もちろん食費とかガソリン代とかを全部を含んでですよ。途中でワカメなどの海藻をとって食べたり、山菜とって食べたりして極力経費を節約しましたが、ある意味でとても充実した10日間の旅でした。何に一番お金がかかったとお思いになりますか?……実は風呂代なんです(笑)。あれがなきゃもっと安かったと思いますよ。一日の旅の疲れを癒すべく日帰り温泉に入ったりしますと、少なくとも二人で1000円ほどはかかりますからね。とにかく、渡辺さんと私とはそういう旅をしたりする仲なんです。渡辺さんがこちらの美術館とご縁がおできになったおかげで、今回私もまたこうしてここに伺うことができるようになった次第なのです。
(岩内地方文化センターにて 講演:本田成親)その6に続く