続マセマティック放浪記

25. おふくろさん騒動終結を喜ぶ

以前に「おふくろさん騒動」について書いたことがある(「マセマティック放浪記」バックナンバーの「おふくろさん余談」(2007年3月21日)参照)。その折にも述べたように、森進一さんの「おふくろさん」は、私自身が育った鹿児島県甑島の出身だ。現在では薩摩川内市に属している甑島にはかつて四つの村があり、森進一さんの母堂はその中のひとつ下甑村の手打という集落の出身だった。ちなみに述べておくと、私のほうは上甑島にあった里村というところで育った。

旧下甑村手打(現薩摩川内市下甑町手打)の地には、「おふくろさん」の曲を記念した歌碑が建っている。一九九九年に行われたこの歌碑の序幕式には作詞家の故川内康範さんも列席した。この記念歌碑前の指定の位置に立つと、自動的に森進一さんの歌う「おふくろさん」の曲が流れ出す仕掛けになっているのだが、川内康範さんと森進一さんとの間に「おふくろさん騒動」が持ち上がって以来というもの、地元の関係者にはひとかたならぬ戸惑いがあったようだ。

幸いなことに、このほど川内さんの遺族の方々と森さんとの間で和解がなされ、森さんは再度「おふくろさん」の曲を歌えるようになったというから、下甑島手打の人々もまずはほっとしていることだろう。この時期に両者の間で和解が成立した背景には、様々な利害を抱えた芸能界に働く蔭の力があったとも囁かれているが、もともと芸能界とはそのようなところだから、その真偽のほどをこれ以上詮索するのは野暮というものだろう。

序幕式の際、川内康範、森進一の両氏は「おふくろさん」の歌碑の前で固い握手を交わしもしたようだから、それよりずっと以前に問題のイントロ部分の挿入がなされていたことを思うと、その後の展開にはいささか腑に落ちないところもある。

作詞家の川内康範さんの想い描いた「おふくろさん像」と歌手の森進一さんの歌い偲ぶ「おふくろさん像」とは、もともと相当異なるものだったようだ。川内さんの「おふくろさん像」が「衆生救済の慈悲の微笑みを湛えた菩薩像」に近いものだったとすれば、いっぽうの森さんのそれは「無償の愛をひたすら自分一人のためだけに注ぎ込んでくれる究極の慈母像」だったのであろう。

しかしながら、両氏それぞれの「おふくろさん像」は作曲家猪俣公章さんの生み出した感動的なメロディーが介在することによって見事に融和し、国民的名曲「おふくろさん」となって一世を風靡した。不幸な死を遂げた森さんの母堂の出身地に建立された歌碑の序幕式に川内さんが出席したのも、森さんの「おふくろさん像」をそれなりに容認するとともに、「おふくろさん」が名曲として世に知られることになった功績のかなりの部分が森さんの歌唱力によるものだと認識していたからであろう。

突如勃発した「おふくろさん騒動」に関しては、川内さん、森さんの双方にそれぞれ言い分があったことだろう。だが、「おふくろさん」はすでに、作詞家、作曲家、さらには歌手の手を離れ、国民的な歌謡曲となっている。優れた文学作品が作家の手を離れ独り歩きをするようになると誰にもそれを止めることができないように、優れた歌謡曲というものも作詞家、作曲家、歌手の手を離れて独り歩きするようになると、もう誰にもそれを止められなくなる。そして、その歌謡曲は、最後には、作詞家のものでも、作曲家のもでも、歌手のものでもなくなってしまうのだ。

「世の中の ためになれよと 教えてくれた・・・・・」という「おふくろさん」の歌詞を無にしないためにも、この度の和解を機に、歌手の森さんにはいっそうの精進を期待したい。そうすれば、生前、「惜、無上道」、すなわち、「この上なくすぐれた道を歩むことをなによりも尊重し大切にしたい」という言葉を信条としておられたという川内康範さんも、きっと、天上で、「森……、いま思うと、俺もまあ、ちょっとばかり頑固過ぎたけど、お前が謙虚になり、心底世の人々のためになるようにとの思いを込め『おふくろさん』を絶唱するなら、もう過去のことは水に流してやるよ」と赦しの呟きを発してくれるに違いない。

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