続マセマティック放浪記

46. 絵画展「バルビゾンからの贈りもの」――秀逸な作品群と見事な解説文に感銘

いま東京府中市の市立美術館で「至高なる風景の輝き――バルビゾンからの贈りもの」と題する絵画展が開催されている。美術館開設十周年を記念して開かれているものだが、想像していた以上に素晴らしい絵画展になっている。私は地元の府中市に住んでいるので、日曜日の昼下がり、散歩をかねて同美術館の会場に足を運んだ。そして、この絵画展の充実ぶりにあらためて目を見張った。都心の著名な美術館と違って来館者もそう多くないので、ゆったりとした気分で、それも至近距離で美術史上高名な画家たちの作品120点ほどをこころゆくまで鑑賞することができる。開催期間が終わる11月23日までにはまだ時間があるので、多摩周辺の方々ばかりでなく、東京周辺にお住まいの方々にもぜひ観覧をお勧めしたい。

バルビゾン派から印象派への流れに沿った絶妙な展示

展示会場の作品群は四部に大別されている。「ドラマティックバルビゾン」という最初のコーナーでは、バルビゾン派に影響を与えたターナーの「嵐の近づく海景」にはじまり、ルソーの「森の大樹」や「夕暮れのバルビゾン村」、コローの「夜明け」、クールベの「女羊番、サントンジュ地方の風景」や「雪の中を駆ける鹿」、ディアズの「水浴をする女達」、ミレーの「乳しぼりの女」や「鵞鳥番の少女」、シェニョーの「バルビゾン村への帰り道」、ガシの「水辺の鴨」など、35点のバルビゾン派画家たちの作品を観ることができる。このコーナーに立てば、風光明媚な名所の単なる写実に過ぎなかった風景画を、日々の生活者の悲喜交々な心象を秘め湛える主観的な風景画、さらには画家の生命そのものを埋め込んだ感動的な叙情風景画へと昇華させたバルビゾン派画家たちの偉大な足跡を偲ぶことができるのだ。バルビゾン派の画家たちのすべての作品が印象派へと繋がったわけではないのだが、バルビゾン派の流れを汲み、それを新たな表現法へと発展させたのちの画家たちが印象派と呼ばれるようになった経緯は、この絵画展全体を通して十分に理解できる。

「田園への祈り――バルビゾン派と日本風景画の胎動」という第二のコーナーには、バルビゾン派の影響を受けた明治期の日本の画家たちの作品が展示されている。高橋由一の極めて精緻な筆致の「江ノ島図」や「墨水桜花輝燿の図」、松本民治のなんとも幻想的な「東都今戸橋乃夜景」、本多錦吉郎の神秘的なまでに深閑とした心象風景画「中禅寺湖夜景」などに始まる37点の作品群だ。それら一群の作品には既に失われて久しい日本の風景や事物が情緒豊かに描かれており、その前に立つ者の胸に不思議な感動を呼び起こしてくれる。その中にあって意外なのは、写実画のきわみともいうべき「鮭」で知られる高橋由一の作品だ。前述した「江ノ島図」などと共に今回展示されている「芝浦夕陽」という作品などは、詩情溢れるバルビゾン派風の風景画で、写実画家としての顔ばかりでなく、心象風景画家としての顔も合わせ持っていたことを物語るもので、その才能には驚嘆させられるばかりである。また、和田英作によるミレーの「落穂拾い」の模写などは実物そのままの出来栄えで、彼の他の展示作品「渡頭の夕暮」などと比較してみると、随所にミレーの色使いの影響などが感じられ実に興味深い。

第三のコーナーは「人と風景――その光と彩りの風景」である。全部で14点の展示作品の冒頭を飾っているのは、ミレーの「羊毛を紡ぐ少女」とシェニョーの「シコレ爺さん」の2作品である。その2点は、暗く沈んだ色調の風景画が特徴だったバルビゾン派の絵画に明るい色彩や明暗・濃淡の明瞭な対比技法が導入され、さらには「風景の中の人物」から「人物の生み出す風景」へと大きく画風が転じていく過程を象徴していると言ってよい。鹿子木孟郎が学んだローランスの筆になる人物画「ピエトロ」には筆舌し難い存在感があるし、コランの習作裸体画「フロレアル(花月)」中の女性が放つ蠱惑的な姿態とその肌の色とは官能美の極致と言ってもよいだろう。この作品に魅了された黒田清輝がコランに師事する気になったというのも頷ける。笠木治郎吉のどこかユーモラスな人物画、「帰猟」や「帰農」も、構図、描写、心象のいずれをとっても素晴らしい。色こそ暗いが、中村不折の「八重の潮路」の中で思いに耽る裸体の男も、青木繁と福田たねの伝説的合作「逝く春」中の女性(福田たね自身がモデル)もリアルな人物像となって観る者の胸に迫ってくる。

最後の「バルビゾンからの贈りもの――光と彩りの結実」のコーナーには、ルノワールの「森の小径」、モネの「プールヴィルの断崖」、ピサロの「ロンドン・ハイドパーク」など印象派の巨匠の作品をはじめとする31点の作品が展示されている。バルビンゾン派の画法をベースにして生まれた印象派の絵の特徴は、時々刻々と変化を遂げる光の煌きや陰翳の妙を心の眼で瞬時に捉え、それを完全な心象風景として描き上げたことである。印象派と呼ばれる所以は、そのような主観性を重要視した対象物の描画法にあると言ってよい。もちろん、このコーナーには、モネやマチスと親交を持ったという正宗得三郎の「新緑のパリ」、ルノワールに師事した梅原龍三郎の「霧島」、そしてセザンヌに深く傾倒した安井曽太郎の「宇治黄檗風景」、正宗得三郎らの画風に心酔しながらも夭折した村山槐多の「種まく人」など、印象派の影響を受けた数々の日本人画家たちの優れた作品も展示されている。そして、最後のコーナーをさりげなく飾るそれら一連の作品群は、まさに「バルビゾンからの贈りもの」と呼ぶにふさわしい。

感動的な解説文の執筆者は誰?

ところで、この絵画展を一段と見ごたえのあるものにしているのが、それぞれの展示作品に添えられている解説文である。会場を訪れ、絵を観ながらその下に配されている解説文に目を通し始めた私は、たちまちその文章に引き込まれた。美術館などで通常見かける解説文とはまるで違う、生き生きとした実に素晴らしい文章だったからである。しかも、どの作品に付されている解説文も、いずれ劣らぬ名文ばかりだった。個々の絵画の描画手法やその制作の背景、さらには美術史的観点に通じ、それらの知識をもとにして通り一遍の解説文を書ける人ならいくらでもいる。だが、今回目にしたような水準の文章となると、そうそう誰にでも書けるものではない。私も物書きの端くれなので、そこそこ文章の評価能力は具えているつもりであり、それゆえ、これはけっしていい加減な賛辞ではない。

この解説文の筆者は、おそらく、生活体験や自然体験もきわめて豊かで、人一倍想像力にも富んだ人なのだろう。また、美術の知識や批評眼ばかりでなく、相当な文学的素養を持った人でもあるに違いない。そうでなければ、個々の作品に描かれた世界に時空を超えて入り込み、その中の人物になりきったような視点で、あるいはまた画家その人になりきったような視座の下に立って、これほど魅力的な解説文を書けなどするはずがないからだ。この種の解説文の手本にもなる文章だと言っても過言ではないし、とくに今回の絵画展のような心象風景をテーマにした作品展にあっては、その存在のもつ力は甚だ大きい。
この解説文がとくに優れているのは、個々の作品と見比べながらそれら読み進んでいくと、素人の身であっても自然と絵を観る目が深まり、下手な美術教育などを受けるよりもはるかに学ぶところが多いからだ。いささか大仰な言い方をすれば、その解説文を読みながら展示されている117点の絵画を観ること自体が優れた美術教育にもなっているのだ。実際、私自身も教えられるところや、なるほどと共感するところが多かった。
その筆者に関心を持った私は、それが誰なのかを会場の係員に訊ねてみた。その結果、それは、志賀秀孝さんというこの美術館の学芸員であることが判明した。優れた学芸員は美術館の宝にほかならないから、このような有能な学芸員がいることに我々市民は感謝するべきだと思う。また、府中市美術館当局も、さらにはそれを管轄する府中市も十分にそのことを自覚し、このような学芸員を厚遇してほしいと考える。
 東京近辺にお住まいで、まだ今回の絵画展にいらしてない方があったら、騙されたつもりで是非一度足を運んでもらいたいものである。

美術館建設裏話

余談になるが、この美術館の建設に関してはちょっとした思い出がある。美術館建設の計画当初は、市民の間に建設反対の声も少なくなくなかった。「たいした収蔵展示品も保持しないまま東京郊外の地に新美術館を建てたところで集客力もしれているから、これは典型的な箱物行政だ、無用な美術館を造るくらいなら、不足している特別老人養護ホーム建設などにその費用を回すべきだ」というのが、建設に反対する人々の主な主張でもあった。

現在は美術館に付属する牛島憲之記念館のほうに展示されている多数の作品群が牛島家から市に寄贈されることが決まり、美術館建設に弾みがつきはじめた時も、市の美術館なのに館名は「牛島憲之記念館」という個人名を冠したものになるという話が広がり、朝日新聞の多摩版でもそのことが報道されもした。その記事には、館名に個人名をつけることに反対する市民集会が開かれるとも書かれていた。その報道が事実だとすれば、それまで耳にしていたのとは随分と話が違うと思ったので、取り敢えずその集会に参加してみることにした。
ところが、呆れたことに、一部市議も出席していたその集会の実態は、新聞で報道されていたものとは異なり、「美術館建設反対集会」そのものであったばかりか、非現実的で過激な主張を煽り立てる某野党系の政治的な集会に近いものであることも判明した。美術館本体の館名が個人名を冠したものになるというのも、事実ではないこともわかってきた。しかも、その場においては、私が個人的に親しく、その胸の内をよく知る良識的な市会議員の意見なども、まるで異なるものにねじ曲げられ、建設絶対反対であるかのように伝えられたりもした。私をはじめとする違和感を覚えた三人ほどの参加者が、会議の趣旨が,異なるのではないかと発言すると、見るからに柄の悪そうなリーダー風の男が怒りをあらわにし、「美術館なんていらないんだ!……特養建設のほうがずっと大事なんだよ!……あんたら何も分からんいい気な住民のくせに余計なことを言うな!」と毒づいた。なにが市民集会だと思い、バカバカしくなった我々数人はすぐに席を立ち、会場をあとにした。その集会に参加していた多少面識のある中年の女性が慌てて私を追いかけてきて、くだんの男に代わってその発言を詫びたが、むろん、もう戻る気などなかった。

実を言うと、美術館建設計画が進行中の段階で、私は、前述の市会議員や当時の市長から美術館建設に対する個人的な意見を求められていた。私は美術の専門家ではないが、当時、縁あって東京芸術大学に講義に出向いていたことや、同大学の教授などを何度か府中市生涯学習センターでの講座の講師に呼んだりしていたこともあったので、先方はそれとなく私に第三者としての意見を求めてきたらしかった。その折私が聞いた話によると、美術館建設予定敷地は所有者の東京都から無償供与されるので、市側は美術館本体を建設すればよく、その分、建設費は安くてすむということだった。また、東京都側は都所有の公園の一角なので一般市民向けの文化施設の建設なら都は敷地を無償提供してくれるが、そうでなければ提供してもらえないかもしれないとのことでもあった。さらに、府中市には平和島競艇場などからの収益があるが、その使い道にはさまざまな行政上や会計制度上の法的制約があって特別養護老人ホーム建設などにはまわせない、しかし、美術館建設費に用いるなら問題ない、との話でもあった。

競艇からの収益で変な箱物を造られるくらいなら美術館のほうがずっとましだし、多摩地域の中核をなす府中市としてその文化水準を高めるつもりなら、しっかりした理念に基づく美術館もあっていい。そう考えた私が、率直にその思いを伝えると、市長や市議のほうも、自分たちもそう考えるので、十分に準備を整えたうえで慎重に美術館建設を進めたいとの胸の内を明かしてくれた。その際、何か助言はあるかとも訊ねられたので、簡単に私見を述べさせてもらいもした。

どうせ造るなら、五年や六年の短い期間でその存在意義を問われるようなものではなく、五十年、百年という長期的な展望に立ち徐々にその風格を整えていくようなものにしてほしい。一時的な風潮に左右されないしっかりした運営方針と芸術に対する高邁かつ揺るぎない理念がありさえすれば、観客も次第に増えてくるし、将来的には貴重な作品などを寄贈する人も現われてくるに違いない。そのための絶対条件として常に忘れてならないのは、優れた学芸員をなるべく多く雇うことだと思う。学芸員が優秀かどうかで美術館の将来は大きく左右されるから、有能な人材を確保するのに費用を惜しんではならないだろう。

美術に関してはたいした学識も持ち合わせない私だったが、その時は取り敢えずそんなことを進言した。私のささやかな意見などは何の役にも立たなかっただろうが、ともかくも、それからほどなく立派な府中市立美術館が完成し、そこを起点として堅実でしかも深みのある芸術活動が行われるようになってきた。市民の一人としても大変喜ばしいかぎりである。

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