続マセマティック放浪記

27. 年の始めに思うこと

一大不況のもとで2009年の年始を迎えることになった。日本人ノーベル賞受賞者輩出のニュースで国中が沸いたのも束の間、その直後に勃発した衝撃的な経済混乱に瀕する事態とあって、新年といえども国民の気分は甚だ重たい。だが、衣食住すべてにおいてひどく困窮し、国民の誰もが悲惨そのものの生活を送っていた終戦前後に比べればなおはるかにましな状況なのだから、ここはお互い助け合いながらじっと耐え忍んでいくしかない。苦境に立ち向かうのは辛いことだが、かならずしも悪いことばかりではない。いざとなると、平時には考えもしなかったいろいろな生きる知恵も湧いてくるし、人々の連帯感も驚くほどに強まってくるものだからだ。かねて気づかずにいたさまざまな無駄も見えてくるし、美食を慎めば健康にとってもかえってよい。食糧難に喘いでいた終戦直後の時代、一粒のキャラメルを四等分して食べるという、哀しい中にもどこかほのぼのとした感ある想い出を持つ身としては、人々が内に秘める本質的な叡智や、それに裏付けられたしたたかな強さといったものが発露されることを期待してやまない。

いったん獲得したものを手放したり、折角到達した生活レベルを切り下げたり元に戻したりすることは人間にとってとても難しい。たとえば一つの企業において、不況時には経営者や管理職層の所得も最下層の労働者の所得も一律の割合で切り下げられるのならまだ救われもするのだが、上層下層を問わず従業員のすべてが極力現状維持を図ろうとするから、結局、非正規従業員に代表される最も弱い立場の労働者の整理だけが次々に進むことになる。企業間の力関係もまたほぼ同じ構図にあるから、下層に位置する下請け企業などはどんどん倒産していく。諸企業を蔭にあってコントロールする銀行等の金融業者は不良債権による自己破算を怖れて金融引き締めに走り、それを緩和しようとして各国政府や国営銀行が特別な金融緩策を発動すると、その余波を被って弱小国の窮状は国家破綻のレベルに到り、詰まるところは列強国も窮乏の極みへと追い込まれる。厄介このうえない話ではあるが、そのような現実は、もともと資本主義経済というもののもつ構造的な宿命にほかならない。

ただ、だからといって社会主義や共産主義にみるような統制経済が好ましいかというと、そううまくはいかないのも、これまた周知の事実である。「分配の平等性」というそのお題目の聞こえはいいが、自己存在の顕示や個人的欲望の追求を活力源とする人間という動物は、社会構成員個々の能力如何にかかわらず平等な分配がなされるとなると、たちまち労働意欲を失い、他者、なかでも相対的な弱者に対する不平不満一色に染まる。また、「平等な分配」を行う仕事に直接携わるごく少数の人間は、権力と利権を一手に握り、封建国家の国王や皇帝顔負けの有り様で国家に君臨するようになってしまう。ジョージ・オーウェルの名作「アニマル・ファーム」の最終章に見るように、資本主義の頂点に立つ者も、社会主義や共産主義の頂点に立つ者も、見かけ上の体制は違うにしろ、その本質に変わりはない。だからこそ、両者は苦しむ民衆の蔭にあってふてぶてしい笑みを浮かべながら互いに握手ができるのだ。

人間社会にとっては不可避とも言える当今の一大不況の中で、ともかくも我々はしたたかに生き抜いていかねばならない。極端な資本主義と極端な社会主義・共産主義との間にあって、その時々の均衡点をなんとか探り求めながら、日々を凌いでいくしかない。幸いなことに、大不況とはいっても、基本食料品などのような本質的生活必需品の生産量が絶対的に落ち込んでしまったわけではない。だから、すべての階層の人々がそれぞれに贅を慎みながら、相互扶助の精神をもって連帯することができるなら、餓死したり、極寒の野で凍死したりすることはないはずである。生存に必要な最小かつ最低限の衣食住があれば大丈夫だと覚悟を決め込み、開き直って冷静に事態を見据える自若な対応こそが肝要なのだ。無責任なメディアの報道に踊らされ、度を超えて不安な心理に陥ることは事態を悪くするだけだ。世界の平均的水準からすると十分に恵まれているはずの我が国の中流層以上の人々までが、まるで明日はないかのように右往左往する様はどう見ても好ましいことではない。

このような時世には、富裕層に属する人々はむろん、平均的な所得層の人々もその所得や資産のほんの一部でいいから、いや、百円や二百円くらいのごく僅かな金額でもかまわないから、困窮する人々のために分かち与えることを考えて欲しい。その程度の金額を捻出するためには一度の食費をいくらか抑えるだけで済むだろう。それだけの助け合いができさえすれば、少なくともこの国の人々だけは皆揃って不況の嵐を耐え抜くことができる。たとえ都市部であったとしても全体的にみるならば住居だって余っているはずなのだが、こういう時に余剰住居が活かされないのは、資本主義万能の風潮に染まりきったその所有者らが利益追求のみに血眼になり、助け合いの精神を発揮することを忘れてしまっているからだ。庶民の大半が借家の長屋住まいをしていた江戸時代の大家の心意気に、この国の富裕層の人々はいくらかでも学ぶべきではないだろうか。

身の回りにある諸々の生活必需品を眺めやる時に、自分にその製造法がはっきりとわかるものがいったいどれだけあるだろう。各種食料品はむろんのこと、紙製品、プラスティック製品、木製品、金属製品、陶器類――どれひとつとってみても、その製法を熟知し、それを自力で作れるようなものは皆無に近い。でも、我々の社会のどこかには、薄給と悪労働環境に耐えながら、黙々としてそれら生活必需品を生産する地味で労多き作業に従事する人々がいるわけだ。不況の嵐が吹き荒れる今、その猛威に直接曝されて日々の生活に苦しんでいるのは、隠れたところで必需品の生産に従事してきたそのような人々なのである。

政治家や官僚、企業経営者をはじめとする我がの国の指導者らがそのような人々の姿に目を背け、自らの保身のみに走るなら、この国に未来はないだろうし、詰まるところ彼らにもまた破滅が及ぶだけのことだろう。たとえその理念の実現が容易ではないにしても、総理や閣僚、さらには諸政治家の中に、「私も率先して自らを強く律し、倹約と分かち合いの精神に徹するから、国民の皆さんもしばし倹約を心がけ、弱い立場の人々への思いやりをもつようにして欲しい。それによって共にこの危機を乗り切ることにしよう」といった趣旨の演説を、力強く説得力をもって行える者が一人や二人いてもよさそうなものだとは思うのだが……。ただまあ、二世、三世のお坊ちゃんやお嬢ちゃんだらけの政治家にそれほどの度量の持ち主はいないのだろうから、結局、そんなこと大真面目に求める私のほうがいまや「世間知らずの人間」ということになるのだろう。

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