司会: 本田先生、ありがとうございました。今ここに、展覧会を開催中のお二方もいらっしゃいますので、この機会に渡辺先生、貝井先生にも、岩内にいらしての印象やご自身の絵の世界などについてお話を伺いたいと思います。皆さんから、先生方に何か尋ねてみたいという方はいらっしゃいませんか?
聴衆Aさん:自分は写真が好きで、特に自然のものが好きなんですが、いっぽうで自然に対比する文化という言葉を思い浮かべ、文化とは何かということを考えてたりもします。英語に直したら自然は「nature」で、文化にあたる言葉は「art」とか「culture」ですよね。でも「art」という言葉には「人工」という意味が含まれますよね。どうも、欧米の国々の「アート」という言葉と日本の「文化」という言葉はそのままぴったりとは符合していないと思うんです。そもそも「文化」という言葉が生まれたのは明治時代で、「culture」を「文明開化」と翻訳し、さらにそれを短縮してできたものだとも言われていますが、「文化」というものを現代的な観点から定義しなおすとすれば、先生方はどんな風になるとお考えでしょうか?
本田:なかなかこれは難しいご質問ですが(笑)。そうですね、逆に私たちのほうが、どうお考えなのかお尋ねしたいところですね。
観客Aさん:私は、文化とは、その各地域において人間が生活する上で絶対必要なものとして伝え残されてきたもの、長い生活の歴史の中ですぐれた技術や風俗習慣として各地域に残ったものだと考えているんです。
本田:なるほど。
渡辺:私は子供の時分からずっと百姓などもやってきました。ここ2~3年は腰痛で、百姓仕事も若い人に任せるようにしていますけれども・・・・・・。文化とは何かという問題ですが、私の場合は、百姓家の垣根に鍬がちょこんと立て掛けてある光景・・・・・・、そういたものが文化だと考えています。漁師の貝井君の場合なら、海に行ってワカメを獲ったり、タコ壷を引き上げたりすることがほかならぬ文化だと考えることでしょう。
本田:もともと「culture」は「cultivate=耕す」から派生したものですから、本当は生活に根ざしたものですよね。そういう意味ではおっしゃられるとおりだと思いますが。
渡辺:私には「これが文化だ」なんて一言で団断定するようなおこがましい真似はできません。私の場合は、生きていく中で、言葉や文字で何かを表現するかわりに絵を描き続けてきただけのことですから、偉そうなことは言えません。貝井君もその点では変わりがないと思うのですが・・・・・・。まあ、敢えて言わせてもらうなら、さっきも述べましたように、文化とは家の垣根に鍬や草刈り鎌が掛けてあるような情景を意味するんじゃないかと。
貝井:私は漁師ですから、本田先生のようにうまくお話しすることなどできません。ただ、私は、無我夢中に働いて、絵を描いていく・・・・・・、自分の好きなものを描き続けていく・・・・・・、そういうこともまた文化じゃないかと思います。難しいことはわかりませんが。
それと、この岩内町との関わりなんですが、若い頃、私は、サバを獲る巻き網船に乗り、若狭での漁を経て、能登から佐渡沖、さらにはこの北海道までサバを追いかけてやって来ました。いったん岩内沖で錨をおろし、翌日は小樽まで北上しそこを基地にして漁を始めたんですわ。巻き網船の船団を組んでいたんですが、私の乗る佐川丸には32人が乗り組んでいました。小樽から留萌あたりまで北上しながら6月から7月にかけて1ヶ月ほど漁をやったんです。
6月の北海道は午前3時頃になるともう夜が明けてくるんですが、深い霧がかかって港の中にいても仲間の船が全然見えんことが多かったんです。そんな時にはラッパを鳴らして連絡を取り合いながら一斉に出港して行ったものなんですが・・・・・・。ところが午前10時頃になると霧が晴れてきてね、商売できるようになるんですわ。それまでは衝突でもせんかとただもう怖くてねえ・・・・・。どの船もみんな並ぶようにして漁場に出て行くんですけどね。まあそんな巻き網をこの沖でやっとったんですわ。私は一番若かったもんで、飯炊きをやらされとりましたがね。最初の北海道との関わりはそういうことだったんですよ。
そして、有島武郎の『生まれ出づる悩み』を飯炊きの仕事をしながら読んでいたんです。すっかり煤けて油まみれになったその本を今でも大切に持っておりますが、そのモデルとなった木田金次郎さんが岩内の画家であられたわけで・・・・・・。なんとも不思議なご縁ですが、どうか今後ともよろしくお願い致します。(拍手)
司会:渡辺先生と貝井先生との出会いや、絵を描き始めた頃のことなどちょっとお話いただけますでしょうか?
渡辺:貝井君はもう忘れたかもしれないけど、私が19歳かそこらだったと思いますが、誰からか、高浜の方に一人、油絵を描いている奴がいるという話を聞きましてね。高浜は隣町なんですよ、私の大飯町とは・・・・・・。でも私の住む川上という集落はね、若狭湾の沿岸からずっと奥に入った、京都府との境の峠に近い谷間にありましてね。高浜に絵を描いてる奴がいると聞いて、すぐにも会いに行きたかったんですが、なかなか行けなかったんですよ。当時バスもありませんでしたし、トンネルの出来いまと違ってずっと大回りしなければなりませんしね。
だから昔から、私の村と高浜とのつながりがございまして、そう高い山ではありませんが、峠を歩いて魚を買いに行ったり、私の村は山深く炭を焼いていましたので、その炭を背負って高浜に行って、魚や米を買って帰って来るという、そんな貧しい村に私は育ったんです。今はいい道ができまして、トンネルもできまして、町役場に行くよりも高浜に行った方が早いというようなことになりましたけども。ですから峠を越えては、貝井君の所に行って、油絵を描いたのを見せてもらったりした覚えがあります。
やっと私が油絵を描くようになったのは二十歳の時だったと思います。私の親父は身体が弱かったものですから、私一人で炭焼きをやっとったんですよ。その時分は炭がよく売れたんですけどね。炭焼きを生業にしているよその家は家族総出でやってましたけど、私だけはたった一人でやっとったんですね。それで、連れがいないと可哀想だというんで、母親の妹の子を二十歳の時に嫁にもらうことになったんです。別に私は今の家内のことを好きだから嫁に来てくれと言った訳でもないんですが・・・・・・(笑)。だから当時、私はよく言われたもんですよ。今なら「ご結婚おめでとうございます」でしょう。ところが、私が結婚した時は「手間をおもらいになったそうでおめでとうございます」てなわけなんですね(笑)。まさしくそのものズバリでした。手間が出来て、仕事が倍できると・・・・・・(笑)。そういう二十歳の冬に油絵の具を京都で買った覚えがあります。貝井君とはその当時からの付き合いでして。
司会:そうですか。お二人はその当時からのお付き合いだったんですね。
渡辺:まあ私らは、相当いい加減な時代に育ってますんやわ(笑)。ずいぶん何か評価していただいてますけど、もともと評価してもらえるような絵ではないんです。そのうえ、こんな所へのこのこ顔を出したり致しまして恥ずかしいかぎりなんです。
実は、木田金次郎美術館で作品展をやってもらえないかという依頼を受けました時、私は、「私なんかよりも貝井君のほうがずっと適任だと思います。漁師でもある貝井君は漁師出身の木田金次郎先生と通じるものがありますから・・・・・・」とお伝えもしたのです。もっとも、人間同士のいろいろな出合いというものは、意図的にできるようなものではないと思いますね。なんて言うか、ほんのちょっとしたことから、つながりが生まれるんですね。本田先生とも、本当にパッと目が合った瞬間からこいつは面白い奴だなあと直感したんですよ(笑)。不思議といえば不思議なもんですね。
だってね、最初出合った時に、「どちらから来られたんですか?」って尋ねたら、「東京から」っていう返事がありましてね。もう夕刻近くだったんで、「今朝は東京を何時頃に出発なさったんですか」と訊くと、「いやぁ、一週間ほど前に出たんですよ」っていうわけでして・・・・・・(笑)。めったに人の通らないような道を辿りなから、東京から若狭まで来ると一週間くらいはかかるらしいですよ、呑気なもんやねえ・・・・・・(笑)。
本田:その時は私ももっと若かったですからねえ。
渡辺:私ももっと若かった!(笑)。一番働かなきゃならない人生の一番大事な時に呑気な人やなと思いもしたんですわ(笑)。それで、「どんなお仕事を?」って訊いてみたんですよ。今日の本田先生のように、ちゃんとネクタイでも締めていれば想像もつくんですけどね(笑)。よれよれしたジーパン姿の、どこか薄汚れた格好で、「ちょいちょい学校に行っております」って答えてくるんですよ。「ああ、学校の先生か」と思ったけど、心の中では大学の先生だなんて思っていませんでしたからね。せいぜい夜間高校の臨時講師程度かなと・・・・・・(笑)。何せ、旅に出てもう一週間にもなるっていうんですから、そのくらに思うのは当然だったわけなんです。
その日はたまたま雨が降ってましてね。その日はバスで一滴文庫に行ってましたから、またバスに乗って帰らなきゃならなかったんで・・・・・・。それまでにも、よく終バスに乗り遅れて弱ったことがあったものですから、また帰りのバスに乗り遅れないようにしなければないと思っていたんです。そこに、自動車で来た人が現れたもんですから、その車に乗せてもらえればバス賃もかからないからなあと・・・・・・。バス賃が500円もしたから、その分も浮くと思いましてね。近頃は腰を痛めてしまってますから自重してるんですけど、私は山登りが好きなものですから、山の話をしたら、それがなんとまた、日本中の山に登っているんですわ(笑)。このぶんなら山の話でいけると思いましてね、それで一晩泊まらんかいと誘ったわけなんです。泊まってもらうということは、家まで自動車に乗せてもらえるということでしょ(笑)・・・・・・そんなことから一晩というわけでして。
それでも大学の先生だとは全然わかりませんでした。「能ある鷹は爪を隠す」ってね、何にもわからんのですわ。名刺ももらったんですが、肩書きも何もなく、ただ名前と住所が記されているだけでしょう、それで「何しとってるんですか?」と訊いたんです。でも、東大で教えているなんてことは一言もなかったんですね。だから理学博士だなんて全然わかりませんでしたね。
それが一週間ほどしてから、「お世話になりました」と小包が届きまして、中にはお菓子と翻訳された本がはいってました。なんだか難しい本でしてね、あんまりよくは読まなかったんですけど・・・・・・(笑)。
ところが、一番最後のページに著者略歴が書いてあるでしょう、それを読みましたら、「位相幾何学や基礎論理学のスペシャリスト」なんて記されているんですね(笑)。そのほかにも、コンピューター誌の執筆や編集者なんかもやっているって書いてあるじゃないですか。もうびっくりしましてね・・・・・・、世の中にはいろんな人がおるもんやなあと、思ったようなわけなんです。
その後お付き合いが深まりまして、もうずいぶん以前に本田さんが週刊朝日でコラムの連載やったときにはその挿絵を担当しましたし、インターネットの「アサヒ・コム・AIC」での本田さんの連載記事でも挿絵をずっと描いてきています。まあ、そういう関係なんですわ。
それで貝井君とは、二十歳位の頃から、言うならばある種ライバル的な意識もお互いに持ちながら・・・・・・、まあそんな意識はあって当たり前だったと思うのですが、そういうなかでお互い自分の日記のような感じで、ありのままの姿を出しながら絵を描いて来ました。 中央の絵画展などにも出品しまして、会員にもなっていたんですけど、そういう世界はどうも自分らの肌に合わないものですから・・・・・・。べつに絵画展のために絵筆を執ってきたわけではないもんですからね。二人ともね、これまで個展なんて自分からしようかと言ってやったことなんか一度もないんですよ。たいていは頼まれてもお断りするんですが、どうしても断り切れんようなこともありまして(笑)、なんせ二人とも気が弱いもんですから(笑)。そこらへんのことでも私ら二人はよう気が合うとるんですわ(笑)。
(岩内地方文化センターにて 講演:本田成親)その8に続く