続マセマティック放浪記

11. 若狭駈足探訪記・その3 – 古刹明通寺へ

フィッシャーマンズワーフをあとにした我々一行は、いよいよ若狭随一の名刹明通寺へと向かうことになった。NHKで放映中の朝ドラ「ちりとてちん」の舞台となっている小浜市街や小浜湾一帯の風景を眺めながら走るのは、なんとも趣き深いものであった。国道に出た我々の車はすこしばかり来た方向へと引き帰し、そこで右折して明通寺方面へと分岐する道路に入ろうとした。そして、その瞬間、ハンドルを握るO君の究極の荒業が披露されることになった。京都を出発して以来、確信犯とも言うべき強引な運転で他の同乗者をハラハラドキドキさせ続けてきたO君が、こともあろうに、かなりのスピードで疾走してくる対向車の直前で一時停止もしないまま右へと急ハンドルを切ったのだった。ヒエーッとO君以外の誰もが一斉に悲鳴を上げる中を、我々の車は辛うじて対向車の前面をすり抜け右側の道へと入った。助手席に座る私などは一瞬もう駄目かと思ったほどだったし、対向車のドライバーも我が目を疑うとでも言いたげな驚愕の表情を見せていた。だが、当のO君ときたら、「いつものことで、すべては計算済みだから……」とケロリとしたものだった。こうして、ともかくも最悪の事態にだけは遭わずに車は明通寺の駐車場に到着したのだった。

棡山(ゆずりざん)明通寺は真言宗御室派の古刹である。開山当時境内に棡木(ゆずりぎ)の大樹が生えていたことから、そのような山号がつけられたのだという。棡木は若葉が出たあとで古い葉が落ちるので、世代を譲る、さらには古い命が新たな命へと継承されるという言う意味を込めて「ゆずりぎ」と呼ばれるようになったものらしい。その風変わりな山号は棡木のそんな性質を含みにしているらしい。明通寺の山門に向かっては古い急峻な石段が続いている。左手に杉の大樹の立ち並ぶその石段を上り詰め、両脇に二体の仁王像の佇む山門をくぐると、寺の事務所の前に出た。一行を代表してYさんが拝観料の支払いを終えるのを待っていると、本堂のほうから法衣を纏った一人の人物がちょうど石段を下ってくるところだった。ぴんとした背筋や眼鏡の奥で鋭く光る双眸からして、私にはすぐにそれが明通寺管長の中嶌哲演(なかじまてつえん)師であるとわかった。

時々私の作品の挿絵などを描いてもらう若狭の渡辺淳画伯との縁を介して、中嶌哲演師とはすでに旧知の間柄である。もちろん私自身は過去何度となく明通寺を訪ね、中嶌師と膝を交えて親しく談笑し、そのことを通してさまざまな教えを乞うたりもしてきている。こちらから中嶌師のほうへと駈け寄り、かねてからのご無沙汰をお詫びしながら、旧友らを案内して来寺した旨を告げた。すると、同師は、「本堂や三重の塔の拝観をおすませになったあとで、是非とも参道右奥の講堂にお立ち寄りください。そこでお茶でも飲み交わしながらしばし皆さんと歓談でも致しましょう」と誘ってくださった。私だけ事務所の前に残り中嶌師としばし話し込んだあと、一足先に本堂へと向かった一行のあとを追いかけた。私が本堂に入ってみると、案内担当の寺僧による明通寺の由来や国宝重文などについての説明がちょうど終わりかけたところだった。説明を聞き終え立ち上がった私の仲間たちは、正面から諸仏の尊顔を立ち仰いだり、仏壇の脇や裏手にまわって異なる角度から個々の仏像を眺め上げたりしながら、思いおもいに古刹のもつ風情とその魅力にひたりはじめた。本堂の縁側に出てそこから仰ぎ眺める三重の塔の秀麗なたたずまいは、いつもながに息を呑むばかりだった。

明通寺縁起によると、この寺は大同元年(八〇六年)、時の征夷大将軍だった坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)の祈願によって開基されたものだという。坂上田村麻呂は七九七年征夷大将軍となって蝦夷地(現東北地方)平定に向かい、延暦二十一年(八〇二年)に朝廷軍と果敢に戦った蝦夷軍首長の阿弖流為(アテルイ)とその盟友の母礼(モレ)を降伏させた。アテルイとモレの器量の大きさと高潔な人格に感じ入った田村麻呂は都の桓武天皇や公卿らに二人の助命を嘆願するが、その願いは一蹴された。大量の黄金や絵画類を産出する蝦夷地の平定に狂喜する朝廷の権力者らには、田村麻呂の嘆願に耳を貸す気などさらさらなかったからだった。

都からの命によりアテルイとモレの二人は生きたまま首から下を土に埋めて二日間晒し刑にされ、最後は鋸(のこぎり)引きによる斬首という極刑に処されたのだという。作家の高橋克彦によると、死の直前、アテルイは、「自分たちはとくに何かを望んでいたわけではない。あなたがた大和人と同じ心をもつ人間だということを示したかっただけだ。我々蝦夷人は獣でも鬼でもない。妻子や親を愛し、花鳥風月を愛(め)でる同じ人間なのだ」という趣旨の言葉を伝え遺したのだという。

京都の清水寺の創建者としても知られる坂上田村麻呂は、京都に戻ったあとでこの若狭の地を訪れ、「多年征戮するところの孤魂窮鬼を救はんと思う志願未だ果たさず。心慮を尽くすこと久し。月日今正に来れり」(長年にわたって征服し殺戮してきた蝦夷人たちの、ついには幽鬼とも化した彷徨(さまよ)える孤独な魂を救いたいと願ってきたが、まだその思いを果たしてはいない。その願いを成就するため久しくなにかと思いをめぐらし心を尽くしてきたが、ようやくその念願が叶う時がやってきた)と言って、明通寺を建立したのだという。もともとこの寺は、アテルイやモレをはじめとする多くの蝦夷人らの霊魂を慰め祀るために開基されたというわけなのだ。

坂上田村麻呂がそのような慰霊の寺を若狭の地に建立したわけは、ひとつには延暦年間に田村麻呂が若狭の国司を務めており、若狭の諸事情に通じていたことにもよるらしい。もしかしたら、陰陽師の安倍一族ゆかりの地が若狭名田庄であったことなどもいくらかは関係しているのかもしれない。中嶌哲演師によれば、大化の改新(六四五年)から間もない時期に越国守の阿倍比羅夫が二百隻もの大船団を率いて日本海に面する蝦夷地一帯を偵察していたとのことだし、また、田村麻呂の父の苅田麻呂(かりたまろ)も越前国守に補任されたことがあるそうなので、往時の若狭は海陸両路を介して蝦夷地と地政学的にも深い関係があったのかもしれない。

千二百年前に遡る明通寺創建時の堂宇や仏像はもう失われているけれど、創建当初の様子や痕跡を伝えるものは今もなお残っている。現在国宝に指定されている本堂は鎌倉中期の正嘉二年(一二五八年)に再建されたもので、奈良や京都の諸寺院のそれにも劣らぬ秀麗かつ風格に満ちた密教様式の伽藍である。単層入母屋造りの檜皮葺(ひはだぶき)の建物だ。この本堂には九百年ほど前の藤原時代に再造像された薬師如来(像高一・三四メートル)、降三世明王(ごうさんぜみょうおう、像高二・五〇メートル)、深沙大将(じんじゃだいしょう、像高二・五八メートル)の木造仏像三体が安置されている。いずれも見事な一木造りで、国指定の重要文化財になっている。明通寺縁起によると、開山当初、それら三体の仏像は、現存するものとは違い、棡木の大木を彫り刻んで造られていたという。

衆病悉除(しゅうびょうしつじょ)の誓願を立てて中央に坐する薬師如来の脇には、三叉の槍を右手に蛇を左手に掴んだ深沙大将が立っている。この深沙大将は西遊記の沙悟浄のモデルにもなった神将なのだそうで、その意味でも興味深い。男女の交わりを暗示する二体の人間像を足下に踏みしだきながら立つ怒形の脇侍仏、降三世明王のほうは、底知れぬ人間の業の深さを戒めているのだろう。ただ、煩悩の塊みたいな私などは、足下にあってなお激しく蠢(うごめ)かんとする男女の像に不思議な共感を覚えたりもしてしまう。秋艸道人の号を名乗った歌人会津八一は、その随筆の中で「四天王や神将などの仏像を拝観する時には、その足下で蹂躙されている天邪鬼(すなわち、煩悩深き人間の象徴)のどこまでも性懲りないふてぶてしい姿を見よ」といった趣旨のことを述べている。ひとつには、そんな会津八一の歌や言葉にかねがね私が深い影響を受けてきたせいでもあるのだろう。

明通寺の本堂のある場所のさらに一段高いところには、見事に均整のとれた三重の塔が深い木立に抱かれるようにして建っている。やはり鎌倉時代中期の文永七年(一二七〇年)に再建された三間三層、檜皮葺、高さ二二・二六メートルのこの塔のほうも国宝に指定されている。この三重の塔の内部には釈迦如来が安置されているらしいが、現在塔の内部は非公開になっている。同志社大で教鞭を執るK君などは、折からの激しい驟雨をものともせず一人だけ我々から離れて三重の塔の周囲を歩きまわり、人知れず感慨にひたっている様子だった。

明通寺は平安から鎌倉初期にかけて三度の火災に見舞われたらしい。本堂や三重の塔が再建された鎌倉中期から室町期にかけては、そのほかにも多数の塔堂や二十五もの僧坊があり、多数の僧侶を擁してずいぶんと栄えたのだという。ただ、江戸時代に入ると塔堂の老朽化による破損、さらには大嵐や大雪などの諸災害による堂宇僧坊の倒壊のため次第に寺勢は衰え、明治初期の廃仏毀釈の煽りなどもあって現在の規模までに縮小されたようだ。

本堂や三重の塔を廻り終えたあと、我々は中嶌哲演師のお言葉にあまえて講堂に上がり、師みずからが用意してくださったお茶とお菓子を有難く頂戴した。綺麗に手入れの行き届いた庭に面する講堂の奥には、これまた国指定の重要文化財である、藤原期の一木造り不動明王像一体が安置されていた。中嶌哲演師は仏門での修行に入る前の一時期東京芸術大学に在籍しておられたことがあったとかで、初対面とはいえ、その意味では芸大出身の建築家のO君や音楽家のN君とは有縁の間柄というわけでもあった。

若狭の地にあって伝統ある名刹明通寺を守るかたわら、折あるごとに弘法大師伝来の真言宗の教義のエッセンスをやさしい言葉で説いてまわっておられる中嶌師の話は、我々にとってもなかなかに啓発的なものであった。かつて「御食国(みけつくに)」とも呼ばれ都の食生活を支えた若狭は、いま「原発銀座」と呼ばれ畿内一帯の都市電力を支えている。そして若狭の原発で生じた放射性廃棄物はかつての蝦夷地、青森や岩手などの再処理工場や埋蔵施設へと送られようとしている。都の華麗な繁栄の陰で生み出される大量の危険な汚物を相手の意向などいっさい無視して遠隔の地に押しつけ、それらの地方の人々の平穏な暮らしを乱し不穏にする現代日本の構図は、かつての朝廷による「蝦夷征戮」の史実と重なって見えると、中嶌哲演師は考えておられるようでもあった。

「美しく静かな山水に包まれて平和にたたずむ明通寺の三重の塔と本堂。その三重の塔内の釈迦如来が何よりも願われたのは、非暴力と平和、そして生きとし生きけるものの安穏と幸福である。また、本堂内の薬師如来のご誓願は衆病悉除、すなわち、世のすべての病をことごとく取り除くことである。かつて田村麻呂が長年にわたる悲願を託し、さらには明通寺を守り支えた先人たちが日々その成就を祈り願ったそのような仏法の眼目こそ、棡葉(ゆずりは)のように未来の世代へと語り伝えていきたいものである」という中嶌哲演師の言葉は、ともすると供されたお茶とお菓子に心を奪われがちだった我々の胸の奥底に深々と響き渡った。中嶌師との歓談を終え、お礼を述べて明通寺をあとにした我々は、再びO君運転の暴走気味の車にそれぞれの命を託し、の目的である「鵜の瀬」へと向かうことになった。

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