すっかり暗くなった佐分利川沿いの土手道を上流方向に二十分ほど走ると、渡辺淳さんのアトリエ「山椒庵」のある川上集落に着いた。道路からすこし中にいったところにある山椒庵のすぐ脇に車を駐め、折からの冷たい雨の中を駈け抜けるようにして我々一行は玄関先へと飛び込んだ。渡辺さんはいつもながらの穏やかな笑みを浮かべながら、我々を快く迎え入れてくださった。もっと早く伺うつもりでいたにもかかわらず、予定時刻から大幅に遅れてしまい心苦しいかぎりだったが、そんなことなど一切気になさっていないご様子だった。
私はこの山椒庵で仲間と別れることになっていたが、残りの一行はまだこの大飯町から二時間ほどはかかる宿泊地の木津温泉まで行かなければならない。もう七時近くになっていたから、仲間たちは山椒庵を駈足状態で訪問するしかなかった。私が一滴文庫で初めて渡辺淳さんと出合った頃の山椒庵はもっと奥にあって、古い萱葺き屋根をもつ旧農家の建物だったが、雨漏りもひどく、玄関の引き戸は軋み、襖の開け閉ても容易ではない文字通りのボロ屋だった。そして、そのボロ屋の中には想像を絶する点数の油絵作品やスケッチ、デッサン類が所狭しと無造作に積み重ね置かれていた。どれをとっても息を呑むような素晴らしい作品ばかりなのに、それらのうちのかなりの数のものには猫が爪を研いだ痕や鼠が齧った痕、さらには雨漏りによる水滴の流痕などが残っていたものだ。渡辺さんと私とのこの時の運命的な出合いをテーマして書き上げた作品「佐分利谷の奇遇」で、もう十年以上も前に「奥の細道文学賞」を受賞したのだが、渡辺さんとはその時の廻り合い以来、もう二十年近い付き合いが続いている。
渡辺さんの現在のアトリエは以前のそれとは違ってスペースも広く、しっかりした造りで二階には作品収納庫もそなわっており、旧山椒庵に比べるとずっと立派な建て付けになっている。だから私は現在の山椒庵を「山椒御殿」と呼んでは渡辺さんをからかったりしている。その新山椒庵の奥にある広い画房の壁添いには目下制作中の大作のキャンバスが置かれ、その構図の背景を彩る深く澄み輝くような赤が我々の目を捉えて離さなかった。簡単に互いの紹介をし終えたあと、一行は大急ぎでアトリエ内を見学させてもらい、そのあとMさんとYさんの女性二人は渡辺さんの先導で二階の作品収納庫に上がっていった。時間に追い立てられながらの山椒庵訪問だったので、車の運転役のO君などは気が気でない様子だったが、それでも女性二人のあとを追うようにして男性メンバーも全員二階へと上がった。
この画庫には気が遠くなるような数の作品群が保管されている。それも、百号・二百号といった油彩の大作から、同じく油彩の中小の作品群、水上文学を彩った膨大な数の装丁画や挿絵の原画群、これまた大小の水彩画の数々、そして、ただもう息を呑みひたすら圧倒されるばかりの数のデッサンやスケッチ類がびっしりと重ね置かれていた。しかも、しっかり額装されたものから本体だけが剥き出しになったものまで、その保存状態も千差万別であったが、作品の質としてはいずれも甲乙つけがたいものばかりだった。一行の誰もが驚き呆れて言葉に窮する有り様だったが、そんな我々をなおもにこやかな笑みと温かい言葉とで包み込みながら、渡辺さんはそこに保管されている作品についていろいろと説明してくださった。女性たちなどはとくに、もっとゆっくりしていきたそうな感じだったが、いよいよ時間がなくなってきたとあっては如何ともし難く、名残惜しそうな表情を見せながら皆急ぎ足で階下へと降りた。
激しく降りしきる雨の中を突いて私をのぞく一行七人は足早に車に乗り込み、それぞれのシートにおさまった。そして、玄関先に立つ渡辺さんと私のほうに赤いテールランプを向けながら車は動き出し、ほどなく深い闇の中へと消えていった。いったんアトリエに戻った私は、そこで渡辺さんの奥様が用意してくださった夕食を頂戴しながら、一時間ほどあれこれと話し込んだ。そしてそのあと、渡辺さんのお孫さんの車でJR小浜線の若狭本郷駅まで送ってもらい、渡辺さんとそこでお別れした。
若狭から敦賀までは二時間あまりかかる。ちょっとした事故があったとかで定刻より二十分ほど遅れて到着した敦賀行きの列車に乗り込み、空席だらけの車内の進行方向右手窓側の席にどっかと腰をおろして、しばしボーッと外の景色を眺めやった。昨夜来、若狭の案内役として仲間たちに気を遣いながらの強行に次ぐ強行の旅だったので、一人になった途端に緊張が解け、急に睡魔に襲われてしまい、しばらくの間ウトウトとした。だが、三十分ほどするとまた目が醒めた。そして、その直後のこと、四年前のある日の出来事がまるで昨日のことのように突然私の脳裏に甦ってきたのだった。
平成十六年の四月末、渡辺淳さんと私とは、北海道岩内町の木田金次郎美術館からの要請により、同美術館開催の記念展に伴う講演会の講師を務めた。そしてその帰り道、私は自分の車に渡辺さんを乗せ、二人であちこち寄り道をしながら函館に出た。そしてフェリーで函館から青森に渡り東京方面に向かって南下した。そして、その途中で、なんだか水上勉先生のご様子が気になるし、しばらくお会いしてもいないから、お見舞いかたがた、このまま直接先生のお宅にお伺いしてみようかということになった。当時、水上先生は信州の北御牧村(現在の東御市)の下八重原にある「勘六山荘」にお住まいになっておられた。「勘六山荘」とは林に囲まれた小高い丘の上に建つお住まいに先生自らがつけられた呼称だった。先生とは、同じく信州鹿教湯温泉のリハビリセンターにやはり渡辺さん共々お訪ねしお会いして以来の再会で、平成十六年五月一日のことだった。
水上先生は車椅子に乗り介護の方の助けを借りつつ姿をお見せになられたが、身体はまったくといってよいほど動かず、言葉のほうも時々呻くような声を発することしかおできになられない状態だった。ただ、それでも、渡辺さんや私の話すことだけはしっかりと理解なさっているご様子だった。介護の方が、どうやら岩内での記念展のパンフレットの文を読んで欲しいとおっしゃっておられるようだと言われるので、私が読んで差し上げると、見るからに嬉しそうな表情を浮かべられ、何事か言葉にならない言葉を発せられた。
二・三時間ほどでおいとましたのだが、別れ際に、その年の四月に刊行されたばかりの自著の文庫本「良寛を歩く 一休を歩く」(NHKライブラリー)に、介護の方の手助けを受けながら必死のご様子でサインをし、私たちに一冊ずつ進呈してくださった。先生は、ご自分の「勉」という名前に懸けて「毎日つとめます」とお書きになろうとしたのだが、「ます」の二文字は紙面からはみ出て読み取れない状態になった。また、「毎日つとめ」の部分も文字が大きく歪んで、字を習いたての子供の書いた文字みたいになってしまった。とても情感のこもった素晴らしい字をお書きになっておられたかつての先生の面影はもうどこにも見当たらなかった。
それはもう壮絶としか言い表しようのないお姿でのサインぶりで、そばでその様子を見ていた私たち二人は、思わず目頭を熱くし、込み上げてくる涙を必死になってこらえる有り様だった。サインを終えられたあと、また何事かを喉の奥で唸るようにおっしゃられたのだが、そばに付き添う介護の方によると、「もうちゃんとサインができなくなってごめんなさい」と言っておられるようだとのことだった。最後にお別れの握手を交わしたが、水上先生は私の手をしっかりと握ってくださり、「ありがとう」とも聞こえる、呟くような短い一語をまたもや呻くように発せられた。
玄関先で私たちは何度も何度も先生にお別れの挨拶をしながら勘六山荘をあとにしたが、そんな私たち二人を先生は無言のままじっと見送ってくださった。その静かなお顔は、久遠の慈悲の微笑みを湛えた弥勒菩薩のそれにも重なって見えさえした。それから三ヶ月ほどのちに先生はその勘六山荘の自室で永眠なさった。渡辺さんと私とがそれぞれに頂戴した文庫本のサインが、水上勉先生最後のサインとなったことは疑うべくもなかった。
四年前のそんな出来事をありありと思い浮かべながら、車窓をよぎる夜景をぼんやりと眺めやっているうちに列車は終点の敦賀に着いた。いったん敦賀の駅前に出てそこでタクシーを拾うと、北陸道敦賀インターチェンジの入口にある夜行高速バスの乗場へと向かった。そしてそこであらかじめ予約してあった東京行きのバスに乗った。散々な目に遭った往路の深夜バスとは違い、帰路の深夜バスは窓側の席でシートもゆったりとしており、お蔭で翌朝早く新宿に着くまで心地よく眠ることもできた。強行に次ぐ強行の旅ではあったが、なんとかその試練に耐え抜くことができたのは、もうけっして若くはないこの身にしてみればなんとも幸いなことであった。