午前8時30分に京都駅八条口側にある京阪ホテル・ロビーで待ち合わせた我々は、近くのトヨタ・レンタ・リースで借り受けエスティマに乗り込んだ。メンバーは建築家で多摩美でも教えているO君、鹿児島県の市来串木野市医師会長を務めるN君、奈良教育大の先生で音楽家のN君、同志社大文学部で教鞭を執るK君、関西在住の事業家N君、岡崎市在住の医師夫人Yさん、東京在住の事業家夫人Mさん、そして私の総勢8人だった。運転のほうはもっぱらO君に任せることにした。前夜ほとんど眠っていないので万一のことがあってもいけないし、たまには他者の運転する車に乗ってのんびりするのも悪くないと思ったからだった。
京都から小浜方面に向うには、通常、高雄から、京北町、美山町を経て名田庄に入り、そこから小浜へと抜けるルートか、さもなければ八瀬、大原、朽木、上中を経て小浜に至る、いわゆる鯖街道ルートのどちらかがとられる。だが、琵琶湖を眺めたいという一部メンバーの要望もあって、この日は今津まで琵琶湖の西岸を走り、そのあと若狭街道に入るルートをとることにした。幸い天候のほうもまあまあで、湖西ルートに入ると左手には比叡さらには比良山系、右手には雄大な琵琶湖の景観が広がった。ただ、メンバーの誰もが一癖も二癖もある毒舌家ばかりとあって、京都駅前を出発した直後から車内は賑やかなことこのうえない有り様だった。おかげで次々に移り変わる景色を車窓からじっくりと楽しむどころの騒ぎではなくなった。
今津が近づく頃になると、竹生島の特徴的な影が湖上にぽつんと浮かんで見えはじめた。琵琶湖北岸近くに浮かぶこの小島は浅井長政の居城だった小谷城址あたりから望むのがベストだと思っていたが、伊吹山を背景にして今津付近から眺めるその景色も悪くはなかった。湖岸沿いに延々と続く見事な桜並木があって花見の名所として知られる大崎や、竹生島展望台のある葛篭尾崎一帯の景観などが竹生島の存在を一段と引き立てているからだった。
今津市南部に入った頃に、誰からともなく、有名な「琵琶湖周遊の歌」の作詞家や作曲者らを顕彰した記念館があるのでそこに立ち寄ったらどうだろうという話が持ち上がった。そして、とりあえず休憩をかねてそこを覗いてみようということになった。お目当ての記念館はそのあとすぐに見つかったが駐車場らしいものが見当たらない。記念館の真ん前に今津警察署があるのを目ざとく見つけたドライバーのO君は、すぐにその正面玄関前のスペースへと車を乗り入れた。「警察署には無関係なこの車をこんなところに駐めていいのかい?」と皆で念を押すと、強引かつ豪胆で知られるO君は、「どうせ今日は休日なんだから!……それに、使ってない公共の施設はどんどん利用するにかぎるさ」と応じて涼しい顔をしている。ところが、我々が車から降りてぞろぞろと記念館の入口へ向かって歩き始めた途端に、遠くからさりげなくその様子を覗っていたらしい人物が現われ、ここに駐車したらだめだとばかりに身振り手振りで警告を発しだした。どうやら警察署の関係者のようだった。
「じゃ、何か警察のお世話になるような用件でもつくろうか?……駐車違反してみるとか?」
「そういえば、ここに駐めたからって、路上じゃないからべつに駐車違反なんかにはならないんだよね」
「車の不法進入か不法放置にでもなるのかな?」
「こりゃ不法闖入か不法乱入、そうでなけりゃ粗大ゴミの不法投棄だよ。もちろん、粗大ゴミはほかならぬ我々8人だけどさ!」
互いにそんな軽口を叩き合いながら、記念館の裏手にあると教えられた駐車場のほうへと車を移すことにしたが、O君だけはなお納得いかないという様子だった。
こぢんまりとした記念館の展示室には、夭折した「琵琶湖周遊の歌」の作詞者や作曲者の写真と経歴とが大きく紹介してあった。またそのほかに、作詞や作曲にいたるまでのさまざまなエピソードならびにその歌にでてくる場所などの解説もしてあった。とりわけ感銘を受けるような展示物に出合えたわけではなかったが、無料で入館できたのをよいことに、休憩と気分転換を兼ねた館内散策をそれなりに楽しみ、旅程を先に進めるべく再び車へと戻った。
車は近江の今津と若狭の小浜とをつなぐ若狭街道に入り、ほどなく近江と若狭との境に近い水坂峠付近にさしかかった。この峠の手前で南に向かって分岐し、檜峠を越えて朽木集落方面へと向かう道がいわゆる「鯖街道」である。より正確にいうと、小浜から水坂峠までは鯖街道と若狭街道とは重なっており、峠付近で南に分かれて朽木に至り、比良山系の西側を縫う安曇川沿いに京都方面へと延びるのが鯖街道、そして、琵琶湖に面する今津へとそのまま真っ直ぐ向かうのが若狭街道ということになる。かつて鯖街道はその名の通り、若狭湾一帯に水揚げされた鯖その他の新鮮な魚介類を京都方面へと運び込む最短のルートであった。深い山中にある朽木に現在でも最高の味を誇る鯖鮨の老舗があるのはその名残だと言ってよい。
いっぽうの若狭街道は、かつて北前と呼ばれた日本海の沿岸各地の産物を宇治、難波、堺方面へと運ぶ主要ルートのひとつだった。大型船の建造技術や航行技術が未発達で、関門海峡や津軽海峡回りでは日本海沿岸の産物を瀬戸内方面や太平洋沿岸一帯に運ぶことの容易でなかった時代、琵琶湖最北端の塩津と敦賀湾周辺とをつなぐ敦賀街道とこの若狭街道とは国内有数の一大交易路だったのだ。陸路による物資の長距離大量輸送の困難であったその当時、山陰地方から越前、越中、越後、出羽、さらには蝦夷にいたる日本海沿岸各地の物資は、海運によって良港に恵まれ琵琶湖にも近い小浜や敦賀の地に搬入集積された。そして、距離が短く難路も少ない若狭街道や敦賀街道経由で大八車などにより今津や塩津へと運ばれた。大量の物資類はそのあと今津や塩津で川舟に積みかえられ、琵琶湖南端の瀬田、宇治川、淀川を経て堺や難波のある現在の大阪湾岸地域へと搬送された。さらにまた一部の重要特産物などは、太平洋側の航路伝いに遠く尾張、駿河、江戸まで輸送されもした。むろん、その逆のルートを辿り表日本側の産物が裏日本側の地域へと運ばれることも少なくなかった。
水坂峠を越えると、ほどなく旧熊川宿に着いた。かつては鯖街道や若狭街道の要衝として知られていた宿場町で、往時には一日千台を超える大八車が列をなして往来したものだという。いまもいくらか昔の宿場町の面影を偲ばせる町並みが残されているので、車を降りてしばしその一帯を歩いてみることにした。私自身は過去に何度も訪ねたことのある場所なのでとくに目新しい発見などはなかったが、他の仲間たちは初めてのこととあって、旧番所の有り様や民家の屋根と壁の造り、旧街道の両脇を走る昔風の用水路などに少なからぬ興味をそそられたようだった。建築家のO君などはとくに民家の構造や町のたたずまいに大きな関心があるみたいだった。熊川宿の名物のひとつはこの地特産のコンニャクなので、コンニャクが大好物の身にすれば東京まで土産として持ち帰りたいのはやまやまだったが、今回は自分の車ではないうえに軽装で行動する必要もあったので、心ならずもそればかりは断念せざるをえなかった。
熊川宿をあとにし上中の町並みを過ぎると、もうそこは明通寺や神宮寺などのある小浜市だった。当初の予定では明通寺や神宮寺を参詣したあと小浜市の中心街に向かう予定だったが、すでに正午を過ぎていたし、結構な年齢にも拘わらず大食漢を自認する面々がメタボリックシンドロームもなんのそのと空腹を訴えだしたので、寺巡りは昼食を済ませてからにすることなった。そのため、明通寺や神宮寺方面には左折せず、そのまま国道を直進、途中で右折して小浜市街に入り小浜湾に面する海岸通りへと出た。海岸通りを海に向かって左手にどんどん進み、途中で山手側に分岐する細く狭い急な坂路を登りきると、眼下に小浜湾を一望できる展望台に着く。実はこの展望台こそが、北朝鮮の工作員らによって、その時デート中だった未婚時代の地村さん夫妻が拉致された現場なのだった。地村さん夫妻はそれぞれに袋詰めにされ、展望台直下の急斜面を抜ける細い藪道伝いに海辺へと運びおろされたらしい。私としては是非とも一行をその場所に案内したかったのだが、空腹に耐えられぬという御仁が続出しはじめたので、海岸通りを逆方向に進んだところにある小浜フィッシャーマンズ・ワーフへと車を直行させることにした。
焼鯖や鯖鮨、鯖のヘシコなどをはじめとする地元名物の海産品類を売るフィッシャーマンズ・ワーフ二階の食堂に飛び込んだ我々は、各人思いおもいに新鮮な魚料理を注文し、しばしその美味に舌鼓を打った。そしてその昼食の折、私は医師のN君と向かい合わせになったので、遠い昔の想い出話などに花を咲かせることになった。その会話を通してたまたま彼の奥さんは私が幼少年期を送った鹿児島県の甑島の出身だということがわかったので、その出逢いの経緯などをあれこれ詮索していくうちに意外な事実が浮かんできた。なんと、彼は若い頃に甑島の南西端にある手打という集落の診療所に勤めていたというのである。彼の弁によると、その診療所勤務時代にそこの看護婦だったいまの奥様に「引っ掛けられた」のだそうであった。双方の言い分を聞かないとほんとうのことはわからないが、まあ、おそらくは、引っ掛けたつもりだったのが、いつの間にか奥様の仕掛けた大謀網に取り込まれてしまっていたというのが真相だったのだろう。その後も仕事のほうは順調のようだし家庭も平穏そのもののようだから、結果的にはそれでよかったということなのだろう。
だが、それよりも私が驚いたのは、N君が甑島の他地域の診療所ではなく、現在は薩摩川内市になっている旧下甑村手打の診療所に務めていたということのほうだった。手打診療所は著名な医療漫画「ドクター・コトー診療所」の舞台になったところで、その漫画の主人公は同診療所の医師である。そして、その主人公の医師のモデルとなったS氏は、N君の出身大学医学部の2年先輩で、長年のマージャン仲間兼飲み仲間だったのだそうである。その縁もあってN君は一時期その手打診療所に勤務し、S医師を手伝っていたのだという。要するに、彼は「ドクター・コトー」、すなわち下甑島手打診療所長S氏を陰で支える黒子役を演じていたというわけだった。
必然的に話はいまや伝説化さえしているその「ドクター・コトー」なる人物の実像にまで及ぶことになった。N君の語るところによると、漫画の中で理想化されたドクター・コトーの医師像と現実のS医師の姿との間にはそれなりのギャップが存在するようであった。S医師が初めて甑島に渡った時の背景や経緯なども漫画に描かれているものとはいささか異なるようであったが、あくまでも漫画のモデルとなっただけのことなのだから、その程度の違いはやむをえないことなのだろう。ただ、N君によると、S医師が島の人々から深く感謝されているのは事実だし、S医師なりに島の医療に可能なかぎりの尽力してきたのは疑うべくもないとのことであった。「じゃ、ドクター・コトー黒子日記――隠された真実」なんていう新作品が書けそうだね?」などと冷やかすと、N君は「その時にはタッグでも組むかい?」と応じながらニヤリと笑った。