続マセマティック放浪記

7. 不適材不適所内閣に思うこと

参議院選挙が近づいてきている。安倍内閣は多数与党の力にまかせて意図的な会期延長を行い、当初の予定より一週間も投票日を遅らせることによって与党に有利な低投票率の選挙実施をもくろんだ。むろん、投票日の先送りには、すこしでも時間を稼ぐことによってさまざまな政治的不祥事に対する世論の沈静化を狙う意図もあった。だが、その思惑とは裏腹に安倍政権に対する世間の風当たりは日々激しさを増すばかりのようだ。

それにしてもこの安倍内閣、適材適所の人材登用を謳った当初の威勢のよさなどいまやどこ吹く風である。それどころか、日本の国政治史上でも稀に見るほどの「不適材不適所内閣」に成り果てたときているから開いた口が塞がらない。不祥事を起こしやむなく自らの命を絶ったり、失言がもとで閣僚を辞任したり痛烈な世論の批判を浴びたりした大臣は言うに及ばず、どうみても見え見えの人気取り人事としか思われない小池お飾り防衛大臣、さらには、世間知らずで幼稚な感じさえする垢疑悩倫遂惨大臣――いや赤城農林水産大臣と、その不適材不適所ぶりにはただもう畏れ入るばかりである。

ここまでくればもう少しも遠慮などいらない。どうせならもっともっと不適材な人物をより多くの不適所なポストに配し、とことん国民の目を楽しませてもらいたいものである。そのほうが国民は真の政治のなんたるかに目覚めることになり、先々の日本のために大いに益すると思われてならないからである。不適材不適所内閣のなんたるかを広く示し、国政の重要さを国民に再認識させた総理として、安倍晋三の名は平成政治史上に燦然と輝き、末永く人々の心に残り続けることになるだろう。

ただまあ、小泉前政権に絶大な支持を与え、その結果として同政権の延長線上にある安倍政権を誕生させたのはほかならぬ我々国民のほうなのだから、いまさらあまり偉そうなことを言える道理はないかもしれない。だが、昨今のような異常事態を目の当たりにしてみると、安倍晋三なる人物が総理大臣として適材であると心底信じて推挙した与党議員がいったいどれだけいたのかさえもいささか疑問に思われてくる。ポピュリズムを巧みに煽り立てることによって小泉前首相はそれまでになかったような政治の潮流を惹き起こした。そして、その潮流の力を借りて道路公団民営化や郵政民営化を実現し、よりいっそう与党に有利な潮流を強めるべく、自らの後継者の地位を安倍総理に託そうとしたのだった。

長年の勘で政治力学のなんたるかを知る与党議員の多くは、その潮流に乗り遅れまいとして安倍支持にまわったのだが、内心では「この世間知らずの若造めが……」と苦々しく思っていた面々も少なくなかったに違いない。それでもなお表向きには与党議員のほとんどが安倍氏に対し従順に振舞ってみせた。そして、もともと右翼鷹派の体質のある安倍氏のまわりには、ここぞとばかりに、強固な懐古主義や伝統偏重主義の立場をとる学者、文人、元外交官、実業家などがブレーンとして集まり、「美しい国へ」とかいう政治理念を掲げる著書のゴーストライター役をも務めながら我が世の春を謳歌しようと、人目も憚らずしはじめた。そんな思惑を抱くブレーンらに支えられながら安倍氏は新首相となり、意気揚々と「美しい国」の建設に着手した……いや着手したつもりだった。

しかし、安倍新首相の吐く諸々の言葉やそれに伴う行動は、「美しい国」の実現を公約に掲げる人物のそれにしてはあまりにも軽くそして虚しすぎた。そもそも「美しい国」とはなんたるかを首相自身が自覚も理解もしていないように見えもしたし、自らの著作であるはずの「美しい国へ」をあらためて熟読したことがあるのかさえも疑わしく思われもした。前首相に倣ってのパフォーマンスだけは目立っているが、それも空回りしている感じで、善くも悪しくも大衆の心を動かすに足りるだけの存在感は感じられない。

それをなによりもよく象徴しているのは、外遊などの際に夫人とぎこちなく、それでいてこれ見よがしに手をつないで飛行機のタラップを昇降するいささか滑稽な姿だった。日本の伝統文化や古来の慣習を重んじるはずの当人が、真っ先にそれとはかなり趣を異にすることをやっているのだから何をか言わんやなのである。もちろん、欧米流の国際儀礼にのっとったそんな振舞いそのものを非難するつもりはないが、日本の首相が必ずしもそれに倣う必要はない。かねがね首相が述べている日本の伝統文化尊重の信条には合致しないそんな光景を目にするかぎり、一連の首相の発言や行動のすべてがうわべだけの軽いパフォーマンスだと揶揄されても仕方ないだろう。

しかも、さらに困ったことには、「美しい国」を実現するために力を貸してくれるはずであった閣僚や官僚らの心には「美しくない国」のほうが住みやすいとする思いが巣食っていて、「醜い姿」を丸出しにしながら我々国民に「美しい国づくりなど絵に描いた餅である」ことを知らしめる結果となった。参議院選を戦う自民党議員の中には、「美しい国へ」という空疎なお題目は迷惑以外のなにものでもないとして、公然と批判する者さえ現れはじめた。

国民投票法、教育改革法、政治資金規正法・・・・・・と、与党の多数をよいことに、国民感情や社会の実情、現場の状況を無視したおざなりな法案を次々と強行可決して安倍内閣の実績だと公言して憚らず、さらには国民年金問題を一年以内には全面的に解決してみせると豪語するありさまだ。異常なまでの強行採決によって各種法案が可決したのは単に前政権からそのままの与党がたまたま多数を占めていたからで、安倍内閣の力量のゆえではない。国民年金の問題にいたっては、選挙目当ての首相がその解決を安請け合いしたにもかかわらず、現実にはそれほどに容易な話ではない。

安部首相の唯一の売りだった北朝鮮の拉致問題の解決ですら全途多難であることが明らかになってきた。求心力に翳りが見え始めたとはいえ、なおしたたかな外交力を持つ金正日政権を相手に実りある交渉をおこなうには、制裁外交一辺倒では状況の打開は不可能だからである。横田夫妻をはじめとする拉致被害者家族らも、拉致問題を自己アピールのために利用してきた安倍首相への依存には限界を感じ始めたようである。

衆参両院の与党議員の中にはそんな安倍内閣の現状を苦々しく思っている向きも少なくないようであるが、政党政治の建前上それがやむをえないことだったにしても安倍首相誕生に一役買ってきたのは事実だから、多かれ少なかれ彼らもまた同罪である。いまさらジタバタしても見苦しいとしか言いようがない。

首相自身が重要視しているはずの教育改革会議の主要メンバーであったヤンキー先生なる人物を本末顛倒な参議院候補に仕立てたり、元女史アナを擁立したりするなど、小手先ばかりの細工をあれこれ試み大量集票をもくろんでもいるようだが、そんな手にやすやす乗るほど我々国民は愚かではない。過日の中越沖地震で急遽柏崎一帯に視察に出向いたのは総理として当然のことであるが、被害の生じた柏崎刈羽原発まで視察の足をのばしたのはいったいどのような意図からだったのだろう。地震直後に原発を視察すれば自らの果敢さと一国の総理としての責任の遂行ぶりを広くアピールできるとでも考えたからなのだろうか。

安倍首相の視察後になって柏崎刈羽原発には少量の放射能漏れをはじめとするやさまざまな異常事態や不手際があったことが判明した。あらかじめそんなことがわかっていたら、首相が同原発の視察に出向いたかどうかは疑問である。首相が柏崎刈羽原発を視察した時点までは、その心中に「日本の原発は激震に対してもこれほどに安全です。私がここにこうして立っていることがなによりの証拠です」とのアピールしようという思惑があったのではないかとさえ想像されるのだ。

さて、いよいよ問題の参議院選挙まであと数日を残すだけになってきた。このところずっと特定の支持政党なしで通してきた私には、現時点でも積極的に支持する政党があるわけではない。与党の体質に問題が多いのは事実だが、野党各党の体質にもそれなりの問題点が少なくないからだ。ただ、今回の選挙においては、私は与党の候補者に投票するつもりはない。政権党を「変える」ということを通してしか、現在の国政にみる惨状の救済修復は不可能と思われるからである。

従来、この国の国民の多くは「状況に応じて政権党を変える」ということにすくなからず躊躇いを見せてきた。また、そんな国民の戸惑いや躊躇いが結果的に特定政党の長期にわたる政権支配を許してきた。しかし、近年にいたってようやく、国民の多くが「変えること」の重要性を認識し理解しするようになってきた。変えてみても不祥事や無責任な行政が絶えないようなら、また変えてやればよい。少なくとも、変えてからしばらくの間は横暴な政治は影を潜めることになるだろう。そんなわけだから、今度の日曜日は「変える」ために国民の一人として私も投票所に足を運ぶことにしようと思う。

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