続マセマティック放浪記

2. ほんものの旅を体験するには

時間にゆとりのできた中高年の方々などに、私は、折々、「ほんものの旅」の体験してみることをすすめてきた。ただ、ここで言うほんものの旅とは、大がかりな海外旅行とか、設備の整ったホテルに宿泊しながらの優雅な観光旅行などのことではなく、その人なりの体内リズムにのっとった自己再発見のためのささやかな旅のことを意味している。一度そんな旅の仕方を身につけてしまうと、それまで気がつかずにいた旅のほんとうの醍醐味(だいごみ)に心底ひたることができるようになるのものなのだが、そのためには、多少の意識改革と折々の環境に適応するトレーニングをかねてから心がけておくことが必要だ。

社員旅行やパックツアーなどとは一味違う自分なりの旅をしようとすれば、必然的に、単独か、そうではなくても家族や気の合う仲間二・三人だけでの行動ということになる。すっかりお膳立ての整えられた団体旅行でなければ嫌だという人は、まずその考えかたを改める必要があるだろう。私自身、よく、中高年の方々に旅のノウハウをコーチすることがあるのだが、要職にあったりする人々にとっては、いたれりつくせりの旅があたりまえのことになってしまっているから、案外、そのあたりのことが難しい。

本来、旅とは、日常性を離れ、見知らぬ人々や未知の風物との出逢いを求めて異質な空間へと飛び込んでいくことを意味している。何が起こるかわからないところにこそ旅の醍醐味は秘められているといってもよい。ほんとうに旅好きな人々の多くは、「いくらかのリスクや不便さはあってもそれこそが旅―――日常生活の快適さと百パーセントの安全性を旅に求めること自体が間違いなのだ」と考えているくらいである。「罪なきも流されたしや佐渡島」という句を吟じた松尾芭蕉が、旅の先々で胸に秘めていた想いも同様のものであっただろうこと想像にかたくない。

時間に余裕があって気ままな旅をする場合、私は、その時々の状況の赴くまま、とりあえず行けるところまで行こうと気楽に構えることにしている。あれも見よう、あそこにも行こうと欲張ったり、何時までにどこどこの宿にチェックインしなければならないなどということになったりすると、時間だけに追い立てられ、結果的にはつまらない旅になってしまうことが多いからだ。途中での道草や思わぬ発見、行く先々での様々な出逢いなどを大いに楽しむように心がけており、それによって旅の行程が遅れることなどいっさい気にかけない。「旅は無計画をもって至上とする」というようなことにもなりかねないが、見方を変えれば、それこそが旅の極意だと言えないこともないからだ。

こんなことを書くと、「それはよいがいったいその日の宿をどうするつもりなんだ?」という疑問をいだく人もあることだろう。書店に行くと「宿泊表」という全国の公営、民営の宿泊施設を網羅した本が売られている。この本には、一流のホテルや旅館からビジネスホテル、通常の旅館、国民宿舎、各種の公営保養所、ペンション、民宿、ユースホステルにいたるまでの、一般に利用可能な数々の宿泊施設の所在地や電話番号、料金、収容人員数、特徴、交通の便などが地域別に簡潔に記載されている。たまに全国公営宿泊施設ガイドブックを併用することもあるが、私は、宿探しにはもっぱらこの「宿泊表」を愛用してきた。

車で旅する場合などは地図で現在地と周辺の状況を確認し、このあたりで泊まろうかと思ったらその時点で宿泊表のデータを調べてあちこちに電話をかけ、飛び込みで泊めてくれる手ごろな料金の宿を探す。長年の経験からすると、多少の不便さや不備などがあっても我慢できさえするならば、観光シーズンのさなかであっても、どこかに必ず泊めてくれるところは見つかるものだ。場合によっては当初の宿泊予定地からすこし離れたところに宿を探してみるのもよい。素泊まりでもかまわないということになれば、宿が見つかる可能性はいっそう高くなる。

各地の観光案内所も親身に相談にのってはくれるが、旅行者にとって意外な盲点ともいうべきは地元の警察や交番を活用するやりかただろう。お門違いのように思われるかもしれないが、地元の情報に詳しい警察は、たいていの場合安くてよい宿を喜んで紹介してくれる。警察の紹介とあって、受け入れ先の宿の対応が丁重このうえないことはいうまでもない。また、地元の人に話しかけ付近の宿の情報をもらうのも、予期せぬ様々な出逢いや発見につながったりし、結果的に想い出深い旅になったりすることもすくなくない。

いまひとつ、ほんとうに旅を楽しむためのこつは、長年の生活で身にしみついた二十四時間単位の思考法に基づく日常的な行動パターンを一時的に放棄してしまうことでる。何時に起床して朝食を取り、何時には風呂にはいって夕食をすませ、そしてまた何時には就寝するといった習慣にこだわって旅をしていると、旅先において感動的な出来事と出逢える可能性が半減してしまうからだ。大自然がもっとも美しい姿を見せるのは、日の出前後の早朝時だったり、日没とそれにつづく黄昏時だったり、冴えわたる月光や満天の星空のもとだったりすることがほとんどなのである。そのような大自然のドラマとの遭遇を通して命の垢を洗い流し、生きることの不思議に深い想いを馳せようとするなら、意図的に通常の行動形態をはずして振る舞うようにするしかない。

昔の旅人になったつもりで、いざとなったら一晩や二晩は野宿や野営をする覚悟も必要だろう。旅先での野宿というものは、いったんその味をおぼえてしまうと妙に自信がついてやみつきになるもので、日常の時間と空間からの不思議な解放感がともなうばかりでなく、「草枕」という古来の言葉のもつ意味などをなるほどと実感したりもするものだ。また通常とは違ったかたちで頭と体とをほどよく使うことにもなるから、考えようによってはこれほど老化防止に役立つものもないかもしれない。

寝泊まりができ雨の日などは車内でガスコンロを使っても差し支えないキャンピングカーなどを持っている人は、それを単なるアウトドア・ファションにとどめず、ぜひともフル活用することをすすめたい。装備の整った高価なキャンピングカーではなくても、通常のワゴン車などであれば十分寝泊りはできるし、車内での調理も無理なくできる。

もう十年ほど昔のことになるが、私は自分より一回り年上の若狭在住の高名な画家、渡辺淳さんと二人で取材をかねた九泊十日の東北地方放浪の旅をしたことがあった。九晩ともに私のワゴン車で車中泊したのだが、好きな時に眠り好きな時に起きてのマイペースの行動が可能だったから、時間も有効に使え、思わぬ発見や劇的な光景に出逢うチャンスにも多く恵まれて、とても素晴らしい旅となった。
食事のほとんどは有り合わせの素材を用いての自炊と通りがかりのコンビニの利用ですませたし、水の補給や洗面などは道の駅、公園、パーキングエリアその他の公共施設ですませたり、各地の湧き水や谷川の清流などを利用したりした。車で旅に出るときには必ず二リットル入りのペットボトルの空き瓶を五本ほど車に積み込んでおき、旅先で見つけたうまそうな清水をそれらに常時詰めておくようにしているのだが、手近に水場が見つからないときなどは、炊事から洗面用までその水がずいぶんと役立った。

風呂のほうは、通りすがりに見つけた温泉に入浴料を払って入れてもらったが、これがまた快適そのもので一日に五・六箇所温泉のはしごをしたこともあった。当然、旅費のほうもいまどき信じられないような安い金額ですんだような訳で、その旅の一部始終は「奥の脇道放浪記」というタイトルの紀行エッセイとして以前にAICに連載した。(関心のおありの方は「マセマティック放浪記」・バックナンバーの1999年09月01日「良寛の心を訪ねて」から1999年11月17日「甦る大雪の日の光景」までをご参照ください)

見知らぬ土地を独りであてどもなく旅していると、ごくありふれた風景や事物によってさえ心の糸を激しく揺すぶられることがあるものだ。些細な事象として切り捨ててきたもの、さらには時間に追われてついつい見落としてきたもののなかにこそ、心の眼を開くためのまことの鍵が隠されているのではないかと気がつくのは、多分、そんなときである。

実際、遠く離れたところを旅しながら日々の生活を静かに振り返ってみると、自分には無縁に思われた人々や物事のほうがほんとうは大切で、それまで大事だと信じてきた存在が必ずしもそうだとはかぎらないのだと思いしらされることがあるものだ。ましてや感動的な出逢いということにもなれば、それが心に及ぼす影響の大きさには計り知れないものがある。つまるところ、この人生は一期一会、安定という名の重い荷物を草むらの蔭にしばしそっと降ろし置き、見知らぬ土地の旅路での小さな出逢いを心の糧に、ささやかな命にゆるされるひとときを風のように吹き抜けていくのもまた悪くないのではなかろうか。

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