続マセマティック放浪記

33. SPring-8探訪記・その3

今年四月の最高裁判所での「和歌山毒物カレー事件」上告審において、被告人林真須美の死刑が確定した。この事件については直接的な物証がきわめて少なく、犯行を全面否認する容疑者林真須美の有罪を立証するのは甚だ困難であった。そんな状況下において唯一の物証として注目されたのが問題の毒入りカレーの中から発見された亜砒酸であった。厳密な鑑定によって、その亜砒酸の成分や化学構造が林真須美の自宅にあった袋の中の亜砒酸のものと完全に一致したことが決定的な証拠となったのだ。白蟻駆除などに用いられる亜砒酸はかなりありふれた物質である。そのため、双方の亜砒酸が完全に同一物であることを証明すのは至難の業だと思われた。だが、結果的に検察側はその至難の証明に成功した。

その困難な鑑定を行うために登場し、大役を見事に果たしたのがほかならぬこの大型放射光施設SPring-8だったのだ。問題の亜砒酸の結晶構造や成分の解析、不純物の検出並びにその厳密な比較鑑定などには、極微量元素の分析や微小領域の元素分布の解明に驚異的な威力を発揮する蛍光X線分析という手法が用いられた。和歌山カレー事件という異常極まりない出来事を通し、SPring-8は思いがけないかたちで脚光を浴びることになったのである。

この放射光施設の巨大な円環構造を持つ蓄積リングの周囲には、「ビームライン」と呼ばれる放射光の応用研究施設がリングの接線方向に大きく延び出すように設けられている。総計六十二ラインまでのビームラインが付設可能になっており、現在、最短五十メートルから最長一キロメートルまで計四十九本のビームラインが稼働中である。さらにまた、五本が設計・計画中であり、近い将来、六十二本全てのビームラインが完成することになっている。アンジュレータやウィッグラー(その機能については前回参照)という電磁石を用いた特殊な装置の働きにより蓄積リング中の電子ビームから生じるSPring-8の放射光は、波長百万分の一メートルの赤外線レベルから波長一兆分の一メートルの硬X線(X線中でもきわめて波長の短いX線)レベルまでに及ぶ。なかでも真空紫外線レベルから硬X線レベルにいたる領域の放射光は世界最高の輝度(明るさ)を誇っている。現在、物質科学から生命科学いたる諸々の研究に威力を発揮しているのは、可視光線より遥かに波長の短いこの領域の放射光なのだ。太陽光や従来のX線発生装置などの発する光の一億倍もの高輝度をもつその放射光は、将来的にもさまざまな応用が考えられる。その応用研究を飛躍的に促進するため、最近、多くの大学や民間企業がビームラインの運用に積極参画するようになってきた。

ナノ(十億分の一)メートルサイズの蛋白質の分子構造や、オングストローム(百億分の一メートル)サイズの水素原子の構造などを調べるには、それらのサイズと同程度かそれよりもずっと短い波長もち、しかもきわめて輝度の高い光が必要となってくる。波長が長く輝度の劣る光線下で蛋白質の分子構造や水素原子の構造などを探査するのは、喩えるなら、薄明かりの中で、一センチメートル幅の目盛しか持たない定規を使って蟻の足先の毛の太さを測るようなものだからだ。その点、波長が短く輝度が高い放射光は、超極微な世界の事象の解析にとって最適かつ不可欠な存在なのである。

高田さんから次ぎに案内されたのは、蓄積リングの制御室からそう離れていないところにあるビームラインのひとつだった。そこでは、何人かの若い男女の研究者らがみるからに複雑かつ精密そうな大小各種の分析装置を用い、何かしらの研究を進めているところだった。実はそこが、極微な物質の構造やその変化のプロセスの解析を専門とする高田昌樹研究チームの本拠地であった。

高田さんは、名古屋大学助教授時代に金属原子を内包するフラーレン(炭素原子がサッカーボール状に結合した分子)の三次元構造解明に世界で初めて成功、名大からこのSPring-8に移籍してからも、酸素を吸着した多孔性配位高分子(金属イオンと有機分子から化学合成した新材料)の三次元構造の決定、さらには燃料電池の性能向上に不可欠なマグネシウムの吸蔵した水素の状態観察などでも世界初の成功を収めた。また、最近では金属原子(セシウム)を内包したフラーレンのもつ超伝導現象のメカニズム解明にも成功した。それら一連の研究がネイチャー誌やサイエンス誌を飾ったことはいうまでもない。

高田さん傘下の研究チームは、現在、パナソニックと提携しながらDVD-RAMのメカニズムズ解明を進めている。意外に思われるかもしれないが、既に商品として大量に出回っているDVD-RAMの詳細なメカニズムはなお未解明だったのだ。未使用DVD-RAM表面のメモリ用薄膜層には複数種類の金属原子の結合した結晶が規則的に並んでいる。これにレーザー光を照射すると、照射された部分が瞬時に液化し、直後に室温で冷却されて、そこだけ原子の結合が歪み配列が不規則になって固まった「アモルファス構造」へと変化する。それに読み取り用の光線を当てると、結晶部分とアモルファス構造部分の反射率が異なるからその違いが識別される。そこで、結晶部分に0を、アモルファス部分に1を対応させることにすると、デジタル情報の記録とその記録の再現が可能になる。旧データを消去し新データの書き込みを可能にするには再度レーザー光を照射し元の結晶に戻してやればよい。これが大まかなDVD-RAMの原理なのだが、実を言うと、元の結晶やアモルファス相の構造がどのようになっており、レーザーを照射するとどのようなプロセスを経て結晶構造とアモルファス構造間の相変化や逆相変化が起こるのか、また、なにゆえ一ナノ(十億分の一)秒もの高速でそのような相変化が起こるのかは、DVDの実用化後も謎のままであった。
高田さんらは、一億分の二秒間隔で点滅する高輝度X線を、結晶とアモルファスの双方に照射し、その回折光のデータを収集、数理的な解析とシミュレーション処理を行うことによって、結晶とアモルファス相の三次元構造を解明することに成功した。その結果、結晶とアモルファス相の双方の構造に高い類似性があることが短時間に相変化が起こる原因であると判明、その成果に基づいて新たな高速・大容量の相変化光ディスク材料開発への道が開かれることになった。

現在は、相変化の反応過程における電子の動きを約百億分の二秒間隔で点滅するミクロンサイズのX線で追いかけているが、そのメカニズムの完全解明には、金属原子間の電子のやりとりをピコ(一兆分の一)秒単位よりも短いパルス光(周期的明滅光)で解析することが必要であり、それを実現するためにも、二年後の稼働を目指し急ピッチで建設中のX線自由電子レーザー(XFEL)の完成が待ち望まれているところだという。

高田さんらの応用研究はほんの一例に過ぎず、現在、SPring-8の放射光は、自動車用の高性能インテリジェント触媒の研究、スタッドレスタイヤの素材開発、次世代リチウムイオン電池の開発、髪の毛の細胞変化の原因解明やヘアケア新製品の開発、次世代CMOS半導体や光集積素子の研究開発などをはじめとする、諸々の産業分野においても広く用いられるようになってきている。

続いて高田さんに案内されたのは、まさにそのX線自由電子レーザー(XFEL)の実験棟であった。まだ研究開発と建設とが併進中のことでもあり、通常、一般人の見学は許されていない。だが、高田さんやXEFL計画推進本部チームリーダーである田中均さんの特別な計らいのおかげで、世界最先端をいくXFELの実験機をまのあたりにすることができた。

XFELとは、可視光線のレーザー光と同様に綺麗に波長の揃った高エネルギーのX線のことで、現在のSPring-8の放射光の十億倍もの輝度をもち、フェムト秒(千兆分の一秒のこと、光が〇・〇〇三ミリメートル進む時間)単位のパルス光(周期的明滅光)であるというのがその特徴だ。XFELを用いると、タンパク質分子一個の構造は言うに及ばず、より微細な原子・分子といったナノ構造体の三次元映像、さらには、それらが連続的に変化する様子などを直接観測できるようになるため、物質科学も生命科学も飛躍的に進歩することになるだろうと言われている。現在、アメリカやヨーロッパなどと猛烈な開発競争を繰り広げているところだが、SPring-8の実験機の性能と実稼働システム建設のペースは世界を大きくリードしているという。
世界の最先端を行くそのXFELシステムの根幹をなすのは日本の誇る「真空封止型アンジュレータ」である。既に述べたように、アンジュレータとは、ほぼ光速で進む電子流を電磁石で曲げることにより放射光を発生させる装置のことだが、従来のものは電子の走る真空タンクの外側に磁石列が配置されていた。なるべく波長が短く輝度の高いX線を得るにはアンジュレータの磁石列の周期の長さが短くなるようにしてやらなければならない。そして、そのために必要な磁場を得るには上下の磁石列の間隔を極力狭くする必要がある。だが、磁石列間に真空タンクを設置する従来型のアンジュレータでは両磁石列の間隔を一定以上狭めることは不可能だった。

それに対し、日本が新たに開発した真空封止型アンジュレータは、磁石列を真空タンク中に設置するため、電子ビームを削らない範囲で上下の磁石列間をいくらでも狭めることができるのだ。ただ、実用化に際しては、高い真空度をもつ真空タンクの製作したり磁力の減衰や消失を防止したりするために、これまでなく高いレベルの技術開発が必要であった。幸い、日本の研究者らの努力が実り、世界最高レベルの短波長・高輝度のX線を生み出す画期的なアンジュレータが完成した。SPring-8にはその装置が本格的に導入され、二年後のXFEL実稼働を目指し、現在二十七台が試験稼働中である。この真空封止型アンジュレータは国内での利用にとどまらず、海外の研究所などにも輸出されているという。

緑・赤・灰色基調のかなりカラフルなXFEL実験機を見せてもらいながら、田中さんからその優れた機能について詳しい話を伺った。それによると、全長四・五メートルほどの真空封止型アンジュレータを何台も連結したSPring-8の実験機は既に実用機としてのレベルに到達しており、二年後のXFEL完成とその本格稼働は間違いないという。海外の研究者も開発状況視察のためこの実験棟にやってくるが、いまにも実稼働可能なその実験機を目にして、例外なく驚きと称賛の声を漏らすとのことであった。

XFEL実験棟を見学し終えたあと、XFEL実用機設置の準備を行っている場所にも立ち寄った。そこでは特殊な大型研磨機を用いて実用機設置予定の床面を、千分の一ミリメートルレベルの誤差範囲内で平らな面なになるように磨き上げているところだった。その研磨機は他の用途のために開発されたものであるらしいが、ここでの作業遂行に最適だというので急遽導入されたのだそうである。極めて精度の高いXFELシステムは、震動に強く安定度の高いほぼ完璧な平面上に設置されなければならない。アンジュレータを多数連結してやるような場合には、千分の一ミリメートル単位のごく僅かな高低差でも、発生する放射光の波長や波形、さらには放射光による解析結果に影響が及ぶからなのだ。

現在のSPring-8の場合でも、地震などが起った時などにはその震動の影響が複震動となって放射光の波形中に現われる。スマトラ島沖地震の時などは、その地震波が地球を数度も周回する様子が放射光の波形に現われた複震動を通して確認観測されたという。誰もが予想だにしていなかったSPring-8の新機能の発見というわけだったが、その情報を公開すると、どうして管轄外のことをやるのかというクレームが気象庁から寄せられたりもしたという。

この日最後に案内されたのはセンター長室であった。東大教官からSPring-8に転出したという静岡県伊東市出身の石川哲也センター長とお会いし、高田さんも交えた三人で昨今の学術界の状況についてあれこれと歓談した。その中で主な話題になったのは、チャレンジ精神と問題発見能力とに欠ける近年の日本の大学生の憂うべき姿と、初等教育期にまで遡るその根源的な要因などであった。そのほか、国立大学の法人化に伴う基礎科学の危機的状況や、日本学術界の海外との交流度の低さにも話が及んだ。かなりの外国人研究者がいるというこのSPring-8についても、もう少しその数が増えてもよいのではないかというのが石川センター長の意見でもあった。

いったん高田さんの研究室に戻り、高田さんとお別れの挨拶を交したあと、まだ三十歳前かと思われる韓国出身の女性研究者に山陽新幹線相生駅まで車で送ってもらうことになった。来日し高田さんの指導のもとで研究を続けているというその女性は金(キム)さんといい、日本語のほうも驚くほどに流暢であった。まだ日本に来て四年ほどだということだったが、日本語の読み書きにも不自由していないそうだから、相当な努力家であるとともに、もともと知的に高い資質を具えた人であるに違いなかった。

相生駅に着くまでに、旅の話などをしながらすっかり息投合したのをよいことに、金さんのキャリアを訊いてみた。すると、彼女は、韓国の名門、釜山大学を卒業後直ちにアメリカのハーバード大学大学院に留学、そこでPh.Dの学位を取得、そのあと来日してSPring-8の高田研究室に研究員として勤務するようになったのだと話してくれた。見かけ上はまだ現役の日本の大学院生然とした風情で、堂々たるそんなキャリアなど少しも感じさせない女性だったが、そこは天下のSPring-8のこと、さもありなんと内心深く納得させられる有り様だった。

相生駅で再会を約しながら金さんと別れ、東京行きの列車に乗り込んだ。早朝に府中の自宅を出て兵庫県佐用町まで往復するというなんとも慌しい一日ではあったが、そのかわりに数々の貴重な見学体験を積むことができ、その意味ではとても充実した一日でもあった。帰宅したのは午前零時近くだったが、まるでSPring-8の放射光に全身の細胞が突然喚起されでもしたかのように騒ぎ立ち、床に就いてもすぐには眠られそうになかった。

カテゴリー 続マセマティック放浪記. Bookmark the permalink.