続マセマティック放浪記

4. 波勝崎のパイオニア猿

久々に見る波勝崎の野生猿

西伊豆の波勝崎周辺には現在約300頭ほどの野生の日本猿が生息している。久々にその猿たちの姿を見るために友人共々波勝崎を訪ねてみた。国道から分岐し、急角度で西に向かって落ち込む車道を十分ほど走ると波勝崎の広い公営駐車場に出た。そこで車を降り、見学料金を支払うと、専用のマイクロバスに乗せられて猿の集まる海辺近くの場所まで案内されるシステムになっている。以前は料金所のあるところから猿のいる海辺そばの小広い平地までの間を各自歩いて往復したものだった。だが、長年のうちに餌付けされ人間を恐がらなくなってしまった猿が、幼児のもつお菓子そのほかの持ち物を強奪するばかりでなく、大人たちのちょっとした隙を狙って財布やハンドバック、眼鏡などをひったくる事態などが頻発したため、安全上の配慮から専用バスによる輸送がおこなわれるようになったらしい。

もうずいぶん以前の話だが、ゼミの学生らを連れてこの地にやってきた時のこと、不用意なある学生が携帯用のナイフでリンゴの皮を剥きながら歩いていた。すると、突如、一匹の猿がその学生の背後から襲いかかり、その手からリンゴとナイフを叩き落とすと、すばやくそれらを持ち去ってしまった。幸い、彼は手首付近に軽い引っ掻き傷を負っただけですんだのだが、隙を狙いすましたその猿の手口は文字通り電光石火の早業とでも言うべきものだった。実はその小型万能ナイフは私が長年愛用していたものだったのだが、左右から迫る急峻な山の斜面の藪の中へとリンゴ共々持ち去られ、取り戻すことはできなかった。さすがに、その猿が手にしたナイフで観光客を脅し食べ物を奪ったという話は聞いていないので、不幸中の幸いと思うほかないのではあるが……。

我々ほか十人ほどのお客の乗ったバスは5分もしないうちに野生猿の観察用に建てられた施設の入り口に横付けされた。お客は皆すぐにその施設内に導き入れられ、そこから猿たちの生態を観察するようになっている。もちろん、気が向くようなら、そのあとで奥にある引き戸を開けて外に出、猿たちの様子を眺めることもできた。その施設の前面全体には大きな鉄格子がはめられており、屋外にいる猿たちのほうが檻に閉じ込められた状態の人間どもの顔を覗き込むという、通常とは逆転した状態になっているわけだった。できることなら、檻の外に「世界でもっとも獰猛な動物・人間」といったようなユーモアたっぷりの短い説明書きのひとつでもつけてほしいところだった。

鉄格子にはたくさんの数の親猿や子猿がぶらさがっていて、それぞれに格子の隙間から手を差し込んで檻の中の観光客に餌をねだっているところだった。彼らが中の人間に餌でも差し出すようになったりしたら、それはもう「猿の惑星」ものなのだがという妙な連想をしたりもした。施設内の売店には猿に与えるための餌をいろいろと売っていて、観光客はそれを買って思い思いに猿に与えることができるようになっていた。管理事務所も朝夕などの決められた時間毎に大量の餌を与えているようだから、野生とはいってみても、もはやここの猿の多くは生活保証付きの野生猿というわけだった。

我々もサツマイモのスライスの入った餌袋をひとつ買い、猿たちにそれをやることにした。人間の自然な心理として、まだ幼い子猿や、見るからに病弱な感じの猿に優先して餌を与えたくなってくる。しかし、そこは弱肉強食の世界とあって、こちらがせっかく幼い猿やひ弱そうな猿に餌を与えてやっても、すぐさま身体も大きく力も強い他の猿が何匹も襲いかかり容赦なくその餌を奪い取ってしまうのだった。かつて多摩動物園にお勤めだった霊長類の専門家、吉原耕一郎さんから、チンパンジー社会には食べ物の第一発見者がそれを食べるという暗黙のルールがあり、他のチンパンジーは物欲しそうな様子を見せはするけれど、力づくで横取りするようなことはないという話を伺ったことがあった。その話をもとに考えると、日本猿の場合はまだその段階まで社会性が発達していないということになるのだろう。

その折、吉原さんは、「日本猿などのボスは王様や皇帝みたいな存在ですが、チンパンジーやゴリラのボスは民間会社の社長さんみたいな存在なんですよ」という面白い話をしてくれたが、この波勝崎の猿たちの強いもの優先の生態を見ていると、確かにそういうことなのだろうと納得させられる思いだった。その観察用施設内には初代から十何代目かにあたる現在のボス猿までの写真がずらりと展示されており、あわせてそれぞれの猿につけられた名前も表示してあった。そこは東海道で知られる静岡県に所属する波勝崎のこととあって、清水次郎長一家ならびにそれにゆかりの侠客らの名前が付けられていたのも印象的なことだった。

冒険家、開拓者、それとも科学者?

しばらく施設内で猿たちの様子を眺めたあと、施設の奥側にある引き戸を開けて外に出てみると、施設周辺のいたるところに猿たちが思い思いの姿でたむろしていた。あるものはお腹を丸出しにして日差しの中で気持ちよさそうに目をつむって横たわり、あるものは仲間同士が集まって互いにじゃれ合い、またあるものは互いにノミを捕りあったり毛づくろいしあったりしていた。そして、猿たちのたむろする一帯のすぐ向こうには、荒波で磨き上げられた無数の玉石からなる綺麗な浜辺と青々とした伊豆の海が広がっていた。

すぐそばでそんな猿たちのさまざまな姿を観察していると、ひときわ堂々たる風格の猿が一匹どこからともなく現れて私の立つすぐそばの乾いた地面に横たわった。すると、まるでそれに媚を売るかのように別の大きな猿が遠くから駈け寄ってきて、はじめの猿のそばに近づき、手際よくそのノミを捕ったり毛づくろいをしたりし始めた。どうやら、デーンと仰向けに横たわり気持ちよさそうに目を細めながら相手に身を任せているのは一帯の猿の群を統括するボス猿のようであった。じっとその様子を観察していると、ひときわ赤い色をした性器や肛門周辺の手入れを丹念にやってもらっているではないか。そのあたりを清潔にしてもらうのは、人間同様にそれなりの理由があってのことらしかった。

一通りそこ猿たちの群の様子を見物し終えたあと、我々は観察施設のあるところの右手数百メートルほどの地点にある岬目指して磯辺伝いに歩きだした。猿もそして他の観光客もいないその岬近くに立ち、綺麗な海でも眺めながら深呼吸でもしようというわけだった。その岬一帯は小山ほどの巨岩をはじめとする大小無数の岩々が複雑に入り組んだ地形になっていて、その岩場のすぐ手前までは玉石の浜辺が続いていた。あまり風のない日のことだったので、この波勝崎にしては打ち寄せる波も比較的穏やかだったが、それでも岬の岩礁地帯では白波が激しく岩を喰んでいた。

野猿観察施設から200メートルも離れたところまでくると、もう猿の影も観光客の影もまったくなくなり、陽光に青く煌く海面と白く乾いた玉石の浜辺、そしてそこに打ち寄せる波の音だけがすべてとなった。我々は、半ば無言のまま岬のほうへと向かってなお歩き続けた。そして、前方の岩場の一角で繰り広げられているなんとも意外な光景を目にしたのはちょうどその時であった。それは、一匹の猿が海中にある小さな岩の上に乗り、時折片手で海面や海水中に手を伸ばして何かを採っては口にしている奇妙な光景であった。

遠目ながらもよくよくその仕草を観察してみると、どうやらその猿は岩に生えているアオサやノリのようなものを採って食べているらしかった。また時折なにか小さな生き物のようなものを採って食べてもいるようであったが、かなり離れていたこともあってそれが何なのかは確認できなかった。

そのあとどうするのだろうと見守っていると、その猿は見事な大ジャンプを披露してより沖にある小岩の上に飛び移り、そこでまた手先を岩の下方に伸ばしては何かをすくいとり口にしはじめた。そして、しばらくすると、また次の岩へと移動し、再び同じ所作を繰り返した。ジャンプに失敗し海中に落ちることはないのかとも思ったが、すべては計算済みであるらしく、なんとも巧みな身のこなしを見せながら、海中に飛び石状に並ぶ岩伝いになお移動し続けた。もしかしたら、たとえ途中で海中に落ちたとしても、泳いで岩に這い上がることぐらいはできるのかもしれなかった。

群から一匹だけ遠く離れ、本来の生息域とはまるで異なる海中の岩礁地帯に新たな活動と採餌の場を求めるその猿の姿にしばし見惚れていた我々は、やがてなんとも言いようのない感動をさえ覚えるようになった。他の猿たちが半ば野生の誇りを捨て、もっぱら人間の与える餌に依存するようになっているのに対し、この猿だけは自らの野生の誇りを堅持するかのように、孤高とも言えるリスク覚悟の単独行に徹しようとしているのだった。

どのような経緯があってそのような行動と知恵とを身につけるようになったのかはわからない。だが、人間社会にたとえれば、この猿は未知の世界に命懸けで挑む大冒険家か、未来の猿一族のためを思って新たな生活圏の拡大にチャレンジするパイオニアか、さもなければ、飽くなき探究心に燃え立つ大科学者にでも相当するのではないかと思われた。もちろん、世捨て人あるいは仙人的存在であるとも考えられなくはなかったが、その体型や行動ぶりからしてもまだ若い猿のようだったので、その可能性は低いようだった。

「まるで誰かさんみたいだよね!」

友人がニヤリと笑いながらそう呟いた。かねがね意味深な発言をすることの多いこの友人の言葉をそのまま受け取るわけにはいかないので、私はすぐさま問い返した。

「それは褒め言葉かい?・・・・・・それとも?」
「ふふふふふ・・・・・・。まあ、胸に手を当ててよくよく考えてみたらいいんじゃない・・・・・・」
「放浪癖があって、向こう見ずで、場当たり的で、好奇心ばかりがへんに旺盛で、しかも先のことなど何も考えてないところがかい?」
「よく分かっているじゃない!」
「似たもの同士のくせに、偉そうなことを言うじゃないよ!」
「まあ、状況的に見て、あの猿のほうが、誰かさんよりはずっと立派であることだけは間違いないと思うけどね」
「僕だってこれでもパイオニア精神のかけらぐらいはもってるんだぞ!・・・・・・あの猿には到底及びなどしないけどさ・・・・・・」

そんなたわいもない会話を交わしているうちに、その猿は岬の突端に鋭く聳える岩の小山へと飛び移り、外海に面するその大岩の向こう側へと姿を消した。そこでどのような行動をとっているのかを確認するすべはもはやなかったが、我々は思いがけなくも目にしたその猿の驚くべき行動にすくなからず感嘆しながら、観察施設のあるほうへと引き返したのだった。

カテゴリー 続マセマティック放浪記. Bookmark the permalink.