若狭神宮寺と鵜之瀬とは明通寺のある谷の西隣の谷筋に位置しているので、両谷筋を繋ぐ近道のトンネルを抜けるとすぐにお目当ての場所に着いた。意外に知られていないことなのだが、有名な奈良東大寺二月堂のお水取りの儀式は、この神宮寺や鵜之瀬と深い関わりがある。例年三月十二日に催される二月堂の「お水取りの儀」に先立ち、神宮寺の寺僧や神人らが遠敷(オンユ)川沿いの鵜之瀬というところで「お水送りの儀」なる秘儀をしめやかにおこなう。昔から伝わる白装束に身を固めた異形の人々が松明を掲げながら鵜之瀬にある深い淵のそばに立ち並び、毎年三月二日にその儀式をとりおこなうのだ、この古式ゆかしい「お水送りの儀」は地元ではとても有名で、儀式当日は遠敷川の谷筋一帯は大変な人出になるらしい。
伝説によると、若狭の国造りの祖で遠敷明神として祀られている若狭彦命が、奈良の都に参上した時たまたま進物を持参することを忘れてしまったため、そのお詫びとしてそれ以降毎年きまった時節に若狭の清水を都に送り届けるようになったのだそうだ。そして、そのしきたりが「お水送りの儀」と「お水取りの儀」として現在にまで伝承されてきたのだという。若狭の鵜之瀬と奈良東大寺二月堂脇の若狭井とは深く長い地下洞穴で繋がっていて、水源地の鵜之瀬から若狭井までその洞穴伝いに十日ほどかかつて水が送り届けられるのだそうだ。この洞穴の話は紫式部日記などにも登場しているようだから、奈良東大寺二月堂建立当時から伝えられている話なのであろう。
考古学や歴史学の研究からも明らかになっているように、若狭は、古来、大陸との間に深い文化的交流があったところである。そもそも、「若狭(ワカサ)」という地名は、朝鮮語の「ワカソ(往来の意味)」という言葉が訛ったものに「若狭」という当て字をすることによって生まれたものだろうと考えられている。この地方には、そのほかにも、かつて国府のあった遠敷(オンユ)や根来(ネゴロ)といったような朝鮮語ゆかりの地名がある。遠敷(オンユ)は朝鮮語の「ウォンフー(遠くに遣るの意味)」が遠敷「オンフ」と当て字され、さらに「オンユ」という発音に訛化したものらしい。また、朝鮮語の「ネ、コーリ(汝の古里の意味)」が根来(ネゴロ)という地名の語源であるともいう。そもそも、都の「奈良」という名称も、その語源は朝鮮語で同じく都を意味する「ナラ」という言葉にあるとするのが有力な見方のようである。
現在の小浜市のある若狭浦から遠敷、さらには神宮寺や鵜之瀬のある谷筋へと続く一帯は若狭の中心地として白鳳時代以前から開けており、この谷筋沿いの道は朝鮮半島や大陸から上陸した諸文化を大和奈良方面に運び伝えるための最短ルートでもあった。のちに発達する水坂峠経由の鯖街道などよりも古い主要交易ルートだったのだ。地理的にみても、神宮寺や鵜之瀬のある遠敷一帯と奈良・京都はほぼ正確に南北を繋ぐ百キロほどの直線上に位置している。
鵜之瀬のある根来白石の出身で神童と謳われた少年は、当時の名僧義淵大樹に託され、長じてのち、東大寺開山の良弁僧正となった。当時は神願寺と呼ばれていた神宮寺に渡来した印度僧実忠和尚が奈良の都にのぼり良弁を助けて東大寺を完成、さらに二月堂を建ててお水取りの行法を始めたのだという。そのような事情を考慮すると、お水送りの儀が若狭の鵜之瀬で行われるようになったのは、この地が良弁や実忠ゆかりの地であったからだということにもなるだろう。いま風の言い方をすれば、中央と地方との政治経済的な太いパイプを繋ぎ維持するための時の高僧や支配者らのしたたかな知恵の産物だったということにもなるのだろう。
鵜之瀬周辺は以前に比べると随分と整備が進み、駐車場もかなり広くなっていた。どこか神秘的な感じがし、いささかの凄みさえもあった昔の鵜之瀬の景観のほうが私の性には合っていたので、すっかり現代風に変貌を遂げた鵜之瀬を前にしては少なからず戸惑いを覚えもした。かつて鵜之瀬周辺にはかなり足元の悪い岩場や岩棚があったものだが、いまではすっかり舗装されずいぶんと歩きやすくなっていた。ただ、そのぶん、以前の野趣溢れる風情が失われてしまったことも事実だった。
渓谷を伝う清流がこの鵜之瀬では大きくカーブし、カーブの外側にあたる谷川の一角が深い淵を形成している。淵のある側のほうは高い崖になっておおり、その崖下に位置する淵の奥を覗くと、そこに横長の暗く深い水中窟の入口らしいものが見えた。周辺を多数の小魚が群れをなして泳ぎまわるその水中窟が実際にどのくらいの大きさと深さをもつものなのかはよくわからなかったが、一見したかぎりでは古来の伝説にあるほどに巨大な洞穴であるようには思われなかった。奈良からやってきているN君を、「この淵に飛び込めば十日後には東大寺の若狭井に成仏した姿になって着くから、試してみてはどうだい?」とからかったりもしながら、淵の中や周辺の川原の景観を皆でしばらく楽しんだあと、神宮寺へと向かうべく再び車へと戻った。近くの橋を渡ってすぐのところには「お水送り」の儀式に関する資料館があった。だが、あまりのんびりしていると、神宮寺や若州一滴文庫を訪ねる時間がなくなってしまうし、誰もが資料館そのものにはほとんど興味を示さなかったので、とりあえずそのほうの見学は省いてしまうことにした。
ところが、いまにも車が発進しようとした時、遠くから我々一行の様子を窺っていたらしい老人が大急ぎでこちらへと近づいてきた。何度もこの地を訪ねたことのある私には、すぐにその老人が資料館でお水送りの儀式などについての説明を担当している人物であるとわかった。老人は車の窓越しに、資料館のほうも是非見学してほしいと熱心に我々一同を勧誘しながら、なにやら宣伝パンフレットのようなものを差し出した。時間がないので残念ながら資料館には立ち寄れない旨を告げると、相手は如何にもがっかりしたような表情を浮かべ、せめて手渡したパンフレットにだけは是非目を通してほしいと言い添えた。車が発進してほどなく、そのパンフレットに目をやると、なんとそこに書かれていたのは、鵜之瀬のお水送りの儀式などとはまるで無縁な、NHKの朝ドラ「ちりとてちん」の紹介とその宣伝文句だった。どうやら、小浜が舞台となっているドラマ「ちりとてちん」を観てくれるようにと訪れる人々に伝え、そのことを通して小浜の知名度を高めようとする観光戦略の一環であるらしかった。
神宮寺へと向かう車中で私は先刻の老人から以前に耳にしたことのある興味深い話のことを思い出した。鵜之瀬の資料館を見学に来る観光客をつかまえては、老人は、「毎年地元の中学生らが、お水送りの儀式に先だって、この鵜之瀬の水中窟から水を詰めたペットボトル十本を送ってやることになっているんです。すると、なんと、そのうちの七~八本ほどは十日くらい経つと奈良東大寺の若狭井に届くんですよ。信じられないかもしれませんが、ほんとうなんですよ。あらためて機会をつくって皆さんも是非ともご自分の目でその事実を確かめてみてください」といったようなことを言葉巧みに語りかけてくるのだ。その話が事実か否かをこの場で科学的に徹底究明するという野暮なことをつもりなど毛頭ないが、すっかりその話に惹き込まれて感動し、若狭の鵜之瀬と奈良東大寺の若狭井にまつわる古来の伝説の虜になってしまう人も少なくないようだ。
すでに述べたように、若狭の鵜之瀬と京都・奈良はいずれも南北に延びる同一直線上に並んでおり、奈良は鵜之瀬の真南ほぼ百キロメートルのところに位置している。この鵜之瀬から奈良東大寺の若狭井まで地下洞窟や地下水脈が続いており、鵜之瀬側から若狭井側へと常時清流が流れているとするならば、それはもう地質学上の一大珍事象というほかない。もしそうだとしたら、地質学者らはこぞってそのメカニズムの解明に奔走することだろう。しかしながら、なんとも残念なことに、現実にはそのように熱心な研究者はこれまで一人も存在しなかったようである。
鵜之瀬から神宮寺までは車でほんの一走りだった。和銅七年(西暦七一四年)創建と伝えられるこの寺はその名称からもわかるように神仏混交の寺である。創建当初から神仏の双方を合祀するお寺であったようで、もともとは鈴応山神願寺と呼ばれていたらしい。神宮寺と改称されたのは鎌倉時代の宝治年間のことだった。神仏混交の寺ゆえに、明治初期に神道が国政の要とされ廃仏棄釈が推進された時代には、神仏分離令により社殿を毀し御神体だけを差し出すように命じられもしたのだという。しかし、密かに一計を案じた寺側は身代わりの御神体を差し出し、現存する本来の御神体は寺の本堂に秘蔵してその難を免れたのだそうである。お寺の境内の一角には、お水送りの儀式の時にも用いられるという、渾々(こんこん)と清水の湧き出る大井戸があった。
現在この寺に残る重要文化財の仁王門は鎌倉時代末期に建造されたものである。また、同じく重要文化財で、入母屋造り、檜皮葺きの本堂のほうは室町時代末期の再建になるものだ。境内のすこし奥のほうにある本堂に上がると、袈裟に身を固めた大柄の住職が我々一行の到来を待ち受けていた。ずいぶん以前にこの寺を訪ねた時の記憶では、ここの住職の話は相当に長くて、しかもその話し振りにはどこか威丈高な雰囲気があったので、仲間たちにはあらかじめそのことを伝えておいた。
明るさを抑えた本堂内には、藤原時代末期作の本尊薬師如来と脇侍の日光・月光両菩薩、奈良時代作と伝えられる千手観音菩薩、平安末期作の不動明王と多聞天、さらには鎌倉時代初期作の十二神将像などが、互いに威容を競い合うかのごとくずらりと並べ置かれていた。そして、それら仏像群と対等であることを誇示するかのように、鎌倉期作という重要文化財の男神(若狭彦)と女神(若狭姫)の両像が安置されていた。その有り様はまさに神仏混交のこの寺ならではのものだった。何度も火災に遭ってきたので創建当時の神仏像は残っていないらしかったが、そこに漂う独特の重々しい空気を通してそれなりの歴史の深さを偲ぶことはできた。我々一行はすくなからず神妙な面持ちになって、それら神仏像の前に正座して横一列にずらりと並んだ。
ところが互いに短い挨拶を交わしたあとで住職が発した第一声は、こちらが拍子抜けするほどに意外なものだった。
「えーと、長い説明と短い説明とがございますが、皆様はどちらをご要望でしょうかねえ。詳しく話せばいくらでも長くなりますし、簡略にということでしたらいくらでも短くもなりますが……」
以前とはまるで違う住職の様子に私が呆気にとられていると、左隣のN君がすかさず答えた。
「じゃ、ぜひとも短いほうでお願いします!」
「時代柄なんでしょうかねえ、昨今はなぜかそのようなご要望が多おうございまして……。当寺と致しましても、時代のニーズにそくした対応をとってまいりませんと、参詣なさる方々の数が激減してしまいかねませんのでねえ……」
その住職の言葉に一瞬堂内に皆の笑い声が響き渡った。かつてのような長くて威圧的な調子の解説に苦情でも寄せられたのであろうか、それともその言葉通り、時代を考慮して自ら思い改めるところがあったからなのだろうか、この日の住職の姿には文字通り別人の感があった。話はこの寺の縁起に始まり、お水送りの儀の由来や若狭や京都さらには奈良との地理的関係、さまざまな歴史的変遷、仏像や神像の解説にまで及んだが、折々ウイットとペーソスに富んだジョークを交えてのなんとも名調子のトークだった。相手の巧みな弁舌に引き込まれ、実際には相当長い時間その場に引き留められることになってしまったのだが、まあ、すくなくとも退屈はしなかったので、それはそれでよしとするほかなかった。
神宮寺をあとにする頃には時刻は既に四時を大きく回っていた。通常、若州一滴文庫は五時には閉まってしまうので、とりあえず一滴文庫にこれから伺う旨の電話だけを入れ、大急ぎで同文庫のある大飯町を目指して車を走らせることになった。