続マセマティック放浪記

32. 日本海を望む三大岬の美景:沈みゆく夕日をめでる

「岬」という文字は「山々が鋭く堅固な形をとって前へと雄々しく突き出すこと」を意味している。換言すれば、敗れ果てその命が燃え尽きるのを覚悟のうえで、大地が大海に最後の戦いを挑むところ――それこそが岬なのである。そんな「岬」という存在は、その荘厳な景観や地理的特殊性のゆえに、古来、悲喜交々な史話・伝説を生み出し、幾多の旅人の魂をその地へと誘い導き続けてきた。ただ、さしもの岬も、風光り若葉薫るこの時節だけは穏やかな姿を見せる。岬一帯では一斉に草木が芽吹き、陽光を吸って柔らかな緑の葉を輝かせ、野に歌う可憐な花々も咲き広がって爽やかな海風に身を委ね始める。そんな岬の美しい風景は、たとえ暫しのことではあっても、「日常」という名の重荷を背負ってただ黙々と人生の旅路を行く我々の疲れきった心身をこのうえなく癒し慰めてくれる。たまたまそれが真紅の夕日に彩られる刻限のことならば、岩上に長い影を落として岬に立つ者は、悠久の時を想い己の存在の何たるかを問う詩人や哲学者にもなった気分を味わうことだろう。深い思索と内省の場を求めて岬への旅を志す人のために、日本海に面する詩情豊かな三岬を紹介してみたい。

北海道積丹半島神威岬

神威岬は北海道積丹半島西北端に位置している。かつては、この岬の先端に向かうには、草内という集落付近から岬の北側の磯浜や岩場の続く海沿いの小道を五十分ほど歩くか、深い草地を上下左右に縫いうねる尾根伝いの細道を小一時間ほど辿るかしなければならなかった。「秘境」の名の通りに荒涼とした雰囲気の漂う当時の尾根道の入り口には、「日本で一番夕日の美しい所」と墨書された手作りの木製看板が一つぽつんと立っていたものだ。その看板には偽りこそなかったが、今と違って立派な駐車場もお客で賑わう土産物屋もなく、車は路肩に止め置くしかなかった。

積丹半島周回道路の完全開通に伴い、現在では立派な駐車場や諸々の観光施設が整備されており、以前に比べれば格段に訪れやすくなっている。岬の突端に通じる尾根道も「チャレンカの小道」と呼ばれる歩行の楽な木道に変わった。これからの季節、尾根筋一帯は柔らかな緑の若草に覆われ、黄金色のエゾカンゾウが涼風と戯れながら陽光の下で輝きわたる。急峻な左右の斜面越しに眺める青潮の輝きを満喫しながら二十分ほど歩き神威岬灯台脇を抜けると、海抜八十メートルの展望台に到着する。

眼下一帯に広がる海面はシャコタンブルーと呼ばれる青緑色の澄みきった輝きを発し、大小の奇岩の入り組む岬前方の岩礁地帯では純白の波の花が咲き開く。嵐の日には狂ったように激浪が牙を剥くが、それはそれで壮観そのものだ。琉球や薩摩の海の色にも似たシャコタンブルーが見られるのは、九州南方海上で黒潮から分岐する対馬海流が、この積丹半島周辺にまで到達しているからに違いない。さらにまた、それ以上に圧巻なのが海中から屹立する高さ四十一メートルの「神威岩」の奇観である。三角頭巾にドラキュラ風の巨大な黒マントを纏った怪人物の姿を想わせる、自然の生んだ大彫像の迫力に誰もが息を呑むことだろう。

だが、この岬で真の感動を体験したいと思うのなら、日本海を真紅に染める荘厳な夕日を眺めるにかぎる。もしもその気があるようなら、北側の磯辺に降りて旧道伝いに念仏トンネル付近まで歩き、神威岩の向こうへと落ちる神々しいまでの夕日をそこから拝むのもよいだろう。かつてこの神威岬一帯は後志地方と石狩地方間を回航する船の一大難所であった。特殊な地形が原因で常時激しい潮流や風浪が逆巻く場所だったからである。女人がこの岬に立つと、失恋のゆえに身を投じたアイヌの娘チャレンカの化身「神威岩」の怒りに触れて遭難死者が出るとされ、江戸末期の安政三年頃までは女人禁制の地となっていた。いまチャレンカの小道の入り口に立つ「女人禁制の門」はそんな歴史のモニュメントなのだ。

秋田県男鹿半島入道崎

男鹿半島南岸端の潮瀬崎から、かつて北前船の風待港として知られた半島西北部の戸賀方面へと進むと、奇岩や洞門の聳える光景が次々に現れる。この海岸線はナマハゲ伝説で名高い本山や真山の西側山麓端に当たっている。目指す入道崎は旧爆烈火口の戸賀湾からサイの角状にのび出す陸地の北西端にあって、ちょうど北緯四十度線上に位置している。何段にも発達した海岸段丘上にある入道崎周辺には、海へと向かって緩やかにくだる緑の草原が広がっている。これほどに広くなだらかな天然の芝生地をもつ岬は国内でもここだけだろう。初夏の頃なら、爽やかに潮風の吹き抜ける芝生の上で横にでもなって、眩いばかりの空の下で青々と揺れ輝く雄大な日本海の景色を楽しむとよい。海底透視船に乗り、岬下の岩礁地帯やその沖合の水島周辺で繰広げられる海中生物のドラマを観ることもできる。文化七年に日本民俗学の祖と謳われる菅江真澄も訪れたというこの水島の自然に触れるのも一興だ。

白黒の縞模様をもつ入道崎の灯台には三百六十度の展望がきくバルコニーがあり、そこからは、周辺の山々や海岸線の織り成す美しい景観に加え、遠く白神山地までもが望まれる。だが、この岬で何よりも感動的なのは西に広がる一面の大空と大海原とを真っ赤に染める落日だ。自然に合掌さえしたくなるその情景は必ずや終生忘れ難いものとなるに違いない。

時間が許すなら、ナマハゲの装束などが展示してある駐車場脇の食堂「なまはげ御殿ニュー畠兼」に立ち寄ってみるとよい。日本で初めて「海鮮丼」を考案し発売した店だそうだから、元祖の味なるものを賞味してみるのもおつなものだろう。

長崎県生月〈いきつき〉島大碆鼻〈おおばえばな〉

九州本島から平戸瀬戸の大橋を渡って平戸島に入り、さらに同島北西端の辰ノ瀬戸に架かる大橋を渡ると生月島に着く。西海国立公園の一角にあり景観的にも民俗学的にも実に魅力的な島なのだが、その存在を知る人は極めて少ない。東シナ海側に面するこの島の西岸には柱状節理の発達した垂直な玄武岩断崖が続き、その断崖線に沿って北に走る全長十キロほどの「サンセットウエイ」は日本海側に向かって突き出る最北端の大碆鼻に至っている。高度百メートルの断崖下に荒磯を望む大碆鼻灯台一帯は三百六十度の展望を有し、そこに立つと、西方遥かに広がる東シナ海とその水平線上に位置する天空を黄金色に染め変えながら沈む夕日を眺望できる。夕べに東の海から昇り朝方西の海へと沈む満月の、どこか魔性に満ちた輝きもこの岬ならではのものである。「生月」という名は古代の遣唐使一行がこの島で「一息ついた」ことに由来するとの説もあるが、天空に煌き水面に映えわたる月光の美しさもこの島の呼称と関係しているのではないかと思われる。

なお、この大碆鼻を訪ねる人にはこの島にある博物館「島の館」にぜひ立ち寄ってもらいたい。館内には、かつて「勇魚〈いさな〉漁」とも呼ばれ、見張り組、漁組、解体加工組、勘定組、鍛冶屋、網屋、油屋、魚肉屋と高度に分業・組織化されていたこの島の江戸期の和式捕鯨に関する重要な資料が、司馬江漢筆の克明な勇魚漁絵図と共に多数展示されている。また、もう一つの目玉は隠れキリシタン関係の第一級資料である。隠れキリシタンとなった生月島全住民は、仏教や神道を隠れ蓑にしながらがその教えを守り通した。仏壇や神棚裏の巧妙な隠し部屋や当時のままの各種秘具聖具類、なかでも、円形反射光の中にキリスト像が浮び上がる魔鏡の実物などは他に類のない貴重な歴史民俗資料として必見のものだろう。

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