続マセマティック放浪記

28. 斜めから見た朝青龍の初場所優勝騒動

「憎まれっ子世に憚る」という古来の諺を地でいくような朝青龍が、今年の初場所で久々の優勝を遂げた。品行がなっていないだの、日本の伝統を汚すだの、神聖な国技「相撲道」を冒涜しているだのと、テレビの視聴者相手にしたり顔で朝青龍をさんざんなじり、ひどく負け込んで彼が引退することを心中期待していたコメンテータ諸氏は、いまや、TVカメラの前で顔を引きつらせ、また時には苦々しい笑みを浮かべたりしながら、言い訳にやっきになっている。

白鵬を破り優勝が決定した瞬間の、悪ガキそのものの朝青龍の笑顔は、私には憎めないものに思われてならなかった。土俵上で観客に向かって両手を掲げ素直に喜びを表す朝青龍を、「いくら優勝したからとはいえ、神聖な土俵の上でのあの態度はなんだ」とか、「悪役としてのヒールな部分を演出する場と、横綱としての品格や威厳を顕示する場とは自覚的に区別して行動すべきだ」とか評し、おのれの安っぽい品格を隠そうとするコメンテータらの声など、いまさらクソ食らえと言うほかない。それが、かねて風刺漫画やギャク作品などを創作するのを仕事としている人物のものだったりすればなおさらだ。そもそもコメンテータなるものは、自分自身の品格のなさと愚かさをとことん自覚し、サーカスのピエロよろしく自らの人格や存在さえも心の底から笑い飛ばしてみせるくらいの冷厳さ、冷徹さがあってこそはじめて務まる仕事なのだから……。

「相撲は単なる格闘技なのではない。朝青龍のふてぶてしい態度は伝統的な国技としての相撲道のそれではなく、格闘技としてのそれである」などという、物知り顔の論評を聞くにいたっては、ただもう開いた口が塞がらない。古記にもある野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(ないまのけはや)にまつわる伝説にみるように、そもそも相撲とは戦う者の生死を賭けた壮絶な格闘技であったのだ。またその闘いの勝敗には、それぞれの力士を贔屓したり抱えたりしているその時々の権力者らのプライドがかってもいたのである。ご批判を承知で極論するなら、その時代の「力士」は「闘牛」的な存在だったのだ。「一年を十日で過ごすよい男」たちにはその分だけ壮絶な闘争心が要求されたのだ。

「すまふ」という古語は「争う」という意味をもつ。実を言うと、この「すまふ」、すなわち「争う」という言葉こそが「相撲」の語源なのである。もともと「相撲」とは相手に勝つことを至上とする「格闘技」にほかならなかったわけなのだ。

江戸時代の相撲史などをちょっと齧ってみればわかることだが、谷風や雷電為右衛門などをはじめとする昔の名力士らの背後には、彼らを抱えたり贔屓にしたりしている藩主や大商人らの意地と誇りと自己顕示欲とが見え隠れしている。今では想像もつかないような利害関係も蠢いていたらしい。勝つためには、買収などはむろんのこと、人目を忍んで刀傷沙汰に及ぶこともあったとさえ言われている。いっぽうまた、相撲を観る当時の庶民のほうだって、相撲取りが背負うそんな利害や因縁を百も承知で「相撲」、すなわち「すまふ」を楽しんだのである。そうだったからこそ、その時代の観客は熱狂し、錦絵も売れに売れたと言ってよい。

もし現代のそれが格闘技としての「相撲」ではなく、一部のコメンテータが言うように、このうえなく神聖な国技としての「相撲道」であるというのなら、神社仏閣の厳粛な儀式などに見るように、しっかりと儀礼手順を決め、間違っても朝青龍などのようなふてぶてしい力士が優勝したりすることのないように、初めから周到な筋書きを描き、お目当ての力士が優勝するように仕組めばよい。そう、率直に言えば、おおいに八百長をやればよいだけのことである。モンゴルや東欧、ハワイなどから人材を呼び集め、彼らを力士にして相撲を取らせることなどはじめから止めたほうがよい。

優勝した朝青龍に内閣総理大臣賞杯を授与するために、お世辞にも品格がお有りとは言い難いあのお偉い方が土俵上にお立ちになった。そして、こともあろうに、「内閣総理大臣賞…朝青龍…」と読み上げるべきところを「内閣総理大臣・朝青龍」と言い間違えてしまったため、多くの相撲ファンが見つめる前で朝青龍は内閣総理大臣に任命されてしまった。ご当人にすれば、選挙目当ての人気取りに絶好の場と踏んでのご登場だったのだろうが、結果的にはまたもや人気落ちにも繋がりかねない失態になってしまった。まあ、我々庶民の身からすれば、朝青龍に総理大臣を務めてもらったほうがよっぽどましなような気もするくらいだから、それはそれでいっこうに構いはしない。

ただ、一部の方々が崇め奉る「相撲道」なるものが、真の格式と厳粛な品格とを重んじる神聖な儀式だと言うのなら、権力の座に執着し選挙目当ての小細工に明け暮れる人物の土俵上への登場など真っ先にやめてもらうべきだろう。そしてまた、朝青龍を必要以上に厳しく糾弾する人々は、何よりもまず、自分が二十歳代だった頃はどの程度の品格の持ち主だったかをよくよく振り返ってみるべきだ。横綱審議会の委員の中には歌舞伎界の大御所などもおられるようだ。伝統芸能に通じた人物なら伝統を重んじるべき相撲の世界に物申すには適役だという発想のなせる結果なのだろう。その方は一連の朝青龍問題についてずいぶんと厳しい注文をつけておられるようであるが、その割には歌舞伎界の若い役者らの品性や行状がそれほどに立派でないのはいったいどうしたものだろう。なぜ力士だけがそれほどまでに品格を問われなければならないのか・・・・・・なんとも奇妙な話である。

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