続マセマティック放浪記

42. 大相撲界の野球賭博騒動に思うこと

このところの大相撲界は、諸々の力士や親方衆の野球賭博問題で大揺れしている。「日本古来の伝統を汚すものであり、横綱の品格をいちじるしく欠く」などと随分立派なこと言い、朝青龍の行為を声高に責めたてていたはずの一部の相撲評論家らが、今回の問題に関しては妙に口篭った物言いに終始しているのはなんとも滑稽きわまりない。伝統ある大相撲などというが、昔の相撲の力士は豪族や大名らのお抱えの身分になっており、そのお抱え主の名誉を賭けて他のお抱え力士と激闘を演じるのが務めだった。だから、その闘いには当然のようにさまざまなかたちで金品が賭けられた。身分の高い者から低い者までがそれなりのお金や物品を賭けて勝負の行方を楽しんだのだ。松江藩松平家お抱えの身で、名力士と謳われた雷電為右衛門などは、そのような社会背景のもとで名を成した典型的な力士であったと言ってよい。相撲というものはいつの時代も賭け事の要素を内在しながら発展継承されてきたものなのであり、そのような事実こそが大相撲界における長年の「伝統」の本質にほかならない。

いまでこそ日本相撲協会が相撲の興行を仕切っているが、少し前までは興行師と呼ばれる特殊な筋の人々がそのほとんどを仕切っていた。そして、日本相撲協会が表向き興行を仕切るようになってからも、その筋の興行師たちは見えないかたちで相撲興行を支えてきた。相撲通はもちろん、一般の相撲ファンのほとんどは内々そのことを承知のうえで大相撲を楽しんできたはずである。だから、あえて皮肉な言い方をすれば、彼らは、「反社会的勢力」どころか「親社会勢力」だったのだ。今回問題になったのは野球賭博のみであるが、以前から裏の社会などで相撲賭博が行われてきたことも周知の事実だと言ってよい。時々八百長とも思われる微妙な勝負が存在するのも、そのことと全く無関係ではないだろう。ただ、その裏事情を知り尽くしている力士たち自らが相撲賭博に参加したりするようなことはさすがにない。

相撲界を支える年寄株の継承や譲渡においては億単位のお金が動くと囁かれているが、実際そうであるに違いない。現役関取や元関取衆が新たに年寄株を取得しようとすれば当然莫大な額のお金が必要になる。表立って銀行などから借り入れることの難しい多額な資金の調達において、その筋の助力が不可欠になることも珍しくはないという。もしそうだとすると、資金を用立ててもらった側は、当然なんらかのかたちで陰の支援者にその見返りをしなければならないことになってくる。

今回の野球賭博騒動に関する報道番組などでコメンテータや解説者を務めている相撲通の評論家連中がそんな裏事情を知らないはずはないのだが、自らの保身のためもあってだろうか、けっしてそんなことに触れたりはしない。大関琴光喜や大嶽親方は所詮エスケープゴートに過ぎないのであって、この問題の根っこはなんとも深い。当面の事態の処理にあたる外部特別調査委員会の面々が、「これ以上我々には深入りできそうにない。これから先のことは警察の手に委ねるしかない」という主旨の発言をしているのも、そう考えてみると納得がいく。しかし、その警察だってどこまで踏み込むつもりなのかよくわからないし、たとえ踏み込んだとしても、結局、うやむやのうちに終わるだろうことは目に見えている。本気でやるなら大相撲自体をなくしてしまうしかないからだ。

マスメディアの一時的な綺麗事の報道を鵜呑みにして、大真面目に「反社会的勢力」、いや「親社会的勢力」なるものの存在を相撲界から一掃したりしたら、大相撲の伝統の存続など到底できはしないのだ。我々一般市民の個々の心中にもそのような不道徳な要素はいくらかなりとも内在している。人間というものはもともとそれほど上等なものではないからだ。大相撲界の野球賭博問題は、結局、そんな我々人間の矛盾に満ちみちた心や、それらの心の集合体である社会の反映でしかないのだろう。大相撲界に文字通りの清廉潔白さを期待する我々国民のほうにも問題は多い。この際、「国技」という言い回しを「国戯」に、また「公益法人」という表現を「貢益法人」あるいは「巧益法人」に変更してやれば、すべては都合よく片が付くのかもしれない。
テレビで大映しされる向こう正面の特別席に暴力団関係者が陣取っていたことなども先日問題になったが、私自身も一度だけ維持員席とかいうその格別な席に座らせてもらったことがある。いまはある大学の著名な教授になっている教え子の奥さんにタニマチ衆の有力者である親族がいる縁で、その教え子と一緒にそんな特等席で相撲見物をする機会に恵まれたようなわけだった。家で相撲のテレビ中継を観ていた娘の話によると、確かに我々二人の姿がはっきりと映し出されていたらしい。彼にも私にもいろいろな教え子や友人知人が多数いるから、それらのうちの誰かがテレビごしにたまたま我々の姿を目にしていたかもしれない。だが、たとえそうだったとしても、なんてアホ面(づら)した連中よと、一笑に付されていたかもしれない。

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