続マセマティック放浪記

35. 遊佐町 – 映画「おくりびと」のロケ地へ

翌朝は雨模様だった。早めに安達太良サービスステーションを発ち、山形道への分岐点にあたる村田ジャンクションを目指したが、東北道を北上するにつれて雨脚は激しさを増してきた。そして一時はワイパーをフル稼働させても前方が見通せない状況になったけれども、村田ジャンクションを経て山形道に入るとほどなく雨は小降りになった。蔵王連峰の直下を貫くトンネルを抜け、たまに講義にも出向いた東北芸術工科大学を右手に見ながら山形盆地に入ると、雨はあがり、曇天ながらもかなり視界は開けてきた。前方右手の月山連峰を遠望しながら走り、それからほどなく寒河江サービスエリアに到着した。このサービスエリア周辺には日帰り温泉や植物園、サクランボの展示販売所、ホテルなどの施設があって、車をサービスエリアの付属駐車場にとめたまま、徒歩でそれらの施設を訪ねられるようになっている。そこで気分転換を兼ねて駐車場の外に出た。

ちょっと時間が早かったせいで、植物園やサクランボの展示販売所はまだ開いていなかった。そこで日帰り温泉施設だけに立ち寄り、そっと中を覗いてみたが、タオルや洗面具を車中に置いてきてしまったし、少々お腹もすいてきたので、朝風呂は見合わせて車へと戻った。そしてサービスエリア内のお店で温かい朝食をとった。賞味期限が切れる寸前のサクランボなども値引きして売られていたので、程よい量の小パックを買い求め、それをデザートのかわりにした。寒河江には「チェリーランド」と呼ばれる諸施設の完備した大きな道の駅があるが、そこへ向かうにはいったん高速道をおりなければならない。まだ酒田方面まではかなりの距離があったので、土日の高速道路一律千円走行をここでやめるのはもったいなかった。だからチェリーランドへの寄り道も控えることにした。

寒河江サービスエリアを出たあと月山連峰の南西山腹を巻くようにして走行し、月山湖パーキングエリアを経たあと、いったん一般国道におりた。酒田方面へ向かう高速道路の途中のあちこちが未完成のためである。幸い、特別な処置がなされ一律千円走行には問題ないとのことだったので、安心して途中何度か高速道路と一般道とを交互に走行し続けた。鶴岡を通過する頃になると天候はかなり回復し、緑に輝く周辺の景観が展望できるようになってきた。鶴岡から酒田方面にかけての庄内平野一帯は、アカデミー賞に輝いた邦画「おくりびと」の舞台になった。もちろん、あの映画のシーンはかなり広範囲にわたる庄内平野各地の四季の風物を撮りそれらを合成編集したものなので、すべてが映画のままというわけではない。だが、南側から南東側にかけて連なる朝日連峰や月山連峰と北側に位置する鳥海山とに囲まれ、西側で日本海に面するこの地が、豊かな自然の景観を背景にしたその物語の舞台に選ばれた理由は、門外漢の身にもわかるような気がした。

鶴岡から庄内平野を北に向かっていっきに走り抜け、最上川を渡って酒田に入ると前方にのびやかな鳥海山の山影が見えてきた。高速道路の終点である酒田港インターチェンジで一般国道に下りると、酒田の街は素通りし、そのままさらに北上を続けた。目指すは鳥海山南麓に広がる遊佐町の田園地帯であった。秋田県へと続く国道を芭蕉の「奥の細道」にもゆかりのある吹浦へと向かって走ると、進行方向右手に道の駅「遊佐」が見えてくる。過去何度も通いなれたその道の駅に車をとめると、しばらく休息しながら軽い昼食をとることにした。

この道の駅では様々な地元の物産が展示販売されており、また、数々の出店が軒を連ねていて、土地の新鮮な素材を用いた美味しい手料理を食べさせてくれる。値段のほうもとても安い。個人的な好みもあるので一概には言えないが、魚介類の手料理と、しっかりと味付けされた串ゴンニャクがとくに私のお気に入りである。この時は、新鮮な地魚の刺身の盛り合わせ、大開きの焼き魚、イイダコの煮付け、ホタテの串焼き、そして串ゴンニャクを別々のお店から買い求め、休憩所のテーブルにずらりと並べて次々にぱくついた。それぞれがなんとも美味で量のほうもかなりあったが、値段にいたっては驚くほどにリーゾナブルなものであった。当初は軽い昼食をと考えていたのに、炭水化物抜きだとはいえ、結果的にはかなり重たい昼食になった。

道の駅での満ち足りた昼食を終えると、吹浦の駅のそばで右折して国道から分岐し、広大な遊佐の水田地帯へと向かってアクセルを踏んだ。しばらく走ると、田植えの終わったばかりの広々とした水田群の向こうに鳥海山の姿が大きく浮かび上がってきた。山頂一帯はまだ残雪で覆われたままである。鳥海山麓一帯に広がる遊佐の田園地帯から眺めると、その山容は大きな海鳥が左右に大きく翼を伸ばし広げたような形に見える。この山が鳥海山と呼ばれるようになったのはそのためなのだ。一面に緑の苗の揺れ広がる水田群の直中に分け入り、まったく人影のない畔道に車をとめて車外に降り立つと、思いきり四股を伸ばし、鳥海山に向かって深呼吸をした。

初夏の遊佐の田園風景は国内屈指の美しさを誇っている。観光ガイドブックなどで取り上げられることなどまずないのだが、五月末から七月初頭にかけてのその景観は息を呑むほどに素晴らしい。雄大な鳥海山の山姿を一段と引き立てるが如く吹き抜ける涼風も爽やかそのもので、心休まることこのうえない。それだけでも言うことないのだが、この時期を選んでそんな遊佐を訪ねたのは、いまひとつ、この地ならではの贅沢な気分に浸らせてもらうためだった。

車中に戻った私はリクライニングシートをいっぱいに倒し、そのあとおもむろにカーステレオのボタンを押した。流れ出したのは、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮・ベルリン交響楽団の演奏によるベートーベンの交響曲六番「田園」だった。コンサートホールで聴く田園はもちろん悪くはないが、日常の生活空間を遠く離れた日本屈指の田園風景の中で聴く「田園」の演奏はまた格別で、心が和むことこのうえなかった。私は半ば眠るようにしながらそこで二時間ほど繰り返し流れる「田園」に聞き入っていた。酔狂と思われるかもしれないが、実を言うとそれが目的で遥々東京からやってきたようなわけなのだった。

以前から、私は、自分の大好きな曲を聴くにあたっては、その曲にふさわしい情景や状況をそなえもつ場所に出向き、それを聴くように心がけている。たとえば、バッハのオルガン曲「フーガとトッカータ」を聴く時などは、一面が新雪で覆われた初冬の信州高ボッチ高原みたいなところに出掛け、深夜、満天の星空の下でその荘厳な響きに耳を傾ける。

北海道サロベツ原野の日本海に沿う道路「オロロンライン」を稚内方面に北上すると左手に利尻島の島影が見えてくる。この島の肩にかかる三日月はいつ見ても幻想的で息を呑むほどに美しい。太宰治の言い回しを拝借すれば、「利尻には三日月がよく似合う」というわけなのだが、三日月のかかるそんな利尻島の神秘的な夕景を眺めながら聴くワーグナーの「フライング・ダッチマン(さまよえるオランダ人)」は、感動で心身が震えるほどに素晴らしい。

「田園」を聴き終えたあと、鶴岡方面に向かうため遊佐の田園地帯を農道伝いにのんびり南下していくうちに月光川に架かる橋に差し掛かった。その名も美しい月光川は鳥海山の南側の谷筋を源流とし、遊佐町の田園地帯をほぼ東西に横切ったあと少し北上して日本海に流れ込む。月下の風景や水面に映える月影が美しいことから、どうやらそのような名がつけられたものらしい。月光川を横切るその橋を渡りかけたとき、橋のたもとに立つ案内板の大きな文字が突然目に飛び込んできた。それらの文字は、その地一帯が映画「おくりびと」のロケ地であることを誇らしげに伝えていた。

橋下そばの河川敷に設けられた駐車場に車を止めてあたりを見渡すと、周辺は河川敷を利用した広い公園になっていて、鳥海山を背にした対岸の草地の土手の上にぽつんと木製の小さな椅子が置かれているのが目についた。そして、次ぎの瞬間、私の脳裏に「おくりびと」の中で主人公がひとり河原の土手の上でチェロを弾く光景が甦ってきた。そこがあのシーンの撮影場所だったのだ。そうと知った私は、今一度徒歩で橋を渡って対岸の土手に立ち、左手に鳥海山を、そして右手に月光川の川面を眺めながら、前方に据え置かれた椅子のところへと歩み寄った。ごくありふれた造りの木製の小椅子は、土手の地中深くにその四本の脚部は埋め込まれ、しっかりと固定された状態になっていた。撮影が終わったあとも意図的にそのままそこに残されたのだろう。あたりには人影がまったくなかったので、私はその椅子にしばし腰掛け、撮影の際の様子などをあれこれと想像してみたりした。雪に覆われた山並みを背景に、水鳥が川面から飛び立つ印象的な光景などもそのあたりで撮影されたに相違なかった。

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