続マセマティック放浪記

23. 講演録「地方文化にいま一度誇りを!」(その8)

本田:どなたか遠慮なく、もっとご質問をなさってみてください。

観客B:私は隣の余市という所から来たんですけど、いま隣に坐っているこの子が、実は今年佐渡島から私の勤める余市の高校に入学してきました。私はこの子のいる寮の寮父みたいなこともやっておりますが、彼が絵にとても興味があるということで、たまたま今日両先生の絵を見せていただくことになったわけなんです。その地域の生活に深く根ざした、そこで実際に生活した方でなければ絶対に描けないような絵を実際に拝見さていただいて、彼にとってもとてもいい経験になったことだろうと思います。今後彼自身がどういう風に絵との関わりをもっていくのかわかりませんけれども・・・・・・。

彼の通っている学校は、勉強だけが優先ではない・・・・・・というよりはいわゆるお勉強なんか二の次の学校なんです。そんな学校に悩みながら入学してきた生徒なものですから、彼が今日のような話を聴いたら、途中で眠ってしまうんじゃないかと心配もしていたのですが、最後まで真剣に聞いていましたので、正直なところ驚いてもいます。先生方との素敵な出合い、ほんとうにありがとうございました。心から感謝申し上げます。それで、折角の機会ですから、この高校生に何か一言、本田先生や渡辺、貝井両先生からございましたら、短くて結構ですので、彼を励ます意味でもお言葉を頂戴したいと思うのですが。

渡辺: 絵が好きだとのことですが、今何歳ですか?

観客B:いま彼は15歳です。

渡辺:15歳ですか・・・・・・、一番多感な時だと思います。私自身、振り返ってみますと、父親が入院しておりました関係で、15歳の時にすでに一家を背負っておりました。私の父は私が小学校6年生の時に軍属でフィリピンに行きまして、敗戦直後に山中に逃げ込み半年たって捕虜になり、しかもマラリアと結核に感染してフラフラの状態で帰国してきたんです。もともとは大工だったので軍属となり海軍の設営隊の一員として舞鶴からフィリピンに渡ったんです。軍属の証明があれば、病気になっても国がちゃんと面倒をみてくれたんでしょうが、その肝心の証明書なかったんですよ。だから私はいまの中学3年生くらいの年のころ――もちろん、私は小学校しか出ておりませんが――、役場に頼みに行ったら、証明書がないとだめだと言われ、大阪に中隊長がいるから探しに行って来いということで、一度も汽車に乗ったこともない15歳の田舎者が大阪まで出向き、結局は相手の所在がわからぬまま、焼け野原の中を彷徨って戻ってきたりもしました。

そんなわけで、父親の薬を買うのに、土方仕事に行ったりしてました。まだ、その時は炭焼きの技術は身につけていませんでしたからね。そして、舞鶴市まで薬を買いに行くのに朝の暗いうちに家を出て、最寄の鉄道の駅まで歩いて一山越えたものです。だから絵を描くどころの騒ぎではなかったんですけれど、今思うとそんな生活が私の絵の出発点というか、原点であったわけなんです。

ですから、手先だけで絵を描くということだけでなく、心の中で絵を描く・・・・・・。なにも考えずにひたすら生きるといいますか、日々の生活を自分なりに精一杯頑張っておれば、いつかそれが絵となり、自分の人生の証となって自然に現れ出てくるものだと思います。もちろん、その当時はそんなことなど思もしていませんでしたが、私は15歳の時から家族を養うために朝から晩まで汗水たらして働いていまして、やっと20歳になったときに油絵具というものを買うことができました。貝井君に触発されましてね・・・・・・、彼がいたから20歳の時に油絵を描いてみようという気にもなったような訳でして。
いまとは時代も違いますが、ともかく、そういったような出合いというものなども大事にして、これから精一杯、一日一日を大切に生きて欲しいなと思いますね。私にはそのくらいのことしか申し上げられません。それも、ただ私の人生を振り返ってそう感じるだけのことですから、私には「こうでなければならない」という偉そうなことなど一切言えません。

貝井:私の場合は、忙しいから絵が描けるんですわ。よけいに暇があったりしたら絵を描く気にならないし、後からやれるという気持ちになって、かえって絵が描けなくなってしまうのではないかと・・・・・・。ともかく仕事をしました、夢中になって仕事をしてたんですよ、15歳くらいの頃は・・・・・・。小学校を終えたらすぐ巾着網の仕事をしたり、舞鶴の造船所に行って働いたりしましてね。それでも絵を描くことは好きなもので、いつもポケットにスケッチブックを入れておいて、飯を食いながらも自分の前にいる人を描いてみたりしました。ともかく人間を描いてみなきゃならんというわけで、忙しい時でも寸暇を惜しんで描き続けました。まあそういうことですから、まずは仕事を夢中になってやることです。そうしておいて、無性に絵が描きたくなってきたら仕事の合い間を縫って描く。暇だったら描けるっていうようなものではないです、絵というものは・・・・・・。

渡辺:無理に描くのだったら何にもならない。自然に描くのでないとね。私は炭焼きのために山に行った時など、弁当を包んでいる古新聞、それもどこかからもらった古新聞だったんですが、それに自分で焼いた消し炭で山の木を描いたり、炭窯を描いたりした憶えがあります。いま貝井君も言ったように、暇だから絵が描けるというものではありません。忙しい日々の生活を通して自然に心の中に湧き上がってくる何かがないといと、いい絵は描けないと思います。

本田:僕が言うことはもう何もないとは思うのですが、ちょっと渡辺さんのお話を補足しますと、先ほどちょっとお話しした「うつむく」という作品は、実はセメント袋に描かれているんですね。渡辺さんは絵を描く紙が買えなかったから、セメント袋を切り開いてその上に絵を描いたんです。また、いろいろな材料を集めてきては自分で絵具を練ったり、河原の葦の茎を使った葦ペンや菊の根をほぐして作った絵筆で絵を描いたりもなさった。当時の自画像の作品などは使い古しのベニヤ板に描かれているんです。その頃の厳しく貧しい生活の中で、渡辺さんは、どうしても表現せざるを得ないような心の奥からの「自己表出」とでもいうべきものを絵になさったんだと思いますね。だからこそ、感動的な作品になっているわけで・・・・・・。

本田:それから先ほどお尋ねいただいた件に私もお答えしておきます。ご紹介いただいた私のプロフィールから致しますと、これまですんなり生きてきたように思われるかもしれませんが、私にも数々の出来事がありました。高校の時も勉学費を捻出するためにいろいろアルバイトをやっていましたし、教師に自分の思いを理解してもらえなかったことなんかもずいぶんとあったんですよ、ほんとうはね……。一応、進学したのは受験校だったんですが、田舎の中学からその高校に入ったものですから当初は文字通りの劣等生でして、特に英語の成績などはまったくひどい状況でした。能力別クラス分けなんかをされて、当然のように一番下位のところに入れられましてね。

今でも忘れはしません。私ともう一人、種子島から来ていた級友がいたんですが、二人ともからっきし英語ができない。二年生の時のこと、授業中に当てられ訳すようにといわれた英文の中にハンサム(handsome)という言葉が出てきたんです。訳せなくて困っていましたら、その時の英語の先生から、「お前は丸坊主でちょっとはかわいい顔をしているけど、お前みたいな奴は将来絶対ハンサムにはなれない。なぜならハンサムという英語は知的にも人格的にも立派な人間のことを意味しているんだから」と皮肉たっぷりの言葉を頂戴したりもしました。とにかくそんな風に集中砲火を浴びる状況の中で、とうとうある時期から開き直って、範囲の決まっている学校のテストのほうは無視して、自力で対訳本探しそれを読み漁るようになりました。結果的にはそのことが幸いし、自分で英語の読解力をつけることができ、大学受験にも対応できる実力をつけることができたのでした。

それにまた、高校時代には既に天涯孤独の境遇になってしまいましたから、受験勉強をするよりは、自分の内面にある根本的な問題を解決するほうが先だったんですよ。ですから、本だけはよく読んでいたんです。ところが、ある日のこと、たまたま授業がなく自習になったというので、周囲がいわゆる受験勉強をやっているときに、私だけはドストエフスキーの『白痴』という小説を読んでいたんです。ところが、はっと気がついてみると、教師がすぐ脇に立っていました。「お前は何をやっているんだ。周りは皆勉強しているじゃないか」と叱られましてね。そこまで言われたから、「先生、僕も勉強のつもりでこの本を…」とちょっとだけ弁明しかけた途端に、襟元をつかまれて2~3発殴られまして……。でも不思議なことに腹が立たなかったんです。スーッと血の気が引く感じがしまして、「ふーん、教師ってそんなものなの?」っていう白けた思いになりました。いわゆる開き直りというやつですね。

さすがにその時は、気持ちがおさまらず3~4日学校をサボったんです。そして、なけなしのお金をはたいて宮崎県の都井岬という所へ行き、ぼんやりと海を眺めていました。そのまま学校をやめようかとも思ったのですが、結局、一旦学校に戻ったのです。もちろん怒られましたけどね。ただ、いまでも有り難く思っているんですが、一人だけ立派な先生がいらっしゃいましてね。政治経済の先生だったんですが、「お前の気持ちはわかるが、いい加減な俺を見ればわかるように、教師というものは皆が皆人格者ではないんだ。ただ、お前みたいな年齢の奴らは誤解しやすいから一言だけ言っておくが、教師が持っている教育技術と、その教師の持っている人格とは、当面分けて考えるようにしないと、結果的にはお前が損をすることになってしまうぞ。教師の持つ教育技術にだけにはそれなりに対応して、いまは知識の習得をしておけ・・・・・・。もしも、どうしても教師の人格を批判したいのなら、あと10年経ってお前がもう少し成長してからにしろ。ただ、いまから10年経ってお前が成長し、すべての面でほんとうに力をつければ、馬鹿馬鹿しくてそんな批判などする気にもなれないだろうけどな!」と諭してくれたんですね。それでも簡単に納得はしなかったんですが、最終的には、その先生の言葉には一理あると思い、いま一度考え直して踏み止まりました。そうでなければ、私の人生はまるで違ったものになっていたことでしょう。

(岩内地方文化センターにて 講演:本田成親)その9に続く

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