続マセマティック放浪記

17. 講演録「地方文化にいま一度誇りを!」(その2)

大学院を経てアメリカの大学へと留学したのですが、向こうでは、真の天才とはこのような人たちのことを言うのかというほどに驚異的な能力の持ち主に出会いもしました。そして、残念なことではありますが、そこではっきりと数学研究者としての自己能力の限界を見て取りもしました。たとえば、十代前半で大学院に飛び級入学してきたという男の子を目にしたことがありました。日本とは教育制度の異なる欧米などではよくあるケースのようなのですが、この子の能力ときたら、ただもう神業としか譬えようがないほどのレベルのものでした。しかも面白いことに、数学の研究発表をやっている時は凄いのですが、フリーの時間にはもっぱら楽しそうに遊ぶ年齢相応の子供に戻るのですから、そのギャップがなんとも面白かったのですね。ともかくも世界のあちこちにはこの種の天才がすくなからずいるわけなんですね。その男の子などはのちに「曲面の魔術師」という異名をもつ大数学者となり、なんと二十代後半にして数学界のノーベル賞といわれるフィ―ルズ賞をもらいもしました。

これもよく知られている話ですが、インドや中東出身の数学者のなかには信じられないような数の識別能力をもった人物などがいたりします。皆さんのなかには、碁石が9個あるか10個あるかを一瞥しただけで識別できる人はいらっしゃらないでしょう。もちろん、私にもそんなことはできません。ところが、驚いたことに、彼らは100個ぐらいまでなら瞬間的に個数の見分けがついちゃうんですね。碁石が99個あるか100個あるかを瞬時に識別できるというのですから、おそれいるしかありません。話に聞くところによりますと、ラフマニジャンというインド人数学者などは、なんと330個ぐらいまでの識別ができたそうなんですね。

そういった特殊能力をそなえもつには、育った環境とか、歴史的あるいは文化的理由とかいったような、何らかの特別な背景があるとは思うのですが、ともかくこういう人たちを相手に直観力がものをいう数論や、高度な空間認識能力が不可欠な多次元問題の研究などを競ってみたって到底太刀打ちできません。こういった凄い能力をもった人たちを間近に目にしてしまうと、自分の能力なんて高が知れたものだと思わざるをえませんでした。それでもまあ、私は私なりに精一杯頑張ってはきたのですけれども……。

日本人にも広中平祐(数学者:1931~)先生みたいな例外的大数学者もおられるのですが、以前にその広中先生にお会いする機会があったとき、面白い話を伺ったことがあります。「僕は京都大学の大学院を途中で辞めてこっちの大学にやってきたんだけど、その僕がフィールズ賞を受賞できたのは、実をいうと英語ができなかったお陰なんだよ」とおっしゃるので、「広中先生、それはどういうことですか?」とあらためて伺いなおしてみました。すると、「僕はもう全然英語が出来なくてね。こちらの大学にやって来たまではいいんだけれど、そのため授業がさっぱり理解できなくって……。留学してきた手前もあるからすぐに日本に戻るわけにもいかない。仕方がないので、自分で何かテーマを探し出すしかないと思いなおし自室にこもってあれこれやっていたら、たまたま『多様体の特異点の解消問題』に行き当たってね。運よくその研究が成功したっていうわけなんだよ」とおっしゃったんですね。半ば本音、そして半ば冗談といったところだったのでしょうか……。広中先生はその話をいろいろなところでなさってもおられましたね。

そんな情況の中で、私は自分の能力というものにさっさと見切りをつけ日本に帰ってまいりました。そして母校の大学で教官をやっていたのです。先端の数学の研究というものは10代から20代にかけてが勝負どころなんですが、すでにその年齢は超えてしまっていましたし、またそれ以前に自分の能力の限界もありましたから、私はせいぜい三流の数学者に過ぎなかったのです。ただ、それでもなんとか優秀な研究者を育てたいとは思っていました。

多少偉そうなことを言うようですが、大学の教師というものは、学部や専攻を問わず、「自分の研究でここまでのことはわかっている。けれども、ここから先はわからない。だから、自分の研究をステップストーン(踏み石)にして、先に進んでいってくれよ」ということを学生らに率直かつ明快に提示することができなければならないと思うのです。もっとも、なかにはそうでない先生方もずいぶんといらっしゃるようなんですけれども……。

ともかく、私自身ははそう考えていましたので、それを実践に移そうとし、アメリカの大学並みの真剣な授業をやろうとしました。ところが、ちょっと厳しいことをやろうとすると、なかなか学生がついてきてくれないんです。もちろん、ちゃんとアフターケアーもするつもりでいたのですが、すこし骨のある講義をしようとすると、ドロップ・アウトする学生が続出しかねなくなりまして……。いっぽう、教務科などからはあまり落第させられると対応に困るなととも言われましてね。

数学者としての能力もすでに峠を越えていたことですし、またそんな状況のもとにあっては真剣に講義をすること事態が徒労になりかねませんでしたから、もはや大学の教師をやっている意味などないと考えるようになりました。家族の生活もあることゆえ、正直なところいささかの迷いはありましたが、結局、大学を辞めてフリーランス・ライターに転身することにしたんです。言語表現の世界には昔からとても関心がありましたし、また、すでにお話しましたように旅の世界への強い憧れなどもありましたから、なんとかしてそのための時間をつくろうと決意したのでした。「旅をしたいから大学を辞める」というと、関係者は誰もほんとうにはしてくれませんでしたが、当の私は半ば以上本気だったのです。
もちろん生活は厳しくなるだろうと思ったのですが、ある程度そうなるのはやむをえないとも考えました。ともかくも、そうやって、必要最小限の費用しかかけない貧乏旅行ではあましたけれども、憧れの旅に身を委ねながら執筆という新たな世界に乗り出すことができるようにはなったのです。

さて、数学の話はこれくらいにして、こんどは旅の話のほうに移ろうと思います。私はこのところずっと日本の旅にこだわってきています。私も若い頃に海外に出ておりますし、けっして外国を旅することが嫌いなわけではありません。ただ、言葉というものにあらためで深い関心を持ちはじめてからというもの、日本語による表現の対象となるべきなのは、やっぱり日本の自然や文化なのではないか――そうだとすればなるべく日本にこだわることにするべきではないかと考え、以来、日本の旅に徹するようになりました。

日本地図を見るといろいろな岬がありますよね。出来れば、それら日本の有名な岬と海岸線を全部走行踏破したいと思いましてね、「末端癖愛症」と自認もし、友人知人からもそうからかわれているのですけれども、実際に時間をかけてそんな旅を始めてみました。たとえばこの北海道に関しましても、陸路伝いに車で行けないようなところは、歩いたり船で行ったりしまして、その岬と全海岸線を隈なく訪ねまわっています。実は去年、秋田の入道崎を訪ね、これで国内の有名な岬の全踏破がなったと思ったのですが、なんともう一ヶ所だけ行っていないところがあることが判明したんです。大分に国東半島というまるい形の半島があります。この国東半島そのものには過去何度も行ったことがあるのですが、この半島には突端らしいところがないものですから、ついついその海岸線全体を一周するのを忘れておりました。そこで、先日、もう一度国東半島に行って参りました。それで日本の有名な岬とおよその全海岸線は踏破完了となったわけです。

まあ、そんなバカなことをやっているわけでして、朝日新聞のある編集者からは「動く国土地理院」とか「動く5万分の1」とかいってからかわれています。野々村邦夫さんという元国土地理院長の方から、「やっぱりあなたも地図が好き」という風変わりな記事執筆のための取材を受けました(編註:財団法人日本地図センターホームページ連載「やっぱりあなたも地図が好き」http://www.jmc.or.jp)。1回目は兼高かおるさんで、私は4回目の取材対象のようでした。今回もそのライトエースに乗って北海道にやってきたのですが、今年でお釈迦になる20万km余を走ったその車や、いつも車にぶらさげて走っている手造りの貝殻のお守り――これは宗谷岬の安田石油店という日本最北端のガソリンスタンドで給油の際にくれるものなのですが――などの写真もインタビュー記事と一緒に掲載されています。

まあ、そんな旅を続けるうちに自分なりに見えてきたことがくつかあります。その一つは、地方の顔ともいうべき地方文化というものがどんどん失われ、通り一遍になってしまいつつあるという事実なんですね。学生時代に訪ねた頃の各地の状況がまるで変わってしまっているんです。変ってしまっているだけならまだよいのですが、現実にはいくつかの重要な地方文化がすっかり姿を消してしまっているんです。

例えば私が育ちました鹿児島県の甑島へ行ってみましても、子どもたちの生活状況がまるで変わってしまっています。あんなに豊かな海があるところの子どもたちでさえも、学校のプールで泳いでいるんですね。タイムを計って何秒単位までチェックするのが当たり前になっているものですから、それが逆効果となって、もう磯で泳いだり、海に潜ったりすることができなくなってしまっているんです。日本国中でこの種のおかしなことが起っておりまして、なんともはや困ったものだと思っているような次第です。

当然のことですが、島の人たちにもそれなりの責任はあるんですよ。自分の育った島の悪口を言うつもりはないのですが、都会の人たちに観光に来てもらうには綺麗なホテルを建てたりしなければならないと考えてしまうんです。それは大きな誤解なんですけどね。道を舗装整備しなければならないとか、安全のために照明器具類を完備し暗い場所を一掃しなければならないとか、とにかく間違った方向へと対応が進んでしまうんですね。

「実際にはそうじゃないんですよ。都会の人は意外にタフで好奇心が旺盛で、むしろ昔ながらの古い民家とか、明かりのない浜辺とかへ喜んで出かけようとするんですよ」と言ってもなかなか理解してはもらえません。離島振興政策などで国家予算が注ぎ込まれるのはよいのですが、何か目に見えるものに変えなければならないというわけで、どうでもよいものをどんどん造ってしまう。残念ですけれども、そんなことが重なって南国の島々などでは、もうかなり自然が失われてきてしまっています。

典型的なのが三面がコンクリートで固められた水路です。昔、小魚や様々な水生生物がいた小川や田の畦沿いの水路などがすべてコンクリートの底面や側壁で固められてしまっています。そうしますと、水質が無機質になり植物性のプランクトンなどが海に流入しませんから、海が磯焼けを起こし、豊かな海草がまったく育たなくなってしまう。海草が育たないから魚が繁殖しなくなり、結果的に魚が捕れなくなってしまうのは当然なのに、地元の人たちは事態の根源を考えることなく、魚が捕れなくなったと嘆いてばかりいるんですね。

最近の日本の文化の流れを考えてみますと、ほんとうは薄っぺらなものであるにもかかわらず、見かけだけは華やかそうな中央の文化が、中央主導のマスコミなどを通じて中央から地方に向かって一方的に流れ込み全国の津々浦々まで浸透していく構造になっています。実際には中央文化というのは、張りぼて的で中身がなかったり、海外のマネごとが殆どだったり、しっかりと国内に根付くことなのない一過性のものだったりすることがほとんどなのですが、どうしてもそういうものを有り難がる風潮ができてしまっている。そんな中で、地方の人々が自信を失いかけているという気がしてなりません。ほんとうはそうじゃないんですけどね。もちろん、よく言われますように、かつての経済発展重視の社会状況の中で、地方文化を守る人々が自信を喪失したということや、様々な経済的較差の解消などが優先されざるをえなかったという事情はあるにしましても……。

今回私は木田金次郎美術館の展示作品を拝見致しましたし、こちらの郷土館も見学させていただきました。岩内の文化はむろんのこと、私の田舎の甑島などにもまだそれなりに素晴らしい島特有の文化が残っておりますが、そういった地方文化というものは、実は日本の文化の「筋肉」そのものだと考えられるんですよ。一個一個取り出したら地味なものなのですけれども、実はそういう「筋肉」がたくさんあって、日本文化全体が構成されているわけなんですね。日本の文化などというものは、そしてそれを象徴しているように見える都会の文化などというものは、もしも地方文化という目に見えない筋肉がなかったら、現実問題としてたちまち崩壊し雲散霧消してしまうのです。ですから、そういう意味での地方文化というものを私どもが今後どうやって維持し、どう誇りを持ちながら守り通していくべきかを、真剣に検討していかなければならないと思うようになりました。

(岩内地方文化センターにて 講演:本田成親)その3に続く

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