続マセマティック放浪記

45. 川畠成道さんのヴァイオリン・ソナタ演奏を聴いて

去る9月11日、川畠成道さんのヴァイオリン・ソナタの演奏を聴きにでかけた。毎年9月に紀尾井ホールで催されるこのソナタ・シリーズの演奏会は今年で第7回を迎える。今回のピアノ伴奏者は岡田博美さんだった。川畠さんとは長年の親交があり、折々ご招待にも預かることなので、このソナタ・シリーズには毎回必ず足を運ぶようにしている。

1770年代にガダニーニによって製作されたという名器は、例年にも増して惚れ惚れとするような音を奏で出した。ヴァイオリンというものは、名器であればあるほど、演奏者に抜群の才能と技量がないと弾きこなすのが難しいそうだから、今回の演奏がとくに素晴らしかったということは、はからずも、このところの川畠さんの一段の成長ぶりを物語っているともいえる。

曲目にもよりはするが、1998年にデビューした当時の川畠さんの奏でるヴァイオリンの音は、全体として繊細でこのうえなく澄みきった響きをその特徴としていた。心の琴線に激しく甘く触れるその音を耳にして、思わず涙ぐんだ人も少なくはないことだろう。ビクターからリリースされているファースト・アルバム「歌の翼に」を聴けば、一昔前のそんな川畠さんの演奏ぶりがありありと甦ってくる。だが、それから十余年を経たいま、川畠さんが奏で出す音は、哲学的な思索の高まりや人生観の深まりを偲ばせる、力強く、それでいて落ち着いた大人のそれへと変容を遂げた。むろん、デビュー時の純粋さや繊細さを秘めた音を失ったわけではないが、いま川畠さんの演奏の中核を成すのは、厳粛かつ荘重な響きの音である。名器ガダニーニがその主(あるじ)の人間的成長に呼応して深みのある音を発し始めたということなのだろう。ここ十年、川畠さんには公私にわたって慶事・不慶事いろいろなことがあったのだが、着実にそれらを乗り切って心身両面でひとまわりもふたまわりも逞しくなった結果であるに違いない。奥さんとなられ、その温和な人柄をもってしっかりと成道さんをサポートしておられる知子さんの尽力も大きい。

今回のソナタ・シリーズの曲目は、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第2番イ短調、ロベルト・シューマンのヴァイオリン・ソナタ第1番イ短調、クララ・シューマンの3つのロマンス、そして、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番ニ短調の4曲だった。軽い小曲と違って、ソナタ形式の大曲はヴァイオリン奏者にとっても演奏するのは容易でない。ましてや、必ずしも音楽通ではない一般聴衆の心をその演奏のみをもって魅了するのは至難の業と言ってもよい。しかし、川畠さんはその難事を見事にやり遂げ、会場の聴衆を深い感動の渦の中に惹き込んだのだった。

毎回のことだが、演奏会で配布されるプログラム・リーフレットの中で、川畠さんは自らの言葉を用いたとてもわかりやすい曲目解説を書いている。それによると、今年はシューマンの生誕200年に当たっているそうで、川畠さんは、冒頭の挨拶において、「シューマンを支えたのが妻で名ピアニストだったクララであり、この2人から身近にあって最も強い影響を受けたのが1853年に夫妻のもとを訪れたブラームスであった。そこで、本日は、作品を通じて互いに愛情と尊敬の気持ちを抱き、それぞれの芸術を高め合ったであろう3人の本質に少しでも近づきたいと願っております」と述べている。

また、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第2番の解説では、「彼の一生を支配し続けたともいえるクララ・シューマンとの交流は、彼に何をもたらしたのであろうか。もしかすると、恩師シューマンの妻に理想の女性像を求めたブラームスの苦悩が、彼の心の叫びとなってその作品形成の一端を担っているのかもしれない。しかしそれは、眩い春の陽射しとしてではなく、暮れかかった晩秋の淡い陽射しのごとくに私の心に訴えかけてくるのである」と述べている。さらに、ロベルト・シューマンのヴァイオリン・ソナタ第1番の解説では、「シューマン夫妻の結婚記念日は9月12日であり、シューマンはその日に合わせて自身初のヴァイオリン・ソナタを書き始めたのかもしれない。しかし、その内容は、喜びに溢れているというよりはむしろ焦燥感漂う曲調となっている。それは、その後のシューマン夫妻が辿ることになる運命を予見しているかのように私には思われる」と結んでもいる。

これら一連の文章からしても、川畠さんの近年の演奏における音調の深さの背景を偲ぶことができるというものだろう。アンコールとしては3曲が演奏された。まずブラームスのハンガリー舞曲5番が、続いて、クララ・シューマンのロマンスと比較する意味をも込めてロベルト・シューマンのロマンスが弾き奏でられた。そして、「私は究極の夢想家でもあったシューマンの曲のなかでももっとも夢想的な作品だと思います」と端的に前置きを述べたあと、川畠さんは全身全霊を込め献げるようにしてトロイメライを弾き、この日の演奏を締め括った。

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