続マセマティック放浪記

40. 元朝日新聞社会部記者・穴吹史士さんを偲ぶ

桜の散るこの時節になってようやく、昨年秋から全精力を傾けてきた大仕事がほぼ決着をみた。しばしボーッとしたまま過ごしたい気分ではあるが、日々の暮らしの厳しいこのご時世ゆえ、そうばかりもしてはおられない。この「続マセマティック放浪記」のほうもながらくお休みにしてきたが、またそろそろ、拙い筆を執らせてもらおうと思う。

去る2月16日のこと、私の携帯に一本の電話がかかってきた。そして、その電話の主は、少しかすれるような声で、「本田さん、これは最後のお別れの電話です。長い間ほんとうにありがとうございました……」と話しかけてきた。自らの命の炎がほどなく絶えるのを覚悟したその人物の口調は冷静沈着そのものだった。不意を突かれはしたものの、下手に慌てて感情を昂ぶらせたりせず、ひたすら静かに応じるのがこの際相手に対するいちばんの思いやりだと、私はとっさに判断した。それから40分間ほどにわたって、私たち二人は初めての出合いの頃からの思い出話などを交えた会話を淡々と続けたのだった。もしこの会話の有り様を誰か他人が耳にしていたら、いったいこの二人は何を考えているのだろうかと、その異常さに驚き呆れたかもしれない。
 入院先の病床にあるはずのその声の主は、「葬儀もお別れの会も一切しないようにと家族には伝えてあります」と、その決意のほどを述べ語った。「京大にギリシャ文学を専攻する旧友の教授がいますから、もし、京大にでも出向くようなことがあれば、その教授に私の最後の状況を伝えてあげてください」とも述べた。もちろん、その時にはすでに面会謝絶になっており、私が見舞いに駆けつけられるような状況ではなかったし、また、そんなことをしてもらうのはご当人の美学にも反することに違いなかった。そして、その人物が他界したことを伝える小さな記事が、3月9日の命日から数日経ったあとの朝日新聞朝刊に掲載された。その時たまたま旅先にあった私は、知人からその新聞記事についての知らせを受け、翌日になってからその事実を確認したような有り様だった。

その人物とは、朝日新聞社会部の名物記者として知られた穴吹史士さん……一昔前の「世界名画の旅」シリーズや、beでの「愛の旅人」、「歌の旅人」をはじめとする「旅人」シリーズを次々に企画発案し、自ら率先して名筆を揮った記者でもある。その穴吹さんは「生涯一記者」の信念をものの見事に貫き通し、ここ3年ほどは全身に転移した癌との壮絶な戦いを演じながらも、最後まで記者魂を捨てず執筆活動を続けていた。二十年ほど前、週刊朝日の編集長をやっていた穴吹さんと知り合った私は、その依頼を受けて「怪奇十三面章」なる連載コラムの執筆をしばし担当したりもした。優れた社会部記者である山本朋史さんや、のちにテレビ朝日のニュース・コメンテータをも務めた清水建宇さん(退職後の現在スペインで豆腐店を開業)などは当時の週刊朝日の副編集長を務めていた。
 新聞記者としての穴吹さんの人生には当然それなりの浮き沈みもあった。発行人を務めた雑誌「UNO」の業績不振などの事情もあって、穴吹さんは当時まだ社会的認知度の低かった閑職の電波メディア局へと移動させらされた。一時は少なからず落ち込んだ様子ではあったものの、穴吹さんは、そこで一念発起し、細々とではあるがAIC(アサヒ・インターネット・キャスター)なるウエッブ上のコラム欄を立ち上げることにした。そして、そんな人知れぬご苦労をすこしでも慰安しようと思い一緒に出かけた箱根の温泉の湯船の中で、穴吹さんは、「ギャラは皆無に等しいけれど、なんでも好きなことを自由に書いてもらっていいから、AICに毎週原稿執筆をお願いできないか。作家の永井明さんにも同様のお願いをしてある」と突然に話を持ちかけてきたのだった。
いまは亡き永井明さん執筆の「メディカル漂流記」と私の「マセマティック放浪記」とは、そんな経緯のもと、1998年の秋にスタートする運びになった。むろん、そのコラムの命名をしたのはほかならぬ穴吹さんだった。そして、それから足掛け9年間にわたって、毎週私は拙筆を執り続ける結果となったのである。その後次々に登場した他のユニークな執筆者の方々のお蔭もあって、2年ほどのうちにAICの読者は爆発的に増大し、一部の筋からは朝日の「梁山泊」とまで囁かれたりするようにもなった。
「マセマティック放浪記」の終了後も、私は、穴吹さんの長年にわたるAICの編集業務に敬意を表したいという思いのもと、このホームページ上で「続マセマティック放浪記」の連載の筆を執り続けることにした。「マセマティック放浪記」の頃から、マセマティック(数学)の話などそっちのけの駄文ばかり書いてきたので、「セ」の字を「ゼ」の字に変え「マゼマティック放浪記」とでもしたほうがよかったのかもしれない。だが、穴吹さんが亡くなった今となっては、「続マセマティック放浪記」としてこのコラムを執筆し続けることがその霊に対する最善の供養であるように思われてならない。

去る4月4日、私は、元国土地理院長で現在日本地図センター理事長の野々村邦夫さん、作家で音楽家の鐸木能光さんらと連れ立って、船橋の穴吹邸を訪ねた。野々村さんも、鐸木さんも元AICの執筆仲間である。千賀子夫人のお許しのもと、穴吹さんの霊前に焼香と献花をするのが訪問の目的だった。晩年こよなく中国を愛し、幾度となくその地を訪ねた穴吹さんは、青色の中国服姿でにこやかな笑みを浮かべながら河畔に佇む写真を遺影にしてくれるようにと言い残したのだという。私たちはその遺影の前でじっと合掌し、生前の親交に対する深い感謝の気持ちを表した。またその際、穴吹さんの講演姿を収録したビデオを持参し千賀子夫人に差し上げた。府中市から依頼され「学びの森の散歩道」という講座を企画運営していたことがある私は、その講座の講師に穴吹さんを招いたことがあった。その折の貴重な記録ビデオがたまたま手元に残っていたからである。
 穴吹さんには能面彫りと印章彫りの特技があった。遺影と遺骨の安置された部屋の梁には、孫次郎、小面、翁面、武悪面など、十点ほどのなかなか見事な能面が掛けられていた。むろん、すべてが穴吹さんの作品である。また、メールアドレスに「injin(殷人)」という表記を用い、その「殷人」を自分の号として用いていた穴吹さんは、印章彫りの腕でも知られていた。以前に私は「成親」と彫られた穴吹殷人作の刻印を頂戴し、いまもなお愛用させてもらっている。霊前にお参りしてから数日後、私は穴吹さんの遺影に語りかける献歌一首を千賀子夫人宛てに書き送った。そのささやかな短歌を最後に記して今回の原稿の結びとしたい。

我もまたやがて往くべき彼岸にて逢はんとぞ願ふ涙ながらに (成親)

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