夢想一途バックナンバー

第1回 高村光太郎展を訪ねて

東京はこのところ蒸し暑い日が続いている。南国鹿児島の島育ちだから暑さには強いはずなのだが、近頃の東京の暑さはけっこう身にこたえるようになってきた。気ばかりは若いつもりでいるけれども、もうそれなりに歳をとってしまったということなのだろうか。外出しているときなどにはエアコンのきいているところとそうでないところとを短時間内に交互に出入りしたり通過したりするから、徐々に体温調節機能の劣化しだした身体のほうが、もう対応能力の限界だと悲鳴をあげかけているのかもしれない。

身のほど知らずと言われればそれまでだが、そんな猛暑のなかを仕事がらみで一日あちこちと歩き回った。そしてそのついでに新宿の損保ジャパンビル42階の東郷青児美術館で開催中の「高村光太郎展」を訪ねてみた。高層ビルの上階に位置しているとあって、受付手前のスペース脇の窓からは都心方面や東京湾一帯の景観を一望することができた。

高村光太郎は、当時の高名な仏師として知られ東京美術学校(現東京芸術大学)の教授にもなった高村光雲を父にもつ。会場には、杵を手にした兎が臼に向かって餅をつく姿を彫った「月宮殿」、羽を繕う二羽の鳩を彫った「鳩」、一匹の猫が団扇の上で気持ち良さそうに眠る姿を捉えた「団扇に眠る猫」など高村光雲の作品も展示されていたのだが、それらの作品からは、「仏師」という固いイメージからは想像できないような柔軟で奔放な発想の数々を感じ取ることができた。仏像作品に見られるような精緻そのものの仕上げにはなっているのだが、厳格な伝統的形式美をどこか超越した雰囲気が作品全体から漂い出ているのは、私にとってはなんとも意外なことであった。高村光太郎の伝記を通して想い描いていた光雲の作品イメージとはずいぶんと異なるものだったからである。しかし、西洋に端を発する近代芸術思想に目覚めた光太郎の鋭い感性と自由奔放な精神は、そんな父、高村光雲の率いる伝統彫刻の世界におさまることを潔しとしなかった。

幼児期から小刀を手にし、将来の仏師界の第一人者となるべく英才教育をほどこされた光太郎の彫刻技術は、東京美術学校を卒業する頃には既に完成の域に到達していたようである。それにもかかわらず、光太郎は最終的には父の期待とは裏腹に、生活の安定の見込める仏師界の総帥への道を放棄し、東京美術学校教授への招聘を拒絶した。そして、日本の近代彫刻界の草分け的存在として苦難の道をひたすら突き進むことになった。

どちらかというと、世間では詩人・評論家・作家・翻訳家などとしての名声のほうが高い光太郎だが、実際には彼はなによりもまず彫刻家であり、またそれ以外の何者でもなかったといえるだろう。作品の焼失をはじめとする諸々の事情で現存する光太郎の彫刻作品は数すくないといわれるが、夭折のゆえにやはり寡作であった親友の荻原碌山(守衛)と並び、日本近代彫刻の租であったことは間違いない。

光太郎に衝撃を与えその魂を近代彫刻の世界へと導いたのは「考える人」や「地獄の門」などの作品で知られるオーギュスト・ロダンにほかならない。ロダンの作品の写真に感動した光太郎は、東京美術学校西洋美術史教授岩村透の強い勧めもあって、ニューヨーク、ロンドン、パリを主とする三年間の海外留学のために渡欧する。その旅先で光太郎は荻原碌山とめぐり逢い親交を結ぶことになった。

日本近代彫刻発展のため共に苦闘した盟友で、ロダンの直弟子でもあった荻原碌山と異なり、光太郎自身はパリに渡った折にもロダンその人に直接会うことはなかったという。だが、名訳書「ロダンの言葉」からもわかるように、ロダンへの光太郎の傾倒ぶりは並大抵のものではなかったようである。愛を愛として、歓喜を歓喜として、迷いを迷いとして、苦悩を苦悩として、悲しみを悲しみとして、さらには怒りを怒りとして、人間の心のひだをあるがままに、しかもそれらの本質をそれまでなかったほどに見事に具現化してみせたロダンの作品やその思想に若き日の光太郎の魂は深く魅了されていったのである。

荻原碌山のほうは、「愛は芸術なり、相克は美なり」という言葉に象徴される師ロダンの信念そのままの生き方で、一個の生身の人間として相馬黒光を激しく思慕しつつ彫刻に没頭し、生前には作品を評価されることもないままに短いその生涯を電光のごとく駆け抜けていった。いっぽう、そんな碌山と違い、光太郎の体内には。自我に目覚め個としての生の意味を問う「近代」という名の蛇と、民族や国家に自己存在の根源を求めそれを通し自然界への回帰を願う「伝統」という名の蛇とが同時に棲みついていたように思われてならない。そして、それら二匹の蛇は彼の生涯にわたってその体内で互いに激しく絡み合い戦い続けていたのではないかと思う。

東京美術学校卒業時の制作である塑像「獅子吼」は若き日の日蓮の姿をイメージして造られたものだという。なんとも凄みのある作品なのだが、深い苦悩を秘めた双眸がその苦悩そのものをも射通すような鋭さで遠くを見据える壮絶な姿は、ほかならぬ光太郎自身の姿でもあったに違いない。遠く鋭い視線の向こうに容易には到達できそうにない理念の浄土と理想郷との存在を感じさせるのは、内奥深くで二匹の蛇のうごめく光太郎ならではのことだったのかもしれない。荻原碌山にも昔実在した僧侶をモデルにした「文覚(もんがく)」という同様のブロンズ作品(碌山美術館所蔵)があるが、そちらのほうは愛に悶えそのゆえに愛人を殺めた過去をもつ文覚の苦悩と自戒の内面がそのまま表現されている。両者の作品に甲乙はつけがたいのだが、日蓮と文覚という題材選択の対照性をはじめとするその表現の違いは、おのずから二人の天才彫刻家を育成した環境の相違を物語っているのだろう。

欧州から帰国した光太郎には東京美術学校の教授職や光雲傘下の仏師や彫刻師たちを統括する会社設立の話などが待っていた。しかしながら彼はそれらの話をことごとく拒絶し、ロダンの作品に象徴されるような芸術の革新を提唱、その主張にそった啓蒙運動を展開した。ロダン、ゴッホ、ゴーギャン、ロートレック、マチスといったヨーロッパの新進芸術家たちを紹介する評論を執筆し、白樺派の詩に傾倒し自らも詩作に没頭しはじめたのはこの頃のことである。ただ、批判の対象でもあったはずの父光雲の代作をやりながら糊口を凌ぐその生活は現実には矛盾に満ちたものであり、次第に頽廃化した彼の肉体と精神は危機的状況へと陥っていった。当然のことではあるが、その間に彫刻作品が制作されるようなことはなかった。

この光太郎の心身の危機を救ったのはほかならぬ福島県白河出身の長沼智恵子であった。女性にとっての当時の最高学府でもあった日本女子大で学び、画家志望でもあった智恵子が、光太郎との長い共同生活を営みながら物心両面で彼を支え、正式に入籍し高村智恵子となってからもあれこれと陰で算段しながら厳しい家計を懸命に切り盛りし、夫の表現活動に貢献したのはよく知られている通りである。

自然の大地そのもののような智恵子の身体から漂い出る霊気によって、頽廃の汚泥ですっかり穢れ朽ち果てかかっていた光太郎の心身は洗い清められ、彼は絶望寸前の状況にあった精神の危機から立ち直った。そして再び彫刻家としての腕を揮うようになっていったのである。今回の高村光太郎展の圧巻ともいうべき「手」や「腕」といったブロンズ作品は智恵子と出逢い共同生活をするようになってから数年後に制作されたものである。

善・悪・美・醜のいずれのものをも生み出しうる人間の手をモチーフにした「手」、「腕」というそれら両作品も圧倒的な存在感をもって私の心に迫ってきた。力感に溢れ、沸き滾るような感情の昂揚を彷彿とさせる「腕」のほうはその作品を所蔵している穂高町の碌山美術館で何度も目にしたことがあったが、このうえない繊細さとどこか抑制のきいた理知の輝きをも感じさせる「手」のほうを目にしたのは初めてのことだった。見方によっては対をなすとも思われるそれらの作品にしばし私は見惚れていた。

展覧会場には、年代的にそのあとに続くさまざまな木彫類も展示されていた。「はぜ」、「蝉」、「柘榴」、「鯰」、「うそ鳥」、「桃」といったような作品群がそうである。意図的に精緻な彫りに徹することを避け、粗く大胆な刃捌きで彫り上げられた作品ではあるが、その一見粗っぽく見える彫り方のゆえにそれらの動植物は木彫とは想われないほど内的生命力に溢れている。光雲の彫った動物作品と比較してみるとその違いは一見しただけで明らかである。ヨーロッパの近代彫刻が光太郎に与えた影響というものがすくなからず現れているといってよいのだろう。これらの作品は生計を支えるための頒布品として制作されたものだといい、実際好評を博して売れ行きも上々だったというが、その完成度はきわめて高いように思われる。

生活のためにそれらの作品を次々と手放すことについてはとくべつ迷いはなかったようで、光太郎自身は世間が喜んで自作を購入してくれることにむしろ満足をさえ覚えていたという。裏を返せば、それは、そのくらいの作品ならいつでも造ることができるという自信の現れでもあったのかもしれない。幼児期から時間をかけて体内深くに形成された彫刻家としての魂のようなものがごく自然にはたらき、べつだん意識しなくても個々の作品に小宇宙を埋め込むことができるようになっていたのだろう。

昭和5年の小作品「栄螺(さざえ)」を制作するにあたって、光太郎は当初ずいぶんと戸惑い苦心したといわれるが、栄螺のなかに生命体固有の軸なるものを発見することによってついに彼は完璧な作品を創造することに成功する。栄螺を外から描写したのではなく、内なる栄螺の生命が自然に表出した形象として仕上げられたこの作品は、展覧会場にあってひときわ異彩を放っている。おなじ年に制作された雌雄の「白文鳥」は美術の教科書などにもその写真が載っている有名な作品だが、まるで人間の瞳をも想像させるようなその目の輝きといい、閉じてはいるがいまもなにかを囁きだしそうなその嘴といい、さらには大きく張り出した胸部の秘める生命感といい、それら二羽の文鳥は光太郎と智恵子の姿そのものであるとみなしても間違いではないだろう。

しかしながら、ほどなく知恵子の身に悲劇が訪れる。陰にあって二人の生活を支えてもくれていた白河の実家が倒産したことを隠したまま智恵子は懸命に光太郎との暮らしを続けたが、以前から徐々に進行していた胸の病状が急激に悪化、しかもその精神におおきな異常をきたすようになっていった。

会場にはそんな智恵子が他界する直前の入院生活の間に制作された紙絵が20余点展示されていたが、どことなく生活感の漂う独特の感覚に満ちたそれらの作品は、「知恵子抄」に謳われている姿とはまた一味違う彼女の一面を偲ばせてくれもした。そのなかに柘榴をモチーフにした作品があるのだが、紙絵という特殊な表現技法が用いられていることもあって光太郎の木彫の柘榴とは質感もイメージもまったく異なるものになっており、両者を対比しながらて見るのはとても興味深いことだった。

昭和13年、肺結核が原因で智恵子は入院していたゼームス坂病院において53歳の生涯を閉じた。病状が進み精神にも異常をきたしていたとはいっても、なお心の伴侶であり続けた知恵子の死は、はからずも光太郎の内面に大きな変化をもたらすことになった。智恵子の姿に大自然の化身ともいうべきものを見出し、無意識のうちにそれを拠り所にしてきた光太郎は、彼女の死後、国家共同体あるいは民族共同体とでも呼ぶべきものに精神の拠り所を求めるようになっていた。それは、智恵子という「自然」を背景にもつことによって優勢を保ってきた光太郎のなかの「近代」という名の蛇、すなわち自我の目覚めと個としての生の重さを象徴する蛇が、それまで劣勢であった「伝統」という名のもう一匹の蛇、すなわち民族や国家に自己存在の根源を求め自然界への集団回帰を至上のものとする蛇によって圧倒されはじめた瞬間であった。その結果、光太郎は自己の存在を無化し、共同体と運命をともにする道を選ぶことになった。

日中戦争が激化し太平洋戦争へと発展するに至って、光太郎が拠り所とする共同体はもはや狂気としか言いようのない様相を呈するばかりであった。だが、そんななかで、彼は運命共同体を礼賛し、その共同体が崇高なものとする戦いを通しての自然回帰、すなわち「死」を美化する詩を書いた。「秋風辞」や「未曾有の時」などのような悲壮感の漂う美しい詩は、戦時中の若者らの心情にすくなからぬ影響を与え、結果的に彼らを戦場へと煽り立てることにもなった。

太平洋戦争末期の東京大空襲によって数々の彫刻作品の原型や詩作草稿などのおかれていたアトリエが跡形もなく焼失し、すべてが灰燼に帰したあと、光太郎は岩手県花巻の宮澤清六宅に仮寓し賢治の残した各種作品の整理とその出版準備に参画した。しかし、不運なことに花巻空襲でまたもや焼け出され、近くの知人宅にしばし身を寄せたあと、深く考えるところあって、早池峰連峰の山麓に位置する岩手県稗貫郡太田村山口の粗末な山小屋に移住することを決意した。

その間に日本は敗戦を迎えることになり、光太郎が抱いた民族共同体幻想は無残に破綻し潰え去った。そのことによって光太郎の彫刻の本質が全面否定されたわけでも、またそうされるべきものでもなかったが、敗戦によって彼が被った外的な批判や内両面的な衝撃はひとかたならぬものであった。再び自己精神崩壊の危機に瀕した彼は、自然環境の厳しい僻地にあるその山小屋に独りこもり、「醜」と「慙じ」という言葉でその身を自嘲し戒めもした反省の日々を送ることになった。厳冬期には猛吹雪きのために小屋が雪に埋もれ、あちこちの隙間から吹き込んでくる粉雪が夜着の上に積もるほどの環境の中で、現実の自然の凄まじさと対峙しながら自己断罪とも自己贖罪ともいうべき隠遁生活に甘んじた。

その身体は肺結核に蝕まれ、喀血を起こすほどにその病状は進行していたが、早池峰山麓にこもったこの時期、彼はそれまでの人生を回想し反省もしながら様々な詩や随想を書き綴った。「暗愚小伝」はそんななかで生み出された随想作品のひとつである。

それから7年余の歳月が流れ去ったあと、70歳になった光太郎はその人生最後の彫刻作品の制作にとりかかった。「裸形」という詩のなかで「智恵子の裸形をこの世にのこしてわたくしはやがて天然の素中に帰らう」と謳った彼は、現在も十和田湖休屋御前ヶ浜の一角に立つ裸婦群像の制作を通してその言葉を文字通り実践しようとしたのだった。帰京して東京中野区の知人のアトリエに移った彼はそこで原型像の試作に没頭するようになった。

そしてその翌年、向かい合う同型二体の裸像からなる裸婦群像の除幕式が十和田湖畔で催された。

光太郎展会場にはこの裸婦群像の小型試作と中型試作のブロンズ二点も展示されていた。右手を自然に垂らし、左手の掌を垂直に立て軽く前方に差し出すようにして佇む豊饒な裸体は、現代的な感覚からするとけっしてスマートな美しい婦人像であるとはいえない。しかし、大地にどっかりと根をおろしたような、いやむしろ大地の底から地上に芽生え突き出した母なる大地の化身そのもののような裸婦像こそは、光太郎が生前の智恵子のなかに見出した自然の本質にほかならなかたのであろう。

裸婦群像が完成してから3年後の昭和31年、肺結核の悪化が原因となって光太郎は74歳でその生涯を閉じた。かつて彼自身が、

粘土の「絶望(ディスペア)」はいつまでも出来ない
「頭が悪いので碌なものは出来んよ」
荻原守衛はもう一度いふ
「寸分も身動き出来んよ。追いつめられたよ」
四月の夜更けに肺がやぶけた
新宿中村屋の奥の壁をまっ赤にして荻原守衛は血の魂を一升吐いた
彫刻家はさうして死んだ……日本の底で

と詩を詠んでその夭折を悼んだ日本近代彫刻開拓の盟友荻原碌山(守衛)の死から46年後のことであった。

高村光太郎展を一通り見終えたあと、この美術館に常設展示されている有名なゴッホ作の「ひまわり」とゴーギャン作の「アリスカンの並木道」を久々に鑑賞した。一輪一輪の花や一枚一枚の葉はいうにおよばず、小さな花びらのそれぞれまでが個々の生命体であるかのように感じられる「ひまわり」を眺めながらゴッホの数奇でしかも不遇な生涯を想い、またアルルの共同墓地周辺の静寂な風景を描いた「アリスカンの並木道」の前に立ちながら、ゴーギャンの破天荒な人生に遠く想像を馳せらせた。

この東郷青児美術館本来の収蔵品である東郷青児の絵画作品は光太郎展の関係もあって今回ほとんど見ることができなかったが、それでも会場出口付近に展示されている青児18歳のときの「コントラバスを弾く」という作品を目にすることはできた。カラフルな色調の抽象画風の作品ではあるが、まだ封建色の強かった時代の薩摩に生まれた18歳の若者がこの斬新かつ凄みのある作品を制作したのかと思うと、時代をはるかに突き抜けたその才能の輝きのほどにひたすら驚嘆を覚えるばかりだった。青児には「ノスタルジア(望郷)」をはじめとする幻想的なタッチで美しい女性像を描いた数々の作品が存在する。それらの作品中の女性像は今日の我々の目からしても超モダンだと言うしかない。大正ロマンの世代といえばそれまでなのだが、質実剛健という言葉で象徴される古い体質の残っていた当時の薩摩出身のこの天才画家の超時代性が、おなじ薩摩育ちの私には不思議なものにさえ思われてならなかった。

風土や家風というものは人を育てる。しかしそこでしっかりと育った若者はやがてその風土や家風を絶対とする者たちの期待や要請を裏切り、その風土や家風を大きく超越して自己実現を試みる。そして、未来社会においてはじめてその異彩は花開き意味をもつ。時代も異なるしまた両者の業績にもまったく共通性がなににもかかわらず、故郷薩摩の風土を裏切ることによってしか近代日本の礎を築きえなかったに違いない大久保利通の姿と東郷青児との姿が私には重なって見えた。それはまた、程度の違いこそあれ、高村光太郎においても、荻原碌山においても、高村智恵子においても、さらにはゴッホやゴーギャンにおいても共通することのように感じられてならなかった。

そんな想いが胸中であれこれと錯綜していたからでもあろうか、東郷青児美術館をあとにして新宿駅へと向かう道すがら、久々に私は高村光太郎のあの有名な詩を思い起こした。

〈道程〉
僕の前に道はない
僕の後ろに道はできる
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守ることをせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

さらにまた、光太郎のその詩が誘い水となって、アジア人初のノーベル賞を受賞したインドの大詩人タゴールの詩の一節が、半ば健忘症になりかけている私の脳裏に甦ってきたのだった。芸術家として抱くべき決意と自負と理念とが謳い込められているという点で、それら二つの詩には共通するものがあるといってよい。

道ができている場所では わたしはわたしの道を見失う
大海には 青空には どんな道も通っていない
道は小鳥の翼のなか 星のかがり火のなか
うつりゆく季節の花のなかに隠されている
そこでわたしは わたしの胸に尋ねる
おまえの血は 見えざる道の知恵をもっているかと
(1861年 ラビンドラナート・タゴール)

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