夢想一途バックナンバー

第33回 人間ドラマの舞台

(15) 東京深川門前仲町界隈――下町人情劇の舞台

お不動様と名代きんつば店

地下鉄東西線の門前仲町駅を出ると、そこはもう深川不動の門前町だ。駅そばの鰻の老舗「かね松」の看板を目にした途端、私の体内時間はいっきに40年ほども逆行した。学生時代、私は門前仲町駅からほどない深川牡丹3丁目に住んでいた。貧乏学生だったから「かね松」で鰻を食べる機会などまずなかったが、その看板だけは日々目にしていたのでなんとも懐かしいかぎりだった。久々の深川、まずは不動明王の威容を拝せんと門前の商店街を素通りし本堂前へと足を運んだ。近年、本堂背後に大きな内仏殿が増築されたため、昔の不動堂とはかなり異なる趣になってはいたが、堂内に入り正座して仰ぎ見る不動明王坐像の存在感は以前のままだった。増築された内仏殿四階の宝蔵大日堂では、中島千波画伯筆の天井画「大日如来蓮池図」が無料公開されてもいたので、そちらのほうへも足を向けた。

再び参道に戻ると、私は一軒の老舗を探し始めた。かつては参道奥左手に「きんつば・清水」という江戸時代創業の名代きんつば屋があった。一日に三百個ほど製造するきんつばを一人に一個しか売ってくれないという風変わりなお店だったが、それでも日々行列ができ、たちまち売切れてしまう有様だった。評判を呼ぶだけのことはあって、口に入るとすぐにもとろけてしまいそうなそのアンコの味は、いまだに忘れられないほど美味であった。あの味をもう一度と清水屋を探したがどうしても見つからない。きんつばを売っているお店はあったがまるで物が違っていた。そこで、地元の人に「以前、きんつば・清水という老舗がありましたよね?」と尋ねてみると、「あそこが昔のきんつば屋さんですよ。いまは清水甘酒店となってますけどね」との想わぬ返事が戻ってきた。看板さえも掛かっていないその小さな店を訪ねると、店頭に老婆がいて二人の女性客に応対しているところだった。店内の客席は三人がやっと坐れるほどで、私は空いている席に先客と並んで腰をおろし、一杯300円の甘酒を注文した。メニューなどは一切なく、売られているのはその甘酒一品のみだった。冷え込みの厳しい日のことだったが、長湯呑に入れて出された熱い甘酒をすすると私の身体はたちまちにしてポカポカと温まった。狭い店内の壁には「名代きんつば・清水さんへ」と記された往年の大きく立派な寄贈額や、江戸期の深川不動参道の様子を描いた古い絵画の写真などが掲げられていた。先客の御婦人方が席を立ち二人だけになったところでこちらの来意を伝えると、当年88歳になるというその老婆の清水政子さんは快くこちらの話に応じてくれた。清水さんによると、もう25年も前にきんつば屋は閉店したのだという。一族で懸命に老舗の暖簾を守ってはきたが、最後の職人となったお兄さんが亡くなる際、末っ子だった政子さんに、「年期の入った男手がないと伝統のきんつば作りは難しいから店は閉めるように」と言い遺したのだという。ちょうどその折、長年甘酒売りをやっていた近所のお婆さんの具合が悪くなったので、きんつば屋を閉じた清水さんはその甘酒販売の仕事を引き継ぐことにしたのだった。清水さんは、「きんつばのアンコを作るだけでも8時間はかかりました。そして、それを薄皮に包んで焼き上げるのにまた何時間もかかりましたから、一日に300個ほど作るのがやっとでした。すべて手作りでないと本物の味は出せませんし、当然体力も要りましたよ」と言いながら、奥から昔のきんつばの写真を取り出してきてくれた。それは私にも見覚えのある直径7~8cmほどの円いきんつばの写真だった。清水さんは、「金鍔(きんつば)は、もともと刀の鍔をイメージしたものだったのです。でもいまの金鍔のほとんどは長四角ですよね。あれは六方焼きと呼ばれていたもので本物の金鍔ではありません」とも説明してくれた。

清水さんはまた、「直木賞作家の山本一力さんもよくこの店に見えるんです。山本さんと私とが話し込んでいる写真がここに掲載されていますよ」と言って一冊の雑誌を差し出してくれた。江戸人情物の名作「あかね空」で直木賞を受賞した山本さんは、深川やその近隣を舞台にした時代小説で知られる現代の売れっ子作家で、先年まで門前仲町の隣の富岡町に住んでいた。いまや東京の下町ではその名を知らない人などいない名士である。実を言うと、まだ二十歳代だった若き日の山本さんを育てたのは、最近まであるプランニング会社を経営していた私の親友だったのだ。その親友のことを山本さんはいまもボスなどと呼んだりしているのだが、そんな奇縁で私もまた当時から山本さん、いや、「山本君」をよく知っていた。清水さんにその話をすると、さすがにびっくりなさった様子だった。

深川不動堂(手前)と内仏殿(後方)

深川不動堂(手前)と内仏殿(後方)

清水甘酒店

清水甘酒店

忠敬と相撲にゆかりの富岡八幡

次に私が足を向けたのは、むろん富岡八幡宮だった。大鳥居をくぐったすぐ左手のところには真新しい銅像が立っていた。近づいてみると、なんとそれは伊能忠敬の銅像だった。忠敬は50歳の時に江戸に出て黒江町(現在の門前仲町1丁目)に隠居所を構えた。そして、寛政12年4月19日(1800年6月11日)早朝、この富岡八幡宮に参拝したあと蝦夷地測量の旅に出た。他地域の測量に旅立つ際も、忠敬は必ず富岡八幡宮に参詣し旅の無事を祈願したという。忠敬と富岡八幡とのそんな縁に基づいて2001年10月この境内に測量の旅姿の銅像が建立されたらしい。神前で手を合わせたあと社殿の右手奥にある横綱力士碑の前に立った。学生時代何度となく訪れた場所であるだけに懐かしさもひとしおだった。この顕彰碑は江戸期最後の第12代横綱陣幕九五郎らの尽力で明治33年に建立された。前面左右には肥後出身の横綱不知火光右衛門と陣幕久五郎の姿を彫り刻んだ石が配してある。また「横綱力士碑」の文字を刻んだ大石碑の裏とその両脇の石碑には、寛永元年その地位に就いた初代横綱明石志賀之助から平成15年に第68代横綱となった朝青龍明徳までの代々の横綱の名が彫り込まれ、相撲史の伝承に一役買ってきた。そのほか境内には2m26cmもの身長があったという釈迦ケ岳ら巨漢力士数名の背丈を刻んだ巨人力士身長碑などもあって、日本人の平均身長がいまよりずっと低かった時代にも2m20cm前後の巨人がいたことを物語ってくれている。古来庶民に親しまれてきた相撲は、江戸時代に入ると幕府公認の勧進相撲(寺社修復の費用調達を目的とした興行相撲)へと発展した。幕府が初めて公認した勧進相撲は貞享元年(1684年)にこの富岡八幡宮で開催され、以後、春秋二場所のうち一場所は必ず富岡八幡宮で催されるようになった。だから、江戸勧進相撲の発祥地であるこの八幡宮に横綱力士碑が建てられたのは当然のことだった。横綱力士碑の右脇を抜けて社務所裏手にまわると今度は七渡弁天の祠の前に出た。一昔前、岡本綺堂原作の時代劇「半七捕物帖」が一世を風靡していたことがあったが、七渡弁天一帯はその作品の舞台となりテレビドラマにも幾度となく登場した。以前は朱塗りの木の鳥居がもっとずらりと建ち並んでいたのだが、いまはもう申し訳程度のごく僅かな数の鳥居しか残されていなかった。

富岡八幡宮拝殿

富岡八幡宮拝殿

伊能忠敬像

伊能忠敬像

横綱力士碑

横綱力士碑

七渡弁天

七渡弁天

甦る青春の日々

富岡八幡をあとにした私の足は自然と牡丹3丁目へ向かった。富岡町から牡丹3丁目に行くには旧運河に架かる東富橋を渡ればよい。東富橋手前の運河沿い一帯はかつて巽芸者の本拠地として名を馳せたところだった。江戸時代から吉原の向こうを張ってきた巽芸者の本領は、洗練された知性と下町ならではの人情ときっぷのよさ、さらには吉原にはない庶民性だった。私が住んでいた頃までは数寄屋造りの古風な家屋が軒を連ねて建ち並び、宵の刻にもなると運河に面する部屋部屋からは三味線や長唄の音色が流れ響いてきたものだった。いまはもうそれら芸者宿の家並みは消え去り、諸々のレストランや小洒落た料理屋、各種の事務所などに様変わりしていた。

だが、東富橋を渡り琴平通りと交差する一番目の道路を横断し終えた時、私は思わず「まだあった!」と大声で叫び出しそうになった。私が間借りしていたのは峯木さんという靴屋の二階の四畳半部屋だった。当時でもかなり古い家であったが、信じ難いことに40年近く経った今もなおその建物が残っていたのである。すべての窓も扉もシャッターも閉め切られ、誰も人は住んでいない感じだったので、近所の古老に近況を尋ねてみると、すでに家屋は売却され親族はどこかへ引っ越されたとのことだった。周辺の家々はみな近代的に様変りしているのに、旧峯木宅だけが時間が止まったかのように昔日の姿のままでそこに建っているのはなんとも不思議な光景だった。当時、私は江東区塩浜2丁目にあった東京シャーリングという会社で夜警のアルバイトでやっていた。そのため、バイト先に近いその靴屋さんの貸し間をたまたま探し当て、そこに住むようになったのだった。入居して間もなく、世話好きな大家の奥さんから、「この部屋に住むのは風変わりな人が多いんですよね」と言われた時は、どうやら自分も変人の部類に入れられているらしいなと思っただけで、それ以上深くは考えてみなかった。その言葉の意味を知ったのはかなりのちになってからだった。私が「風変わりな人」の何代目で、先住者らがどんな人々だったのか詳細は聞きそびれたが、すくなくともその中の二人の人物だけは判明した。一人はのちに東大助教授から作家へと転身した学生時代の丸谷才一さん、いま一人は楢山節考の作者である故深沢七郎さんだった。深沢さんは、月の綺麗な夏の晩などギターを抱えパンツひとつで近くの運河べりへと出かけ、歌と演奏に耽り興じていたという。そんなある日突然に記者やカメラマン数人が峯木靴店に押しかけてきた。そこで初めて、大家の峯木さんは深沢さんの文学賞受賞を知ったようなわけだった。その峯木さんは根っからの下町気質の職人さんで、店に並ぶ高めの革靴を所望する客があったりすると、「お客さんのその靴は修理するともっともっと履けますから、まだこんな靴お買いになる必要はありませんよ」と言いながら、鮮やかな手つきで客の靴を即座に直してしまうような方だった。

感慨にひたりつつ旧峯木宅をあとにした私は、古石場や木場を経て塩浜方面へと足を向けた。途中の古石場にはかつて老夫婦の経営する「千代」という小さな食堂があり、当時はずいぶんとお世話になった。元石川島重工播磨の技師だったご主人と元巽芸者で俳人水原秋桜子の直弟子だったという女将の千代さんは、ある時駆け落ちしてそこで共に暮すようになったらしかった。築地から魚のアラを入手してきて、勝手に料理して食べていいよと閉店後調理場を開放してもくださった。貧乏な身ゆえ安いマクロのブツを注文するのが常だったが、来客のほとんどはその二、三倍は値のするマグロの刺身を食べていた。ある時たまたま女将が刺身もブツも同じ材料を使っているのに気づき、そっとその訳を尋ねてみた。すると女将は、「切り方が違うのよ」と言いながら悪戯っぽく笑ってみせた。貧乏学生への粋な計らいだったのだ。古石場から木場を抜け、雲雀橋の上からかつてはダルマ船の頻繁に往来していた運河の水面を眺めやった。雲雀橋のたもとには寄せ集めの古材で造った異様な家がいまもなお残っていた。ある日突然独りその地に現れた中年女性は、自ら持ち込んだ廃材でそこの空き地にごく粗末な小屋を建てた。明かに不法占拠だったのだが、生活力旺盛なその女性は夜毎どこからか廃材を運んでは徐々にその小屋を拡張し、ついには芸術的にも映る不思議な風情の一軒の家を造りあげた。そして、どこからか3人ほどの子供が現れそこに同居するようになった。夜警のバイトに通うついでに私はその一部始終を驚嘆の目で眺めやっていたものだった。すでに電線が引かれているところからすると、のちに定住権を得たのであろう。バイト先だった塩浜の工場は姿を消し、跡地には違う会社のビルが建っていた。私はすぐそばの浜崎橋の上に立ち一帯を見渡した。暗く淀んだ空気の漂っていたあの工場街はいまや近代的な高層マンション街へと変貌を遂げていた。

旧峯木宅(2階左手の部屋に住む)

旧峯木宅(2階左手の部屋に住む)

夕日に映える運河

夕日に映える運河

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