(7)神威岬
窓越しに差し込む朝日に促されて目を覚ました私は、すぐさま車外に出て、かすかに潮の香りのする大気を胸一杯に吸い込んだ。時計を見るとまだ午前5時だったが、頭上に広がる真っ青な空は、「何をしてるんだ。さっさと動きださんかい!」と叱咤にも近い調子で語りかけてくる。私は、近くの水場でそそくさと顔を洗うと、神威岬に向かうべく、車のエンジンを始動して余別トンネルの入口付近まで引き返し、そこで再び車を駐めた。
かたわらの岩場には「日本で一番夕日の美しい所」という看板が立っている。夕日の美しさで名高い神威岬までは、草内と呼ばれるこの地点から岬につづく尾根伝いに歩いて40分ほどの道のりである。夕日の名所を朝日が昇って間もない時刻に訪れるなんて、なによりもまず旅のセンスを疑われてしまいそうだが、常識に逆らった道行きにはまたそれなりの味もある。
朝早いせいか人影はまったく見あたらない。岬の一帯を独り占めした気分である。やわらかに輝く緑の草地を分けて延びる小道の両側の斜面には、黄も鮮やかなエゾカンゾウが点々と咲き広がっている。そして、ときおりかすかな海霧が湧き昇り、ふんだんに朝露を含んでつややかに光る花々の間を、ゆるやかな風に乗って流れ去っていく。
爽快な気分で歩を進めるにつれて次第に尾根幅が狭まり、それにかわって青く輝く海原が眼下に大きく広がり始めた。そして、北海道では2番目に古い歴史をもつという燈台の脇を抜けるとすぐに、海面からおよそ80メートルの断崖上に位置する神威岬の突端に出た。江戸時代末期の安政3年頃までは、峻険な地形のこの岬一帯は女人禁制の地であったらしい。足元が垂直な断崖になっているせいか、感覚的には80メートルをはるかに超えているようにも思われる。
岬のかなり沖合いの海中には、巨大な神像を連想させる異形の岩が屹立している。高さ4,50メートルほどはあろうか…これぞ世に名高い神威岩である。左右に目を転じると、そのほかにもいくつかの奇妙な形の岩々が、水面を突き抜けて鋭く宙に迫り出していた。
岬の真下から神威岩付近にかけては、緑の海草に覆われた岩礁地帯が続いていて、寄せては返すきらめくような青潮とそれを受け止める岩々とのあいだで、いつ果てるとも知れぬじゃれあいが続いている。昔から航海の難所としても知られるこの神威岬だが、朝凪の時刻がらもあってか、そんな荒磯の気配はほとんど感じられない。しばし岩上に腰を据えた私は、何を想うというでもなく、崖下の磯辺からかすかに響きわたってくる潮騒にひたすら耳を傾けた。
ちょうどその時のことである。岬を独り占めにしたつもりでいた私は、すぐそばの岩蔭に異様な人影を発見し、ぎくりとして一瞬身をこわばらせた。黒っぽい服に身をかためた不審な男が、大きな岩のくぼみから日焼けした顔だけをのぞかせ、双眼鏡で眼下の岩場を見張っている。そして、ときおり、小型のトランシーバーらしいものを取り出しては、ひそひそとなにやら話を交わしている。
それまで気がつかなかったのだが、男が双眼鏡でのぞいている斜め下方の岩場のあたりに目をやると、樹脂製の小型レジャーボートやゴムボートらしいものが合わせて4・5隻浮いているではないか。ボートには数人の人影が見えるのだが、肉眼では何をしているのかはっきりとは見分けられない。ただ、場所が場所だけに、その有様は磯遊びにしては不自然だった。岩蔭の男が交信している相手は眼下のボートの連中に違いないと思った私は、彼らが何かの密輸入でも企んでいるのではないかと早合点しそうになった。
すくなからぬ緊張感を覚えながら、私はしばしその様子を脇から窺っていたのだが、そうこうするうち、岩蔭の男と一瞬目が合った。見てはならぬものを見たなとばかりに、この岩上から突き落とされたらひとたまりもないという思いがちらりと脳裏をよぎりもしたが、ジタバタしても仕方がない。ここはまあ落ち着けと自らに言い聞かせ、こちらから男のほうへと近づくと、機先を制して、「何をなさっているんですか?」と、丁寧な口調で声をかけてみた。すると、意外なことに、相手はすぐに自分のいる岩蔭に私を招き入れ、眼下のボートをのぞいてみろと言わんばかりに、黙って双眼鏡を差しだした。
すすめられるままに、双眼鏡を手にしておそるおそる焦点を合わせると、2隻の船外エンジン付き小型レジャーボートと3隻のゴムボートが視界の中に飛び込んできた。そこで、さらに焦点を絞り込むと、それらのボートに分乗したカラフルな水着姿の数人の男女の影が浮かび上がった。そのほかにも、ボート周辺の海中に、ウエットスーツに身を包みアクアラングを背負った、3・4人のダイバーらしい人影が見える。一見したところ、都会から磯遊びにやってきた若者の一行という感じなのだが、午前6時半という早朝の時間帯であることを思うと、彼らの行動はいまひとつ腑に落ちない。
私が双眼鏡をのぞいている間に、かたわらの男はまたトランシーバーを取り出すと、どこかに潜んでいるらしい相手となにやら交信をしはじめた。双眼鏡をもつ手をやすめてさりげなく耳を澄ますと、「いまのところ、異常なし…だが、今日は奴らは必ず動くと思う…よろしく待機頼む」という男の話声に呼応して、「了解…箱はかなり積んでるか?」という誰かの声がどこからともなく戻ってきた。箱というのは、どうやら、ボートに積まれている10個ほどの青い大型クールボックスのことらしい。
「いったい、あれはなんですか?」と、いまひとつ状況の呑込めない私が不思議そうにそう尋ねると、
「あいつらかい、ありゃ札幌あたりからやって来た手の悪いヤクザグループだよ。今週なんかもうこれで4・5回目なんだ…」と、男はいまいましそうな調子で応えた。
「暴力団がなんでこんなところに?」
「あいつらは、レジャーを装って一仕事しにきてるんだ!」
「すると、あなたは警察関係の方ですか?…それにしても、こんな海で暴力団が一仕事って…いったい?…」
「俺かい?…俺はまぁ、地元の漁師だけんどよぉ…」
私の問いかけに意味ありげな短い言葉を返した男は、ちょっと気持ちを整理でもするかのごとく一呼吸おいたあと、吶々とした語調で思いもかけぬ苦労話をしてくれた。